読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

消えてしまったものと再会する奇跡――「君の名は。」感想文と少しの考察

 

「【感想文】「君の名は。」について」/「響き」の小説 [pixiv]より転記。

 

◆はじめに

 

 ※本感想文は、2016年8月26日に公開された新海誠監督作品「君の名は。」のネタバレを含みます。まだご覧になっていない方はご注意ください。

 

 

 2016年8月26日に公開された、新海誠監督の最新作「君の名は。」を見ました。最高でした。映画でこれほどの感動を覚えたのは、いつ以来でしょうか。この「君の名は。」という作品は、私にとって大事な作品の一つになりました。

 この映画は私にとって、何か希望めいたもの、救済めいたもの、福音めいたものであるように思います。これを見る前と、これを見たあとでは、まるで私自身が別人になったかのようです。あるいは違う世界に生きているかのような、別の人生を歩いているかのような、そんな風に思えます。大げさに聞こえるかもしれませんが、いまそう思っています。今後、これに匹敵する感動を覚える作品に会うことができるか、それもまた楽しみであります。

 

 

 

◆感動の三つの層

 私が抱いた「君の名は。」の感動は、三つの層に分けることができると思われます。第一の層は、この作品自体に由来する感動です。「君の名は。」は、新海監督の作品を見たことがない人でも、おそらく小学生でも、面白いと思うことができる映画だと私は考えます。作品自体が良質なエンターテイメントとして完成されています。

 第二の層は、新海監督の作品の集大成としての完成度に由来する感動です。「君の名は。」には、新海監督の過去の映画作品に登場したモチーフや、通底するテーマが反復して登場します。そしてそれらは、「君の名は。」の物語自体に有機的に組み込まれながら、過去作に対する解答であったり、過去作を乗り越えるように描かれているのです。

 そして第三の層は、私個人に由来する感動です。簡単に述べると、それは、夢が消えてしまうということへの郷愁と、それが何であるかは分からないけれど自分は何かを失っていてずっとそれを追い求めているという感覚との二つに分けることができます。映画冒頭の瀧のモノローグで語られていた部分(映画パンフレットの冒頭に書かれている文がそれに相当すると記憶しています)です。これらは私にとって、幼少期から切実なものでした。

 ですが、その切実さを人に伝えることができるのか、人と共有することができるのか、私には分かりません。映画は、三葉と瀧それぞれの名を、それぞれの存在を忘れてしまうことの郷愁と、相手を探すことの、切実さとしてうまく演出されていました。私にとっては、「君の名は。」を見るずっと前から、この切実さは親密なものでした。魂の深部にあるようにさえ思言われます。この切実さそのものが、他の人に理解される類のものなのか、自信がないのです。でもこの第三の層に由来する感動をこそ、ここで言葉にする必要があるように、私には思われるのです。

 この感想文では、まず全体の雑感を述べてから、主に第二の層と第三の層に由来する感動を述べてゆくことにするつもりです。

 

 

 

◆雑感

 

◇全体の所感(箇条書き)

・背景美術は相変わらずの美しさ。新海さんの描く東京はいつも新宿近辺で、どうして新宿なんでしょうね。私は新宿が好きなので新宿が描かれるのは嬉しいです。

田中将賀さんのキャラデザが良いです。田中さんだと知らずに映画を見始めた頃、何となく「心が叫びたがっているんだ」を思い出していたら(坊主のてっしーのせいかも)田中将賀さんで驚きました。田中さんのキャラデザは、人物がとても魅力的で好きだったので、これも嬉しかったところですね。

・キャラデザも良いですし、表情の変化に豊かさがありました。かつて新海監督の登場人物はわりと記号的であまり表情がコロコロ変わるという風ではなかったように思うのですが、瀧と三葉は表情豊かでとても魅力的です。(男女の入れ替わりの表現のため?)

・モノローグが少なく、出来事と会話で物語が展開していきます。展開にドライヴ感がありました。

・神木くんの演技は大変素晴らしかったです。

・三葉の声が明里の声に似ています。監督の好みの声なのかもしれませんね。

・あと新海監督、おそらく井上和彦さんも好きですよね。(「雲の向こう」「星を追う子ども」)

・ユキちゃん先生!

・口噛み酒!

・口噛み酒!!

・入れ替わったポニーテールの三葉に惚れます。美術の授業中にキレたところが良かったです。

・音楽も悪くないです。天門さんじゃないということでけっこう残念に思っていたし、どうしてRADWIMPSなんだろうと思っていましたけど、映画を見ていて全く気になることはありませんでした。

 

 

◇事前に考えていたこと、印象、噂

・「君の名は。」を見る直前の新海監督作品への印象

 「雲の向こう、約束の場所」を高校3年生のころに見て以来新海誠監督作品の(おそらくわりと熱心な)ファンです。「雲の向こう」と「秒速」からは多大な影響を受けました。

 「秒速5センチメートル」に熱中した時期を越えてからは、少し気持ちが離れていました。公開作は全て見ていますが、「君の名は。」公開前には、けっこう熱は冷めていたと思います。「秒速」を見返すのが少し気恥ずかしいという感情さえ抱くようになっていました。

 

・事前の印象

 「君の名は。」公開前の予告はほとんど見ていません。事前に仕入れた情報は、夢の中で入れ替わって、互いに相手が誰かを知ろうとするということ。非常に新海監督らしいな、と思ったのを覚えています。

 一方、公開直前に、山手線内の広告が「君の名は。」一色になった車両があり、それで初めてキャラクターを見て思ったのは、新海監督らしくなくキャラクターがいまどきのアニメっぽくてかわいいなと。

 

・聞いていた噂

 RADWIMPSが音楽を担当したというのもあるのか、広告を大きくうっているからなのか、劇場には10代が多いという噂を耳にしていました。「10代の若者たちの中に、昔からのファンのオタクがいるよ」とか、「オタクたちの長文ツイートが読めるよ」とか、「新海ファンの男って地雷だよね」とか。

 前述のとおり、気持ちが少し離れていたので、噂話を語る人たちが何を言わんとしていることは何となく分かっていたものの、どこか悔しさを感じていました。とはいえそれは私が地雷ではないということを意味しません(事実私自身はその地雷の一例だと思う)。

 

 

 

◆感動の第二の層――新海監督の集大成

 

◇過去作から反復する諸要素

 「君の名は。」は新海監督のこれまでの映画の集大成であると言えます。今までの作品に散りばめられていた要素が凝縮し、通底しているテーマが物語の根幹に据えられています。そして今までの作品を、今作は乗り越えていると思われます。

 こちら側から隔絶された向こう側の遠くの場所が登場します。新海監督作品に古くからあるモチーフです。「ほしのこえ」で何光年も離れ宇宙であり、時間の差です。「雲の向こう」では国境の向こうに聳える塔であり、サユリの夢の中です。「秒速」ではまず栃木の岩舟であり、電車が遅延することでその遠さが強調されています。「星を追う子ども」ではアガルタという異世界であり、さらに死者の行く先です。「言の葉の庭」では、15歳の少年の世界(学校)と27歳の大人の世界です。

 「君の名は。」では、これらの要素の多くが反復するように登場し、物語の中に組み込まれています。瀧と三葉は住む場所が東京と糸守(飛騨)と、遠く離れています。住む文化圏もかなり異なります。二人の間には実は3年という時間の差があります。二人は入れ替わって、特殊な交流の仕方をしますが、目覚めるとその記憶をなくしてしまいます。三葉は隕石によって一度死んでしまいます。死んだ三葉たちをもう一度生きさせるために、瀧は幽世とされる場所に足を踏み入れます。これらは、物語に有機的に組み込まれつつ、新海監督の作品に馴染んだ人であれば、親しみを感じるはずだと思われます。

 

 

◇向こう側から連れ戻す

 新海監督の作品では、主人公の相手役の多くは、向こう側の遠くへと消えてしまいます。「ほしのこえ」では何光年もの彼方(電子メールはノイズだらけで読めない)、「雲の向こう」では夢の世界、「秒速」では手紙のやり取りが消え、「星を追う子ども」でシュンは死んでしまう。主人公は向うの世界から彼らを連れ戻そうとしますが(「秒速」は例外かも)、ほとんど成功しません。「雲の向こう」ではサユリは夢の中の記憶を失ってしまうし、「星を追う子ども」では死者の蘇生に失敗する(モリサキ)。

 「君の名は。」を見た後で「言の葉の庭」を見ると、「星を追う子ども」以前ではこちら側に引き戻すことに失敗していたのが少し前進している、というように見えるようになりました。「君の名は。」を見た後のカタルシスを覚えている状態で、「秒速」や「星を追う子ども」を見ようと思うと、少し気持ちが重たく感じられたのですが、「言の葉の庭」はそうは感じられません。

 「君の名は。」もこれら通底するテーマを反復します。向こう側/こちら側という新海監督お得意の世界観を舞台に、三葉が向こう側に落ちてしまい(隕石落下による死)、それをこちら側へ救い出そうとします。「君の名は。」がまず素晴らしいのは、このテーマをエンターテイメント性のある物語へと昇華することに成功している点です(感動の第一の層)。

 さらに加えて、三葉のこちら側への救出に成功しています。この成功は、新海監督作品の系列の中で見ても大きな前進(まるで「秒速」のときに肯定できなかったことを肯定できるようになったかのような)であり、物語のカタルシスの大きさに寄与していると思われます。

 

◇東京で三葉が瀧を見つける場面

 向こう側に落ちた人物の救出に成功する、という前進に加えて、さらに興味深い場面があります。前進というか、まるで新海監督の今までの作品の思いに答えるかのようです。それは東京で三葉が瀧を見つける場面です。

 三年前、三葉は瀧に会いに東京に来ていました。一日中東京を歩き回って、最後代々木駅(おそらく)のホームで、電車に乗った瀧の姿を見つけます。このシーンは、新海監督の作品に反復して現れていたシーンの新たな反復であり、それへの答えでもあると思われます。

 まずは「雲の向こう」のパイロットムービーです。電車に乗ったヒロキが、駅のホームに立つサユリの姿を見つけます。見つけますが、電車は駅を通過して行ってしまいます。このシーンは、本編では採用されていません。

 続いて「秒速」のシーンです。第三話最後のMV部分にそれはあります。電車に乗った貴樹が、通過する駅のホームに、ある女性が立っている影を見つけるというシーンです。こちらも電車は駅を通過して行ってしまいます。(ところで、この女性は映画の物語上、明里であるかどうかは明言されていません。おそらくその女性は、明里であると断定しない方がよいと思われます。)

 以上の二シーンは、どちらも電車の中から駅のホームに立つ女性を見つけるというシーンです。しかも「秒速」の方は駅にいる女性はこちらに気づいていないように見えます。(「雲の向こう」のパイロット版では、サユリは電車の中のヒロキに気づいているように見えます。ヒロキがホームにいるサユリに気づいたとき、「ねえ気づいて」というサユリのセリフが重なっていて、次のカットでは草原に立つサユリがこちらを向いています。)

 以上の二場面に対して、「君の名は。」では立場が逆転しています。ホームにいる三葉の方が、電車の中にいる瀧を見つけ出すのです。ヒロキも貴樹も、駅のホームに立つ女性を見つけていながら、会うことはできませんでした。三葉は、駅に停車した電車に飛び乗り、瀧に声をかけるのです。この場面を見たとき、私は心の中で「やっと見つけてくれたんだ!」と感動の声を上げて、声を殺して涙していました。

 そしてこの場面について、指摘したい点がもう一つあります。電車の中にいる瀧は、自分が探されているということを知らないのです。「秒速」では、駅の女性はこちらに気づいていませんでしたので、立場が逆転した瀧が知らないのも当然かもしれません。ですが、瀧はこの後、三葉を知るようになります。瀧がまだ三葉を知らないときに、実は瀧は三葉に会っていた。そしてそのときに瀧は組紐を譲り受けています。

 ここから先は、私の考えすぎかもしれません。私は「君の名は。」のこの場面を、この世に生まれてくることの隠喩だと思いました。生まれてくるとき、親は子を一方的に認識していますが、子はそれを知りません。出生の暗示、とは考えすぎにも思えますが、三葉が東京に行くのは隕石落下の前日です。しかもこの場面が挿入されるのは、すでに隕石落下によって三葉を含む糸守の人たちが犠牲になったことを知った後でした。この電車での組紐の伝達の前後に、生死があります。

 口噛み酒を飲んで頭を打ってから、瀧は三葉の出生からの走馬灯を見ます。そして最後の入れ替わりが生じる。ここで糸守のひとたちを、三葉を救うために入れ替わった瀧は奮闘します。もう一度生きさせるために。もう一度生まれ直すために。

 三葉が電車の中で瀧を見つけた場面、そして瀧と三葉が奮闘し、結果それが実って後から糸守の人たちが救われたことが判明したこと。これらを見ることができただけで、私の中では大満足でした。

 

◇エンディング

 ですが、「君の名は。」はそれでは終わりません。ラストに最大のクライマックスがあります。瀧と三葉の入れ替わりによって世界が書き換わり、それらの記憶も遠くなった頃、二人はまた代々木駅(おそらく)で、電車に乗った互いの姿を見つけ、ハッとします。二人は電車を降りて互いを探しに走ります。

 クライマックス、印象的な階段で、二人はとうとう互いを見つけます。二人とも何かを言いたげだけれども、二人は無言ですれ違います。

 この場面は新海監督作品のファンなら誰もが気づくように、「秒速」のラストの反復です。「君の名は。」を見ていた私は、無言ですれ違ったとき、「三葉の命も助かったわけだし、二人とも記憶を失っているみたいだし、無言ですれ違っても、ここでこうして会えたというだけで満足だ」と思っていました。

 が、瀧が三葉に声をかけたのです。「どこかで会ったことがある」。三葉が「私も」と答える。「君の名は――」これで閉幕です。私はこの最後のやりとりにむせび泣きました。繰り返しますが、隕石衝突の被害を回避することができたというところが、物語の一つのクライマックスだったので、「秒速」を反復するならここで声をかけなくても十分に満足だったんです。

 でも今作はそれを越えてくれた。記憶を失っても、三葉も探していてくれていた。瀧が声をかけてくれた。三葉がそれに答えた。この最大のクライマックスが、私にとっては希望のようなものであり、福音のようであり、救済のように思えたのです。

 探しものが何であるのかも分からずに探していて、でもその探しているものもこちらを探してくれていて、それを見つけることができて、しかも出会うことができた。新海監督の過去作の主人公たちだけでなく、この私の今までのあらゆることが報われたかのようなきがして、そしてこれからのあらゆるものが輝くような、そんな風な気持ちになることができたのです。

 このクライマックスの場面の感動に、第三の層の感動が凝縮されています。

 

 

 

◆感動の第三の層――消えてしまったものと再会する奇跡

 

◇夢が消えてしまうということの郷愁

 夢は、それを見ているときはまさに現実にほかならないのに、いったん目が覚めると急速に背後に退いて行って、その現実味を失ってしまいます。そしてしばらく経てばその内容は記憶から失われてしまいます。この消えてしまう(消えてしまった)夢に対して、何か強い郷愁のようなもの、あるいは夢が消えてしまう(消えてしまった)ことへの焦りのようなものを感じたことがあるでしょうか。

 物心ついたころから、私にはこの郷愁と言うか焦りのようなものがありました。朝、夢から目を覚まして、布団の中にいる自分の身体感覚や、視界に映るものや、思考が再びはっきりとしだすにつれて、ついさっきまで現実としてありありとあったものたちが急速に消えていくのを、私は不思議だとも思い、寂しくも思っていました。ついさっきまで、確かに現実だったのに。このついさっきという時間と、目覚めた後の今の時間との間の、不可逆で絶対的な隔絶に、私はどうしようもない無力感や寂しさや郷愁のようなものを感じるのです。

 そして目が覚めた後は、夢の内容を忘れてしまう。確かに夢を見ていた。夢の中でいろいろなものを見、いろいろなものと会い、いろいろなことを体験した。そうであるはずなのに、それらは忘れられてしまう。忘れられてしまえば、それらは始めからなかったことになる。ついさっきまで、確かに体験していたことなのに、覚醒という絶対的な隔絶の後では、それらはなかったことになってしまう。ひどいときには、夢を見たということさえ忘れてしまう。

 確かにそこに存在したのに、覚醒の後ではまるで最初からなかったことになってしまう。ここに不可逆さ、絶対的な隔絶を感じ、手を伸ばしてももう届かないという無力感、でも手を伸ばして思い出したいという郷愁のようなものを抱くのです。夢を忘れてしまう、ということの郷愁の切実さはこういうものです。

 このように書いて、分かってもらえたでしょうか。映画パンフレットの冒頭には、「見ていたはずの夢は、思い出せない。ただ、なにかが消えてしまったという感覚だけが、目覚めてからも長く残る」と書かれています。これは映画冒頭の瀧のモノローグの言葉であったと記憶しています。私はこの言葉を、まさに私自身の言葉として聞いたのです。

 

 

◇探しものをしている

・夢の中に置き忘れてしまったもの

 探しものの一つは、夢の中に置き忘れたものです。夢の中で何かを見、何かに出会い、何かの体験をすると、もちろん心を動かされます。ですが、夢から目を覚ましてしまえば、夢の中で何を見たのか、何と出会ったのか、何を体験したのかは急速に消えてしまいます。

 ですが、夢の中のそれらによって動かされた気持ちだけが、夢から覚めても残ることがあります。その例として、一つは恐怖。怖い夢を見たときの怖さは、目が覚めた後にも持続することがあります。内容は覚えていないが、怖い夢を見たことだけは覚えている、というような。

 あるいは、恋です。夢の中で恋をするということがあります。片思いをしている相手が夢の中に出てくることがあります。これは私の個人的な特性なのかは分かりませんが、片想いをしている相手は、顔が思い出せなくなります。顔が思い出せないのに、夢の中にその相手が出てくるのです。夢の中で、その好きな人だと分かるのは不思議です。そして夢から醒めると、その相手の顔は消えてしまい、夢の中でどんなやり取りをしたかもほとんど忘れてしまいます。

 さらに、恐怖や恋のように明言できる感情ではないが、何か必死な思いのようなものだけを残して夢から覚めることがあります。そしてそのとき夢の内容を忘れてしまうと、夢の中でなぜか必死だった、という記憶だけが残ります。そういうとき、自分はどうしてあんなにも夢の中で必死だったんだろう、と一日中気にかかります。それで夢の内容を思い出したいと考えても、思い出すことはできません。なぜそんなに必死だったのか、それは夢の中に置き忘れてきてしまったのです。

 まるで自分自身の一部を夢の中に置き忘れてきたような、そういう気持ちに浸されるのです。この気持ちを分かってもらえるでしょうか。

 

・入れ替わりについて――夢世界と、死あるいは生まれてくる前

 私は、物心ついたころから、自分がこの性別に生まれてきたということを悲しんでいました。もう一つの性別に生まれたかった、と幼少期から考えていました。そうは言っても私は性同一性障害ではありません。小学校低学年くらいの頃、初めて性同一性障害のことを知ったときのことを覚えています。ひょっとして私はそれなんじゃないか、と一瞬思いましたが、いや違うとすぐに結論づけることができました。

 もう一つの性別に「なりたい」と思うのではなく、「始めからそう生まれてきたかった」と思ったからであり、私が恋する相手は異性(ヘテロセクシュアル異性愛)だと思ったからです。ヘテロであることと性同一性障害ではないことは、必ずしも一致しませんが、子ども心に私は自分の身体の性と性自認は一致すると結論づけました。以来、今のところ私はシスジェンダー(生まれてきたときに診断された身体的性別と性自認が一致している)かつヘテロセクシュアルです。

 とはいえ、別の性別に生まれたかったという願いが消えたわけではありません。私は自分の鏡に映る自己像が嫌いです。それを見たくないのです。私はいつも自分の理想の自己像を探している。私が持つことができなかったものを持っている人を探している。ロマンチックに言えば、私の半身のようなものを探しているのです。

 そう願う者にとって、他者の身体と入れ替わるというのは夢のような出来事です。「ドラえもん」の入れ替わりロープを、何度願ったことでしょうか。

 そういう私には、恋愛をするときに悪い癖があります。恋する異性に、自分が生まれてきたかった理想を見出してしまうのです。私がそうであるような特性を持つ人が、皆こういう恋愛をするとはかぎりません。少なくとも私がそうだ、ということです。

 恋をする相手に自分の理想(像)を見てしまう、ということは、相手を単なる像とみなしていることです。しかもその像は、私の自己像です。つまり、ここには人間が二人いるのではなく、人間が一人しかいないことになります。恋する相手を理想の自己像として愛するのですから、それは正確な意味でのナルシシズム(自己愛)にほかなりません。

 ナルシシズムそのものは悪いことではないと思われます。自己愛のない人はほとんどいないでしょうから。ですが、恋愛場面において、その相手を理想の自己像として扱ってしまうとすれば、それは二人の人間の関係としてはかなり問題であると思われます。相手を一人の独立した人間として扱っていないということを意味するのですから。

 「君の名は。」では、瀧と三葉は互いに入れ替わり、日記を通して交流します。日記における交流では、二人は他者どうしですが、相手の姿は入れ替わった先で自分の姿として認識されます。瀧と三葉が互いに恋をするとすれば、そのときその恋の相手は、半分は自分自身だと言うことができると思われます。最後の入れ替わりのきっかけとなったのは、三葉の半分である口噛み酒を飲んだからでした。ゆえに瀧と三葉の二人は、二人であり、一人でもあるような関係であると言えます。

 夢の中というのは、生まれてくる前に似ているとは言えないでしょうか。夢の中では、起きていることは全て現実ですが、目を覚ましてからは「夢」という枠組みを与えられることになります。目が覚めた後で振り返る夢の内部の現実味というのは、まだ夢とか現実とかそういった区別がなかった状態の現実味だった、と言えます。

 生まれてくる前は、まだ性別が決まっていません。もちろん出生前に性別を調べることはできます。が、問題は自認です。生まれてくる前(物心つく前)には、自分が男であるか女であるかはまだ分かっていません。自分の中でまだ区別がなかったはずです。

 夢の中で男女が互いに入れ替わる、という物語は、この両者の類比を強調してくれるように思えます。ですから、世界を書き換えて死を回避する(もう一度生まれ直させる)ためには、幽世(あの世)へ行き、もう一度入れ替わりを実現する必要があったのです。

 三葉の死を回避するということは、夢世界=幽世=未分化の世界から三葉を連れ戻すということだと考えられます。夢の中に置き忘れたものを、夢世界に取りに行くのです。

 

 

◇奇跡――エンディングについてもう一度

 三葉を死=夢世界から連れ戻すことに成功するのは物語終盤の重要な山場ですが、最大のクライマックスはその後の最後の場面にあります。三葉の救出に比べれば、ずっとささやかな出来事ですが、感動の第二層的だけでなく、第三層的にも最重要の意味を持つのはこの最後の場面です。私にとってクライマックスの感動の最大の理由は、第三層にあると思います。

 三葉の救出のために世界を書き換えた後、瀧と三葉は入れ替わりに関する記憶を失ってしまいます。瀧と三葉の経験した入れ替わりと、世界の書き換えは、消えてしまいました。まさに夢のように忘れられてしまったのです。完全に忘れられてしまったとすれば、瀧にとって三葉は、三葉にとって瀧は、全く初めから存在しなかったことになります。

 が、瀧も三葉も、何か探している人物がいるような感覚だけは残していました。映画のラスト、代々木駅で互いの姿を認めたとき、二人はお互いに出会おうと奔走します。最後の印象的な階段の場面で、二人はやっと再会します。が、声をかけることができません。

 「秒速」の反復であるこの場面において、互いに声をかけずに閉幕ということもありえたはずです。「秒速」では踏切が開くのを待っていたのは貴樹だけでしたし、「君の名は。」では世界の書き換えという山場を越えているので、物語としては十分でした。

 ですが、「君の名は。」は違ったのです。瀧が声をかける。そして三葉が「私も」と答える。これが私にとっては、とてつもなく、感動的なのです。

 瀧も三葉も、互いのことをすっかり忘れています。夢のように消えてしまっています。が、二人とも互いをそうとは知らず探していた。出会うことができた。瀧からすれば、それは夢の中に置き忘れた人物が、こちらを探してくれていた、そして見つけてくれた、ということを意味します。

 三葉の死を回避したときは、瀧が覚えていて、瀧の方が夢の中に手を伸ばしました。ラストの階段の場面は、二人が二人とも夢の中に手を伸ばしたのです。あるいは瀧か三葉それぞれの視点に立つならば、夢の中に置き忘れた人物が、夢の中からこちらに手を伸ばして、こちらの世界に出てきてくれたのです。これほどの奇跡があるでしょうか。

 「クロノクロス」というRPGがあります。私が最も愛するゲームですが、このゲームの物語もまた、世界の書き換えを行います。世界の書き換えに成功して迎えるエンディングでは、主人公は記憶を残したまま、物語の始まりの地へ帰ります。そばにいる幼なじみに、書き換える前の世界の出来事を話しますが、全く理解しません。世界を書き換えて、主人公が経験した物語は、夢のように消え去ってしまったのです。ただ主人公は記憶を残して。

 このエンディングでさらに印象的なのは、本作のヒロインが、書き換えた後の世界で何かを探している様子が描かれていることです。「でも、いつかきっとまた会える、あなたと、わたしは。別の場所、別の時間で。互いにそうと気づくことはないかも知れないけれど」「会いに行くからさ/世界中さがしても/いつかきっと/きっと」という言葉が添えられています。エンディングテーマも「さがしつづけてきたよ/名前さえ知らないけれど」と歌っています。ヒロインは、書き換えた後の世界で、主人公を探しているのです。

 「クロノクロス」のエンディングでは、書き換わった後の世界で主人公とヒロインが出会うところは描かれません。ヒロインが主人公を探している描写があるのみです。「君の名は。」では、なんと二人は出会うことができた! 消えてしまった夢世界から飛び出して、互いに出会うことができた! 入れ替わっていたことの記憶はもうないかもしれないけれど、運命的な二人が再会することができた! これほどの奇跡、これほど感動的なことがあるでしょうか。

 確かに一度存在したのにその後に初めから存在しなかったかのように消えてしまったものと、夢の中に置き忘れたものと、自分にとっての半身と、再会することができたのです。こういう出会いが、フィクションにおいてであるとはいえ可能なのだということを、私は初めて実感することができました。

 私自身にとって、夢の中に置き忘れてしまったものが、私にとっての半身が、私を探しているのかもしれない。そういう存在が、この世のどこかで息をしているのかもしれない。そう考えたとき、私は私が息をするこの世界が、違った風に見えてきたのです。夢の世界に置き忘れたものはもう消えてしまって二度と会うことはない、そう思っていたけれど、ひょっとしたら、もう一度会うことができるかもしれない。しかも私を探してくれているのかもしれない。「君の名は。」を見終えて、世界や、私の人生が違った風に感じられるのです。

 

 

 

◆おわりに

 私の感想文は以上です。もしここまで読んでくださった方がいたとすれば、その方には感謝の言葉を申しあげさせてください。感想文の面を被った自分語りのようなものになってしまいましたから、読むのがさぞ大変だったのではないかと思います。

 ですがこれを語らないわけにはいかなかった。私にとって極めて重要な意味を持つ出来事ですから、それを言葉にしておきたかったんです。言葉にしなければ、私の感動は何か私秘的なものだというだけで終わってしまう気がして。

 一方で言葉にしてみれば私の感動何て陳腐なものでしかないことが判明するかもしれないというのもまた恐怖でした。うまく語れる気がしませんでしたから。今でもうまく言葉にできたか自信がありません。

 とはいえ、私秘的なものとして守るよりは、たとえ陳腐なものだったとしても言葉にしておきたかった。私の感動がどういうものだったのか、私も知りたかった。そしてそれを誰かに読んでほしかった。それらに成功したかどうかは分かりません。ですが、ここまで読んでくださって、私は感謝しています。

 「クロノクロス」は、長らく私にとって最も親密な物語でした。これからそこに「君の名は。」が加わります。「君の名は。」という作品が生まれてくれたことは、私にとってはこの上ない幸福です。

 

(2016年9月3日)

目覚めにおける夢と現実の落差

「哲学についてのあれこれ9――目覚めにおける夢と現実の落差」/「響き」の小説 [pixiv]より転記。

 

◆「CHRONO CROSS」からの夢のイメージ

 私の好きなテレビゲームに、スクウェア製作(1999年)の「CHRONO CROSS」というRPGゲームがある。

 このゲームの物語は、パラレル・ワールドを主題としている。物語の冒頭で主人公セルジュはもうひとつの世界へと導かれるのだが、その世界はセルジュが10年前に死んでしまっていたという世界だった。二つの世界を行き来しながら、セルジュはさまざまな人物や出来事と遭遇し、世界を二つに分かつこととなった10年前の真実を知る。そして物語が終幕を迎え、セルジュは初めてパラレル・ワールドへ行ってしまった時点へと帰ってゆくのだが、旅の記憶を持っているのはセルジュだけらしいということが示唆されて終わる。おそらくパラレル・ワールドへの道も閉ざされてしまったに違いない。セルジュたちの旅は、まさにセルジュひとりの夢のようにして、消えてしまうのである。……

 

 今回ここで、私はこの「CHRONO CROSS」のエンディングテーマである「RADICAL DREAMERS~盗めない宝石~」の詞と、その詞を作り歌をうたったみとせのりこさんの寄せた言葉を紹介することにしたい。私の夢への想いは、ほとんど全てみとせのりこさんの詞と言葉にこめられているように思われるのである。

 

 

◇RADICAL DREAMERS~盗めない宝石~

作詞:みとせのりこ

作曲、編曲:光田康典

 

幼いてにつつんだ ふるえてるその光を

ここまでたどってきた 時間のふちをさまよい

 

さがしつづけてきたよ 名前さえ知らないけれど

ただひとつの想いを あなたに手渡したくて

 

歴史(とき)は愛も痛みも 深く抱きとめ

消してゆくけど わたしは おぼえている

ずっと・・・

 

わたしの胸のおくに いつからか響いていた・・・

夜露のしずくよりも かすかなささやきだけど

 

凍てつく星の闇へ 紡ぐ祈りが

遠いあなたのそらに 届くように・・・

 

 

みとせのりこさんの言葉

クロノ・クロス アルティマニアデジキューブ出版(2000)より引用。

 

「時間(ユメ)を旅する誰かに」

みとせのりこです。時間(ユメ)の旅はいかがですか? 夢というのは視ているあいだは、よろこびも痛みもすべて自分にとっては現実(リアル)なのに、醒めると一瞬で遠ざかってしまって、心だけそこに取り残されて戸惑ったりすることがあります。はじめて「クロノ、クロス」のことをきいたとき、そういう感じがしたんです。通りすぎて戻らないかもしれないものを想うときのせつなさと痛み。でもそれを超えても想い続けることの強さ。そういうものがきれいだなと、悲しくてでもつよくてきれいだなと、そんなふうに思ったのでした。

        みとせのりこ

 

 

 

◆夢はどう考えられているか

 心理学(精神分析含む)では、夢は意識(あるいは無意識)が作り出したものと考えるだろう。夢は眠っている間に見る一種の幻影にすぎないのだ。夢の素材は意識(あるいは無意識)を探れば発見することができる。

 精神分析においては、夢は錯誤行為や機知や神経症の症状などと並んで「無意識の形成物」の一種とされている。夢も錯誤行為も機知も神経症の症状も、(精神分析的な)無意識を仮定することで説明がつく。無意識の仕事によって、抑圧された願望が象徴的に顔を出すものとされている。神経科学、脳科学では脳波などによって夢を見ているかどうか客観的に(第二次内包的に)決定されている。

 心理学や脳科学の登場によって、すっかり夢は私という一個人の心ないし脳が作り出した幻覚の一種だとされてしまっている。これは一般的な認識と考えてよいだろう。映画「マトリックス」において描かれた電脳世界は、心理学や脳科学で考える夢の形態をそっくりそのまま踏襲している。

 また、「桶のなかの脳」という思考実験をご存知だろうか。一般的に脳のしかるべき箇所に電気刺激を与えれば、その脳の持ち主は視覚や聴覚などの感覚を得ることが知られている。この脳科学的事実をもとにした思考実験が「桶のなかの脳」である。

 これは培養液の入った桶のなかに脳を浮かべ、電極を刺して電気刺激を与えることで、脳に幻覚を見せるという事態を考える。しかし私たちが現実世界としてみているこの世界もまた、実はそうした桶のなかに浮かんでいる脳の見ている幻覚なのではないだろうか。「桶のなかの脳」の思考実験はこうした事態を想定する。

 

 心理学によっても脳科学によっても精神分析によっても、夢そのものを単なる「幻覚」としてしか見なさない。さらに私という一個人の意識のなかにすっぽりおさまる一部分としてしか見ない。夢は現実世界のなかの一部分にすぎないと思われているのだ。

 映画「マトリックス」においても、「桶のなかの脳」の思考実験においても、このような科学的事実と、現実と夢の入れ子構造が当たり前のように用いられている。

 「夢は幻覚である」「夢は私個人の心や脳によって形成される」「夢と現実は入れ子構造をなす」これら三点において、心理学と脳科学精神分析は同じ視点を共有している。これらを科学としてひとまとめにして考えることができるだろう。さらに「桶のなかの脳」の思考実験に見られるように、それらを下敷きにした哲学も同様の視点を持っている。

 それだけではない。科学においては、目覚めた瞬間の喪失感や強い郷愁を説明しない。私には目覚めた瞬間の喪失感や郷愁が問題なのだ。どうして夢からの目覚めはあれほど胸を締め付けるのか。夢を、目覚めの瞬間を中心にして捉え直してみたい。

 

 夢というものがいったいどんなものか、科学では分かっている(と思っている)のだろう。だからその目的や機能や意味に注目するのだと思われる。

 REM睡眠時に夢を見ているというメカニズム(脳科学)も、記憶を整理するという目的(心理学)も、無意識の願望の現われという意味(精神分析)も、夢がいったい何なのかを分かった上で考えているような、付属品に見える。

 しかし夢からの目覚めがどうしてあれほど胸を締め付けるのか。目覚めの圧倒的な力によって遠景へと後退してしまう夢へ、どうしてそれほど郷愁を覚えるのか。目覚めたその先の世界に戸惑いとめまいを覚えるのはなぜなのか。目覚めたその瞬間、心を夢のなかに置き去りにしたように、私は私の同一性の揺らぎを感じずにはいられない。まだ温もりの残る夢の世界のなかにこそ、自分の居場所があるのではないかと、そんなことすら考えてしまうのだ。……

 夢そのものがいったい何なのか、私はそのことを考えたい。夢というものを目覚めの瞬間に注目することで捉え直してみたいのだ。

 

 

◆科学における夢――精神分析を中心に

 まず、精神分析における夢を科学的な夢の代表として考察することで、科学的な夢の見方や扱い方を改めて確認してみたい。

 

 夢は私の意図と関係なく、勝手に現れるものだろう。この「勝手に」というところが精神分析では「無意識」あるいは「無意識の主体」とされる。

 この夢を形成する「無意識」が、ラカン精神分析理論においては言語と異なるものではないために、夢は象徴的に形成されるものだとされる。だから夢の象徴性を読み解けば、夢の意味するところを理解することができるのである。

 無意識が夢を作り出すのなら、それはやはり「私が」夢を作るわけではない、ということだろうか。

 そうではない。無意識だって私の一部であるのだから、無意識のせいだとしても、それは意識していないかたちで「私が」作り出したものにほかならないのだ。だから夢は(無意識の)願望充足である、と言うことができる。意識と無意識の間で、願望が矛盾することはおおいにありうる。意識的にはひどく苦痛な事態が、実は無意識によって望まれていたということが往々にしてあるからだ。

 ある願望が実在するとして、それを意識するのがはばかられるとき、無意識的な力によって、その願望は意識から隠される。これが「抑圧」である。抑圧された願望は消えてしまったわけではなく、無意識にとどまり続け、夢や神経症の症状を作り出すのである。

 精神分析で、夢が「私が」作り出したものであるのを強調するのは、その意味が、夢の意味としての無意識の願望が、「私」のものであることを強調する ためなのだろう。精神分析の治療においては、抑圧された無意識の願望を知ることが重要なのである。そのために、無意識の願望の象徴化された夢を読み解こうとするのである。

 精神分析にとって夢は「幻覚」の一種なので、夢の「映像」もその意味も、無意識を含む「私が」作り出したものにされる。

 精神分析においてはこのように夢を考える。精神分析の治療場面においては、夢を語る語り、その意味を分析することが重視される。精神分析を創始したフロイトは「夢は無意識への王道」と考えていた。精神分析において夢は治療のための対象として扱われている。覚醒した状態の意識にとって、夢というものが、思考の対象物として現れていることを見て取ることができる。夢は現実のなかの一部分にすぎないのであって、現実のなかに夢はすっぽり入り込んでいる。現実と夢との入れ子構造があると言うことができる。

 

 以上、精神分析を代表に科学における夢の見方を改めて確認した。科学において、夢は心や脳によって形成される以上、夢は「私が」作り出したものにほかならないのだが、この「私が」夢を作り出すという見方は、実は夢が幻覚であるという観点、夢と現実の入れ子構造の観点と繋がっている。この三点は密接に関わりあっているのである。

 これは「私」というものが先にあって、その同一性のもとで夢という「幻覚」が見られる、という見方であるとも言うことができる。「私」という現実の直線を想像してほしい。この直線上に夢という幻覚が乗せられる。「私」という現実の直線の上に夢が乗るのだから、夢は「私」が生み出したものにほかならない。また現実の直線に対して夢は中身に当たり、入れ子構造をなす。さらに夢が直線上に乗っても、現実の直線そのものは影響を受けない。夢は単なる幻覚である以上、夢見る者の同一性を脅かすことはない。これが一般的な夢の見方であると言うことができるだろう。

 

 しかし私は夢について異なったように考えてみたい。夢は幻覚などではなく、夢は私が作り出すものではなく、夢は現実のうちにすっぽり入り込んでしまうものでもない。

 あれほど真に迫ってくるものが、単なる幻覚であって、偽物の認識であるとはどうしても思えないし、夢の圧倒性は私が作り出したものとも思えないし、まるで異世界のような夢が現実の内側に収まるものとも思えないのである。夢というものも、ひとつの現実と考えることはできないのだろうか。

 上の三点のどれかひとつないしふたつのみを変更することはできない。三者は密接に連携しており、どれかを変更するならば、全てを変更しなければならない。

 これらの三点を、目覚めの瞬間に注目することで変更することにしたい。そのとき現れてくるのは、消えてしまう別世界としての夢である。

 

 

◆現実としての夢

 夢は幻覚であると言われるとき、夢は現実と激しく対立している。「現実と夢」とは二項対立だとさえ言うことができる。そのとき「夢」という言葉は幻覚や、偽りの体験といった意味を持つ。

 しかし、夢での体験は本当に偽りの体験なのだろうか。夢の体験だって、現実の体験にほかならないのではないだろうか。夢における体験は決して偽物でも幻覚でもない。確かに私はそこで何らかのものを目の前にし、何らかのことを体験し、ある誰かと出会ったはずなのだ。それは決して変えようがない事実なのである。夢の体験も現実なのだ。夢は実は現実なのである。

 こうして夢そのものの現実性を考えることができる。夢は単なる幻覚などではないのだ。

 しかしこのように夢の現実性を考えるとき、夢と現実の対立はもはや意味をなさなくなってしまうのではないだろうか。夢もまた現実である以上、それを夢から覚めた現実から分かつものは何もない。どちらも現実にほかならないのだから、夢という枠組は消えてなくなる。夢と現実は何の境界もなく地続きにひとつになってしまうのである。

 だが私は夢から目覚めるたびに、夢と夢から覚めた現実との落差を感じるのである。やはり夢というものの特殊なあり方があるのではないだろうか。夢からの目覚めの瞬間は、何にも変えがたいものである。そこで夢は現実でありながら、目覚めた世界である現実と強く対立するように思われるのである。

 つまり、現実でありながら現実でないような夢、というものを考えることができるように思われる。そういうものとしてしか現実でありながら現実と対立するものを想定することはできない。夢はまさしくそのようなものとして現れるのではないだろうか。そして、そのように夢が現れる瞬間こそ、目覚めの瞬間にほかならない。

 夢が現実でありながら現実ではない、と言うとき、前者の現実と後者の現実は異なっているはずである。現実としての夢と、そこから目覚めた世界としての現実という二つの現実の対立がある。そしてそれはまた、現実としての夢と、そこから目覚めた後にそれを夢として理解されるという二つの夢の対立でもある。

 

 

◆目覚めの瞬間の夢――落差

 

◇〈夢〉と《夢》の落差

 夢から目覚めた瞬間を想像してほしい。

 ついいましがたまで現実として目の前にあった光景が、目覚めた瞬間に圧倒的な力で遠景として後退してゆく。このとき初めてさっきまで現実に体験していたものが夢であったことを知る。夢の世界を思い出そうと努めても、それはもやにかかったように手が届かなくなり、思い出したとしてもその要素は現実感を失ってゆく。それでも夢の世界への郷愁はおさまらず、夢の世界のなかにこそ自分の居場所はあったのではないか、何かを置き忘れてきたのではないかと戸惑い、めまいを覚える。目覚めた現実世界に対し、どろのなかを泳ぐような違和感を覚えることさえある。

 こうして目覚めたときに初めて、たった今まで見ていたものが夢だったのであると知り、その見ていた光景や体験を夢として理解するのである。現実的に目の前にしていたその瞬間における夢と、目覚めた後に回想される体験としての夢。目覚めには二重の夢の落差がある。前者を現実的な〈夢〉、後者を回想的な《夢》と呼ぶことができるだろう。

 この両者は目覚めにおいて激しく対立するものであるが、両者は互いに依存するものでもある。

 両者が対立するというのは、現実的な〈夢〉は目覚めによってその現実感を失い、私にとって単なる記憶として、回想的な《夢》としてしか存続しなくなってしまうからである。これは夢を見ている状態から目が覚めた後への時系列的な見方であり、ここにおける対立を存在論的な対立と言うことができる。現実的な〈夢〉は、目が醒めて夢だったと分かるまでは依然として夢ではないからである。

 現実的な〈夢〉は、目覚めてそれが夢だったと明らかになるまでは依然として夢ではありえない。〈夢〉はまさにそれが見られ、体験されているときには、本当に現実だったのである。目が覚めて初めてそれらの体験は夢だったと理解される。

 すると、現実的な〈夢〉というものは全て後から想起されるよりほかないということになるのだが、それは回想的な《夢》にほかならないのではないだろうか。現実的な〈夢〉などといったものは存在せず、全て回想される《夢》であるよりほかないのではないだろうか。

 おそらくそれは正しい。夢は目が醒めて夢と認識されるよりほかない。現実的な〈夢〉は回想的な《夢》としてしか想起することはできず、回想的な《夢》という概念を通してのみ現実的な〈夢〉というものを理解することができるようになる。

 しかし、それは半面にすぎない。現実的な〈夢〉の実在がなければ、端的に夢という出来事そのものがありえないからだ。さらに、夢を全て回想的な《夢》と理解してしまっては、夢における現実性を手放してしまうことになるだろう。回想的な《夢》とは、意識的な私の同一性における現実の一部分、という入れ子構造の見方と異なってはいないからである。したがって、夢の現実性を取り戻す必要があるだろう。夢は現実の一部ではない。正確に言えば、夢は目覚めた世界としての現実の一部分ではない。

 

◇現実=夢と現実=覚醒の落差

 現実的な〈夢〉と対立、相互依存するような、回想的な《夢》は、覚醒した状態の現実世界のなかにおさまる一部分でしかない。確かに夢を夢として認識し、それを思考するためにはこの視点は必要不可欠でさえある。しかしこれだけでは不十分であるのも確かである。これは一般的な、科学的な夢の見方を踏襲しているものであり、夢と現実の入れ子構造が現れているからである。

 そこで、目覚めにおける〈夢〉と《夢》の関係と並行して存在する、〈夢〉の現実性と、覚醒した世界の現実との対立に注目することにしたい。前者を現実=夢、後者を現実=覚醒と呼ぶことにする。

 この名づけ方から分かるように、ここには夢と現実の対立があるのではない。先ほどの夢の名づけを用いれば、《夢》と現実の対立があるのではなく、〈夢〉と現実の対立があるのである。また別の観点から言えば、ここには夢と覚醒状態との対立があるのである。つまり二つの現実の対等な対立関係に注目しようとしている。

 したがって目覚めの瞬間において二つの現実は対等に存在するものであり、どちらかが他方を包み込むようなものではない、ということに注意しなければならない。実は〈夢〉から《夢》への落差は、現実=夢を、現実=覚醒が包み込むことを可能にするものなのである。

 

 もう一度、夢からの目覚めの瞬間を想像してみてほしい。

 目覚めの瞬間に、ついいましがたまで目の前にあったものが急速に後退してゆき、遠く隔たってもやの向こう側に行ってしまう。もはや先ほどまでの体験はもう目の前にない。目覚めた世界の後景へと去ってしまう。先ほどまで目の前で体験していた現実=夢と、目覚めた先の現実=覚醒との間で、世界そのものや私自身が一体何なのか分からなくなることがある。現実=夢のなかに何かを忘れていやしないか、あそここそ私の居場所だったのではないか。戸惑い、めまいを覚える。そしてようやく現実=覚醒の世界に馴染んでゆく。

 このとき、確かに先ほどまで体験していたことの現実感は後景に退いてしまうものの、その体験の現実性そのものが失われることはない。目覚めを境にして、二つの現実が存在していると言うことができる。まさに現実にそれを体験していたはずの現実=夢と、それから目覚めた先の現実=覚醒である。

 現実=夢は、〈夢〉と同義であり、〈夢〉は確かに目覚めた後に《夢》として理解されるよりほかないのだが、反面その実在がなければ夢そのものという事象が成り立たない。《夢》という概念、あるいは認識から独立の夢の実在性、夢の現実性が揺らぐことはない。

 夢が単に《夢》として理解されるならば、それは現実=覚醒のなかに落とされて、夢と現実の入れ子構造を形成するだろう。しかし〈夢〉、すなわち現実=夢は、《夢》という概念や認識から独立に実在するものなのだから、現実=覚醒のなかに落とされることができない。現実=夢は、現実=覚醒に包み込まれることがなく、この両者は入れ子構造を形成しないのである。現実=夢と現実=覚醒はどちらが上位に立つかを決定できるようなものではなく、目覚めを境にして相対するだけなのである。

 このように目覚めを境目として中心にすることで、その前後の現実を対等に扱うことができ、その上でその前後の変化を明らかにすることができる。夢は現実であり、かつ現実と対立する。夢は〈夢〉として現実性を持つが、目覚めを境にそれは現実=覚醒と対立する。

 

 しかしその両者はなぜ対立しなければならないのか。実はこの対立は、現実=夢と現実=覚醒の、現実性そのものの対立ではない。現実であるという点において両者は全く異なるものはなく、その点のみに注目すれば両者を区別することはできない。この両者を目覚めにおいて区別するものが存在する。それは現実性そのものではなく、その内容であり、現実=夢を《夢》として理解する、相対的な外的状況、そして何より目覚めの圧倒的な力である。

 目覚めの瞬間に、いままで目の前にしていたものが後景に退いてゆくとき、それらを夢として理解するからといって、それは現実のなかの夢という入れ子構造を即座に意味するわけではない。この観点には、覚醒状態の「私」という同一性を持った入れ物、あるいは直線のようなものが前提とされている。

 目覚めの瞬間に「夢だった」と分かるのはそもそもなぜなのか。夢は現実=覚醒の一部分であるという入れ子構造があるから、それが夢だったと分かるのではない。目覚めの瞬間の、現実=覚醒の世界への違和感や戸惑い、現実=夢の世界への郷愁が、入れ子構造に対して意義を申し立てるだろう。目覚めの前後の二つの現実は、全く対等で、どちらかがどちらかを包含してしまうわけではないのである。

 現実=夢と現実=覚醒が区別される理由として、まずはそれらの内容の違いを挙げることができるだろう。たいていの場合、現実=夢の内容と、現実=覚醒の内容は異なっているはずである。だからこそ、これは外的状況とも関わることだが、目が覚めて「眠っているところから起きた」という内容・状況と、現実=夢の内容と比較することができ、それらは区別されることができるのである。

 だが、現実=夢の内容と、現実=覚醒の内容が同じであるという事態を容易に想像することができる。現実=夢のなかで私はいつもの部屋でいつもの寝床で眠っているということが考えられる。

 しかしそれでも現実=夢と現実=覚醒との間に目覚めが介入することで、両者は区別されるだろう。だがそれは両者の比較によってなされる認識的な区別などではなく、圧倒的にやって来るようなもので、目覚めのその瞬間に、なぜか区別が与えられるのではないだろうか。おそらく、現実=夢と現実=覚醒の区別はこの圧倒的な力によって根源的に区別され、その上で両者の比較を行うことができるのだろう。

 現実=夢と現実=覚醒は、目覚めを境にして、不可避的に区別されるのである。両者の現実性のみに注目すれば、両者はともに現実として一色になってしまい、区別することは不可能であるが、その間に目覚めの圧倒的な力と両者の内容の齟齬を認めることによって区別することができる。

 

 

◆同一性の揺らぎ――「私が」夢を作り出すのか?

 〈夢〉と《夢》の間には、存在論的な夢と概念・認識論的な夢という現実的な差異が存在する。両者の身分は異なっている。だが現実=夢と現実=覚醒の落差は、対等な対立であって具体的な差異はそれらの内容しかない。内容のほかに差異を作るのは目覚めの圧倒的な力であるが、目覚めを中心にして両者を見れば、それらは全く対等なのである。ここに入れ子構造は存在しない。

 そのとき、現実=夢から目覚めた私は、戸惑いを覚える。全く対等な二つの世界を、私は移動したことになるからである。夢と現実は入れ子構造をもはや形成しない。両者は対等なものなのであって、夢と現実は異世界どうしとみなすことができるのである。

 夢から目覚めた瞬間、どうして夢の世界へ郷愁を覚え、目覚めた世界に違和感を覚えるのか。夢の世界こそが昔なじみの、私の居場所のような気さえすることがあるのはどうしてなのか。そのとき私自身が何者であるのか、少なからず見失うのはどうしてなのか。……

 現実=夢の世界と、現実=覚醒の世界を、パラレル・ワールドのように捉えることで、その問いに答えることができると思われる。

 

 たとえば次のような事態を想定してほしい。ある日突然私の記憶が全て変わってしまったという事態である。ある瞬間に今までの記憶を全て失い、新たに全く異なる記憶を何者かによって植えつけられたとする。しかし私はその記憶の変化に関する記憶も知識も持っていない。私は当然のように新しく植えつけられた記憶によって、世界と自分を理解するだろう。その記憶をずっと保持してきたと思うだろう。ところが、その新たな記憶は、実はずっと何も変わらずに存続している世界とは何ひとつ一致しない記憶なのである。

 私は新たに植え付けられた記憶に従って、自分にとって馴染み深いものを探そうとする。しかし私の家族や友人、自分の持ち物は一切見つからない。世界とは何ら関係のない記憶が植えつけられているからである。私は全く知らない人間に、全く知らない名前で親しげに話しかけられるだろう。

 このとき私は何を思うだろうか。私には記憶の変化の記憶も知識も無い。そうであるならば、私は「世界は突然変わってしまった」と考えるはずである。しかし私以外の他者は全て、「私の記憶が変わった」と考えるだろう。両者は渾然一体となっていて、区別することはできないのである。

 これを夢に当てはめて考えてみる。夢から覚めて世界の変化を感ずるとしても、一般的な夢理解にしたがえば、夢は幻覚にすぎないのだから、それは単に私の記憶の問題とされるだろう。しかし、記憶が変化してしまったということと、世界が変化してしまったということを区別することはできない。そうであるとすれば、夢から覚めるたびに、私は世界の変化を、あるいは異世界への移動をしているとも言えるはずなのである。そしてそうとしか考えられないのである。

 目覚めの瞬間において私は、私の持つ現実=夢の記憶と現実=覚醒の世界の事実との間に立たされ、もちろん全く同じ意識の主体であり続けるはずなのだが、私自身が何者なのかを見失うことになるだろう。

 世界に存在する、馴染み深いものが私という人格や記憶を保証してくれているのであって、それらが全て失われてしまえば、私自身の記憶がどんなに残っていようとも、私は全く同じ人物ではありえなくなってしまうのである。夢からの目覚めにおける激しいまでの郷愁や、自らを見失うようなめまいはこれに由来するものと考えることができる。

 一貫性や同一性を持つ「私」というものが存在しないということは、夢を作り出すような「私」が存在しないという意味にほかならない。夢を幻覚として形成するものがあるとすれば、夢を包み込むような、一貫性や同一性を持つものにほかならないが、それは不可能である。現実=夢と現実=覚醒は交互に現れるのみであって、一貫性や同一性を保持した何者かがそれを形成するわけではないのである。

 

 

◆まとめ

 私は夢から目覚めるたびに私を見失い、私を見出し直している。いままでの議論によって、夢は幻覚などではなく、間違いなく現実であって、現実=夢と現実=覚醒は入れ子構造を形成せず、目覚めを境にして対等に対立するものであることが明らかになった。さらに、目覚めにおいて私は私自身の同一性の揺らぎを覚えるのである。

 もし夢と現実の入れ子構造を維持するなら、夢を包み込む現実の側の一貫性や同一性が必要となるのだが、目覚めの度にそれは失われる。夢を包み込むような現実の側の一貫性や同一性は保証されない。そうした一貫したものが存在しない以上、現実=夢と現実=覚醒は交互に現れるだけであって、どちらかがどちらかを包含することはない。

 夢を包含するような現実の一貫性や同一性などなく、現実=夢と現実=覚醒が交互に現れるだけなのだから、夢は現実の何者かが形成するものではありえない。目覚めるたびに私の同一性は揺るがされる。目覚めの際に戸惑い、めまいを覚える私の与り知らぬところから、夢はやってくるのである。

 

(2012年10月14日)

現実よりも現実らしく、夢よりも夢らしく

「現実よりも現実らしく、夢よりも夢らしく」/「響き」の小説 [pixiv]より転記。

 

 私はこの世界に生きてるのかどうか疑問に思うことがある。もちろん私は生きている。肉体を持ち、心臓は動き、呼吸をし、食べ物を食べ、何事かを意識し、何事かを思考し、睡眠を取り、ときに夢を見る。私はこの意味で確かに生きている。これは単に生物学的に生きているということ以上の意味で、私は生きていると言えるだろう。だが重要なのはそれではない。
 私はこの世界に生きているのか疑問に思うというその疑問は、私はこの世界の中に居場所があるのかどうか疑問に思えるということに等しい。「居場所」という言葉はいささかナイーブな言葉であると思う。他に言いかえるならば、私が世界に歓迎されているのかどうか疑問であると言える。


 私はこの世界に歓迎されていないのではないか、という実感が私にはある。どこに行っても私は余計なのだ。割り切れずに余る余りのようなものだ。グループを作れば余りとして残り、幸運にもグループに入ることができたとしてもその中でオッドとして他の人の顔を引きつらせる。口を開けば他人の顔を凍らせ、場の空気をお通夜に変える。私はどうやらそういう人間であるらしいのだ。
 もっと言えば、「誰でも歓迎」という看板に釣られて行ったところで「こいつも来ちゃったよ、どうしよう」と思われる人間であるのだ。「誰でも歓迎」の「誰でも」の中にそもそも私は入れられていない。そもそも勘定に入れられていないのが私だ。
 そんな私が生きているなどと言えるだろうか? 確かに生物学的にも、それ以上の意味でも、私は生きていると言えるだろう。けれど、誰からも、世界からも歓迎されない私が、世界の中に生きていると言えるだろうか? そもそも世界という土俵に上げてもらえていないのだから。


 だから私は夢を見る。夢の世界は私が開く世界で、私だけが開く世界だ。夢の世界を、人は非現実的であると言う。夢は現実ではないということだが、夢はしかし私にとってはまぎれもない現実だ。それをなぜ他人は「非現実的だ」などと言えるのだろう。
 私にとっては、私を歓迎しない世界の方が、よっぽど夢であると言えるような気がしている。いや、もちろん私は日々の生活の中で、世界にうまく馴染めるように努力している。電車の中ではおとなしくしているし、レポートを期日までに提出したり、労働者として働くこともできている。そしてそうした生活が大事だと思っているし、それを積み重ねることなしには私の未来は確かなものとしてはありえないだろうとも思っている。世界は夢のようだとさっき言ったけれども、同時に世界こそが現実だとも思って私はそこに生きているのだ。
 ああ、やっぱり私は世界に生きているのか? 私を歓迎しない世界の中で、私は息を潜めてその成員にうまく成りすまそうとしている。「誰でも歓迎」の「誰でも」に入れてもらえなかったのに、呼ばれてもいない会合にのこのこと出て行ってその場の人たちの顔をゆがませないように私はうかがっているかのようだ。呼ばれてもいない会合にのこのこと出向いてその場の人たちの顔色を青ざめさせることほど恥ずかしいことはない。私にとってはある意味で毎日がそうなのだ。


 夢と現実と、どっちが現実であるというのだろう。いや、そのように問うている時点で、夢と現実はもう区別されている。その区別に乗っかった上で、もう一度問うてみよう。夢と現実と、どっちが現実なのか。私が思うに、どっちも十分現実らしく、どっちも十分夢らしい。
 夢はもちろん夢であるからには現実ではない。それは夢だ。けれど、それはやはり私に現れる現実なのだ。だからそれは私にはかけがえのない大事なものが詰まっている。では現実の方はどうか。現実は確かに現実だ。そこで私は暮らし、ものを食べ、労働者として賃金を稼ぎ、自らの仕事を果たして成果を挙げようとしている。そこで私は生活しているのだから、それはそれで私はそれを大事な場所であると思っている。けれど、その現実世界は、私を歓迎しているわけではない。私はどうやら世界に求められずにそこに生まれた。誰が望んだのか知らないが、私はそこに生まれた。
 私は生まれてしまった。世界に歓迎されていない。私に居場所はない。さてどうしたものか、私はこの世界を愛することがうまくできない。もちろんできるならば世界に歓迎されたいと私は思う。けれど事実世界は私を歓迎していない。だから私はそんな世界に生きていたいと、そんなに熱心には思っていない。できれば別の風に生まれたかったと思うし、もし可能ならばその願いが叶ってほしいと思う。けれど生まれ直すなんてことは誰にもできやしない。だから私が願う別の生へと可能な限りで変化してみたいと夢想することもある。
 夢想。私はこの現実に生きているけれども、他の生を夢想している。その夢想の中では、この現実は無数に存在しうる可能性の中の一つにすぎないのだ。だからこの現実は、私は確かにそこで生活していて、そこでのルールや約束事を守ってはいるけれども、やはりこの現実は、どこか少しは夢みたいなものなのだ。逃れることはできないし、そこから覚めることもありえないだろうけれども、この現実世界は夢みたいなものなのだ。


 だから私は遠くへ行きたいと願う。ここではないどこか遠くへ。実際にそこへ行ってしまうんじゃない。ただ願うだけだ。旅行に行ったとして、空想していたのとは感じが違うと思うことがある。空想しているときの方が、その行き先は輝いて見えるものだ。それは小説を読むということも同じで、実際に映像化されてしまえば、その映像についてなんて陳腐なんだと感じることは少なくない。想像力は偉大なのである。
 遠くへ行きたいと願うということは、想像力を駆使して、今ここではないどこかへ一瞬にして身を移してしまうことだ。空想の世界の中に、他の生を得る。そのとき現実は、現実としての身分を失い、無数の可能性の一つへと転落する。だから現実は夢みたいなものだ。空想の中の世界は、そのときもっともっと現実感を獲得して私に迫る。そうして私は遠くへ行きたいと願う。


 夜。夏の夜は空気が重く、水分を含んだ風がじっとりと汗ばんだ肌にまとわりつく。湿気の多い空気は揺らぎ、星はあまりよく見えない。冬の夜は空気が鋭く、冷えた刃のような風が首筋を掠める。大気は張りつめ、透き通った黒い水晶のような夜空に星が瞬く。
 星空を眺めるとき、遠い世界を思う。星が何光年という遠くにあり、それが何年も時間をかけてここへ届くことを思うとき、その想像の中の時間は私が生きている時間を優に超え出る大きさとなって私に迫ってくる。私がここに生きているということが、もっと大きな世界の、もっと大きな時間の中の、ほんの一部、誰も省みないようなちっぽけなものとなる。それが、私には寂しくもあれど、心地よく感じられるのだ。私が生きる世界がまるで夢のように思われることと、この世界が無数にも思われる大きさの中のほんの小さな一部でしかないということが、重なるように思われるのだ。


 星空だけではない。屋上に立つとき、ベランダに立つとき、雲が見える。向こうの副都心が見える。雲は上空数千メートルから何万メートルの高さを浮かぶ。それと比べれば地上の私など小さなものだ。そしてその行程を私は知らない。私の知らない遠くで雲は生まれ、私の知らない遠くへと雲は行くのだ。その遠くを、私は思う。
 遠くのビル群は、手が届くように見えるところに聳えているが、今すぐにそこへ行くことはできない。そしてそこへ行ったところで、私が見たビル群という表象は消えてしまうのだ。ビル群という塊は、遠くから見ることによってしか現れない。遠くに立つことで、それはビル群として現れる。ビル群があるということは、すでに私はそこにいないという距離が発生しているのだ。その遠くの場所を、私は思う。
 宇宙の星々、雲、ビル群…… 遠くの場所を思うとき、浮き彫りになるその遠さを、私は埋めることができない。その遠さは、埋められるようなものではない。そこへ行くことはできないのだ。行くことができない遠くの場所が、しかし目の前に見えている。ここと、遠くの向こうという二か所が、断絶した遠さによって連接している。
 その遠さを埋めることができるのは、唯一想像力だけだ。私は想像力によって、空想の中でその遠さを埋める。遠くのその場所へと、空想の中で赴く。今のここという場所は、空想によって薄められ、逆に夢のように揺らぐ。遠くの場所へと向かう空想の方がよっぽど現実として迫ってくる……


 これは死のイメージである。遠くの向こう側の場所と、今ここという場所。この二つは断絶していて、繋がりようがない。未来にいつかやってくるべき死の瞬間を私は知らない。私はいまここで確かに生きているのだから、今死んでいるわけではない。だが、私の死はいつかやってくるだろう。そのように想像することはできる。私が死んだとしたら、誰が何を思うだろうかと想像することもできる。想像によって私は死へと到達する。想像によって、今と未来の死の瞬間を結びつけるのだ。
 けれど、いますぐその二点を結びつけることはできない。向こう側の場所へと今すぐ行くことはできないし、何より行ってみたところでそこは「遠くの向こうの場所」としての表象を失う。死の瞬間に、私は「死」の表象を得ることはできない。私は死んで意識を失ってしまっているだろうから。
 宇宙の星々、雲、ビル群。これらはいつか私に訪れる死の場所にほかならない。私は今ここに確かに生きているけれども、私はいつも空想によって遠くの場所を思い、今生きている場所を夢のように揺らがせている。空想の中で私は今ここの場所と、死の場所とを連接させている。私はこの世界に歓迎されていない。私はこの世界の中に居場所がない。私はだからこの世界の中で生きているのかどうか分からない。まるで死んだように生きているか、生きたまま死んでいるかのどちらかのようだ。
 私は毎日、死へと向かって生きているようである。この現実からたった一人で抜け出して、死へと静かに向かう銀河鉄道に乗っているかのようだ。毎日乗る電車から見える風景は、だから死の世界へと一人で向かう最後の風景のようでもある。
 そのくらいには、現実に対して現実感を覚えていないのである。

 

(2014年12月8日)

あの日見た夢さえ思い出せない

「あの日見た夢さえ思い出せない」/「響き」の小説 [pixiv]より転記。

 

 あの日見た夢さえ思い出せない。何かぼんやりと夢を見たことだけは覚えている。そのとき夢のなかで見たものを、夢のなかで目の前にしたものを、もう一度この手に掴み直したくて、夢のなかへ遡ろうとしたことも。そしてそれは不幸にも成功しなかったことも。けれど、もうその夢さえ思い出せない。そこに何か大事なものがあったかもしれないのに。だが、本当にそこには何かがあったのだろうか? 本当は何もなかったのではないか? 何もなかったのに、そこに何かがあったかのように私自身が思い込んでしまっているのではないか?
 いや、確かにあったのだ。これほど思い焦がれる夢なのだ。そこに何もなかったという方がおかしいはずなのだ。そこには確かに何かがあった。私の心をひきつけて止まないような何かが。夢のほうこそが現実だと思わせるような何かが。けれど、それはもう忘れてしまった。
 こうやって夢を見てはそれを忘れ、思い出そうともがき、記憶の波に押し寄せられて、意識の砂浜へと打ち上げられる。真っ白で、何ら現実感のない砂浜。水のなかを泳ぐような質量を全身に感じながら、何かを手に掴み取っていたあの夢のなかの方が、よっぽど今よりも現実らしく感じられる。けれど、もうそれは目の前にない。夢から目覚めた瞬間から、それは遠い過去へと押しやられて、記憶から消えてしまったのだ。
 けれど、夢を見たことを覚えているだけ幸運なのだ。忘れてしまったのだということが分かっているならば、失われた部分の空白を埋めることができる。それは事実として可能なのだということではなく、ただ、論理的に可能だということを意味するだけなのだが。
 だがもし、忘れてしまったことすら忘れてしまったら? 夢を見たことさえ忘れてしまったら? もうそれは初めから何も見聞きしなかった、そこには何もなかった、と、こんな風になってしまうしかない。それはとても悲しく、そしてとても恐ろしいことに違いないのだ。埋めるための空白すらも消えてしまったのだから。空白がなければ、何も埋めることができない。
 いや、空白があったことすら、今となってはもう定かではない。だから、きっと私は、空白の印を失ったのだ。ここに空白があったよと指し示す印を。だからもう失ったものさえわからない。それはどこかで涙を流しているかもしれないのに、慰めてやることすらかなわない。
 今もこうして、平然と生活をしながら、そこらじゅうに忘れてしまったものを放り投げて、思い出してもらうことを待っているような、そんなものがたくさんあるかもしれないのだ。それはしかし夢にかぎったことではない。生まれてこの方目にしてきたものを、耳で聞いてきたものを、この手で触れてきたものを、すべて記憶しているわけではない。
 一説では、ただ思い出せないだけで、すべて記憶しているのだという。だがそれでは意味がない。無意味なのだ。思い出せないのでは、それはもはや存在しないも同然なのだから。それを記憶するべき人がひとりしかいないなら、彼が忘れてしまえば、それは存在しないも同義となってしまうのだ。
 同様に、夢は覚えていないだけで誰もが眠っている間に必ず見ているのだ、と言う人もいる。それも無意味だ。記憶していないのに、誰もが見ているだなんて言うことはできない。夢を見ているまさにそのときにのみ、いや、夢は目覚めて初めて夢となるのだから、夢から目が覚めたその瞬間においてのみ、夢を見ていたと言うことができるのだ。しかし夢から目覚めた瞬間に、夢を見ていたことも忘れてしまうならば、そんなことは不可能なのだが。


 きっと、そこらじゅうで、忘れ去られた記憶たちが思い出してもらうことを待っている。忘却に押しやられて過去の地層へと埋められてしまった記憶たちが、そこらじゅうで待っている。電柱の影から何かが飛び出してくるかもしれない。本棚の隙間から、冷蔵庫の中から、枕の下から。忘れ去られた記憶が、顔を出して私を驚かせるかもしれない。そこらじゅうに記憶たちは散らばっている。私の生活のなかのそこかしこが、失われた過去へと繋がっているのだ。
 そこらじゅうに散らばっている記憶たちが、本当に、私が忘れてしまったものたちであるとすれば、それは私自身の断片にほかならないのではないだろうか? そしてそれは同時に、私自身がばらばらになって、そこらじゅうに散らばっていることを意味するのではないか? そこらじゅうに私自身が、私の一部が、頭が、腕が、転がっているのではないか?
 この世に存在し始めてから、この現在までに連なる歴史のすべてが私を形成しているなら、この現在の私自身は、それらすべてを記憶していなければならないはずなのに、私はそのうちの多くのものを忘れてしまっている。今まですべての歴史によって作られている私自身と、現在記憶している私自身とのあいだに同一性はないのだ。この不一致を、埋めなければならないのではないか? ばらばらに散らばってしまった私の断片を、私は拾い集めなければならないのではないか?
 けれど、それが何であったのかさえ、もはや分からない。それが存在するのかどうかすら、私には分からないのだ。存在するのかどうかすら分からず、でもきっと、いや確かにすると思えてならないような私の断片たちを拾い集めて、この手のなかで優しく撫で回して心のうちへと戻してやりたいのだ。彼らのために一片の涙を落としてやりたいのだ。それがきっと、弔いということなのではあるまいか? それが存在したかどうかすら、いまはもう分からなくなってしまった、消滅してしまった何かを思うことが、祈りというものなのではあるまいか?

 これから消えてゆこうとするもの、その消滅を見届けたい。こう願わずにはいられないことがある。道を歩いているときに、ふと、その瞬間に消えてゆこうとしているものが思い浮かぶことがある。その顔も、姿も、声も、何も分からないのに、それでも具体的に、誰かが、何かが、消えてゆこうとしていることを、この身に受け止めたいと思うことがある。これから消えてゆくものの、その消滅を見届けることはできる。それは認識可能なものなのだ。
 だがそれでは、すでに消えてしまったものはどうなのだろうか。確かに存在したはずなのに、消えてなくなってしまったもの。消えてしまったものは、もう、ない。だが消えてしまったという痕跡があれば、その消滅の足跡を追うことが可能である。
 だがもし、その痕跡もなく、綺麗に消えてしまったなら? それが存在したということも、それが消滅したということも、残さずに消えてしまったなら? 何の痕跡も残さずに消えてしまったものは、初めから存在しなかったも同然となってしまうのだ。そうならざるをえないのだ。
 跡形もなく消滅し、初めから存在しなかったも同然とみなされる、そんなものたちのことをよく思う。私自身のかつての記憶だって、私自身の消滅だって、もしかしたらそうかもしれないのだ。いや、きっと、おそらく、まちがいなく、そうなのだ。私自身の過去の多くはそうやって失われ、私自身もそうやって失われるのだ。そうであるよりほかないのだ。
 だが、そんなものたちを思うことこそが、祈りなのではあるまいか? 彼らに祈りを捧げることは可能だろうか? 跡形もなく消滅し、初めから存在しなかったと見なされてしまうような、彼らに向けて、いったい誰が祝福してくれるというのだろうか?

 そしていつともなく、忘れ果て、初めから存在しなかったと見なされてしまったものが、私に向けて復讐しにやって来るかもしれない。忘れ去られた私の断片は、きっと、そこらじゅうに散らばっている。それを拾い集めて弔ってやらないかぎりは、彼らは私に襲い掛かるだろう。拾い集めて弔うことができるのは、この私しかいないのだから。
 でもそれはきっと、失われた過去の記憶が私に刃を向けてきたときに、初めて気づくものなのだ。刃が向けられて、私は初めてその存在に気づくのだ。ああ、あのとき、この場所で、こんなことがあったのだ、と。だがそれは遅すぎるのではあるまいか? いや、そうでもしないかぎり思い出すことはできないのかもしれない。
 だがそれこそが、失った過去を取り戻し、二度と手放さないようにその存在を刻みつけることになるように思えてならない。だからこそ、傷がこれほどまでに愛おしく思えるのかもしれない。そうであるならば、私はその刃に傷つけられ、倒れてしまうことをも厭わぬべきなのだ。それこそが、記憶を確かにこの心のなかに刻みつけることなのだから。忘れてしまった夢のなかのものを、心のなかに留め置くことになるのだから。そしてそれこそが、消えてしまったものへの弔いと、私への罰となるのだから。


 だから、君をこの腕で抱きしめよう。強く、強く。

 

(2013年1月29日)