シャニマスコミュに見られる哲学的センスの話をするよ――幽谷霧子「でんごん」を読む

◆はじめに

 こんにちは。初めましての方は初めましてです。響きハレです。こちらの記事は、シャニマスPに哲学書をおすすめしたいという企画の第2回の記事になります。

 今回ここでは、シャニマスコミュに哲学的センスが見られるところがある、というお話を、幽谷霧子のpSSR【夕・音・鳴・鳴】のTRUEコミュ「でんごん」を読みながらしていくつもりでおります*1

 

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「でんごん」のほかにも哲学的なセンスが感じられたり直接的に哲学の話題が取り上げられているコミュがありますが、それらは今後哲学書を紹介するときにまた取り上げられたらと思っております。

 

 今回のこの記事では、最初に前回の記事についてのおさらいと捕捉をします。続いて私が考える哲学的センスということを、哲学についての哲学者の記述を引用しながらお話しして、それから「でんごん」の読解に入って行こうと思います。

 よろしければ今回もどうぞお付き合いください。

 

 

 

 

 

 

◆前回の記事について――おさらいと捕捉

◇前回の記事のおさらい

 まずここで、前回の記事についておさらいをさせてください。前回の記事のリンクを添付しますが、前回の記事を読んでいなくても今回の記事を読むことができるようにできるかぎり書いていくつもりでいます。

 

 先日、シャニマスPにおすすめしたい哲学書を紹介するというテーマで記事を書きました。

 

hibikihare.hatenablog.com

 

思いがけず多くの方に見てもらえたことを嬉しく思っております。感謝申し上げます。この記事が、哲学についての関心や新たな認識の一助となれたとしたら幸いです。

 

 前回の記事では、哲学とはどういうものなのかということと、哲学の入門書の紹介をさせていただきました。

 哲学がどういうものなのかというと、それは哲学的な問題に絡めとられて、その問題について考えていくこと、です。哲学は、単に過去の哲学者が考えたことや概念を知ったりすることではありません。哲学的な問題に絡めとられることがその出発点にあります。そしてその哲学的問題は自分の中から出てくるものなのです。

 紹介した哲学入門書は、こうした哲学的問題を考えていくという哲学観に基づいて、そういう問題を実際に考えていく入門になるような本を選んだものになります。実際にどんな本を紹介したかはリンク先の前回の記事をご参照ください。

 

 

◇前回の記事の捕捉

 前回の記事を読み返してみて、捕捉が必要かなと思った点がありましたので、本題に入る前に2点捕捉させてください

 

(1)シャニマスのコミュを理解するために哲学の知識が必要?

 前回の記事では、シャニマスコミュを読むにあたって、哲学(の議論)について知っていたら読解が豊かになる、というお話をさせていただきました。が、これはシャニマスのコミュを読んでそれを理解するために哲学の知識が必要だという意味ではありません。このことにどうか注意してください。

 哲学のことを知っていると、こういう風にも読めるのではないかと読み方の幅が広がる、ということに意義があると思っております。幅を広げることができるのはなにも哲学だけではなくて、引用されている文学作品や音楽や雑誌などについての知識や、実際の経験などもそうした役割を果たすことができます。

 それに、こうしたもの(引用されている文学作品や音楽や雑誌などについての知識や実体験など)がなければコミュが理解できない、という風にはコミュは作られていないんじゃないか、と私は思います。同様に、哲学について知らなくてもコミュを理解することは可能なはずです。

 ですので「哲学のことを絶対知ってね!」とおしつけをする気持ちは全くありません。「哲学の議論について知っていると良いことがあると思うよ!」とおすすめするくらいのつもりでおります。ただ、シャニマスはすでに哲学と絡めて語られている場合が多く、それならぜひ哲学のことももっと知ってもらいたい、と思う部分があります。哲学についての解像度も高くしてもらえたら、もっと話を深めることができて面白さが増すのではないか、と思うのです。それで、シャニマスPにおすすめしたい哲学書の話をすることを思いついたというわけなのでした。

 

(2)哲学をするのに過去の哲学者のことを知る必要は全くない? 

 こちらは哲学とはどういうものかということについての捕捉です。哲学は、単に過去の哲学者について知ることではない、という点を前回の記事では強調して書きました。そのためもしかしたら、哲学をするにあたって過去の哲学者の考えたことや概念を知る必要は全くないのだ、という印象を与えてしまったのではないかと危惧しております。

 もしそう思われてしまったのでしたら、それは前回の私の記事が不十分であったことを意味します。哲学をするのに過去の哲学者の考えたことや概念について知る必要は全くない、ということはありません。過去の哲学者が考えたことを、自分の抱えている問題や問題についての考えにぶつけてみることで、自分の抱えている問題についての理解がより深まることが期待できます(必ずしもそうとは限らないのですが)。

 問題についてあらゆる角度から自分一人で深く考えることができるような大天才は別かもしれませんが、ふつう一人で考えることには限界があるはずです。自分が絡めとられている問題について、たとえばカント的な見方をする場合とフッサール的な見方をする場合とウィトゲンシュタイン的な見方をする場合とで、問題の見え方が異なってくるということがあります。そうすることで自分が絡めとられている問題をよりよく理解することができるようになるのです。

 ですので自分以外の他人が考えたことを知ることは、自分の抱えている問題についての理解を深めてくれます。特に歴史に耐えて今でも読まれ続けているような古典とされる哲学書やそこで用いられている概念はそういう役目を果たしてくれることが多いです。多くの哲学研究者は、そのために過去の哲学書を読み、それらを理解しようと努めていると言えます。

 あとこれは哲学のコミュニティのお話なのですが、特定の哲学者(たち)の議論を知っていてその議論を土台にしながら自分の抱えている問題を言語化するという方針を取ることによって、哲学者どうしで互いの問題を理解したり議論を行ったりしやすくなるというメリットがあります。

 また、哲学者(たち)の議論を知っていてそれらを土台にすることで、自分の問題と思考が単なる空想や妄想ではなく「哲学」の範囲に収まるものだということを示すことができます。そしてそれ自体が、哲学(研究)者として適切に訓練を受けたというイニシエーション的な役割を果たしたりもします。こちらはより学問としての哲学のコミュニティのお話ですね。

 

 前置きがちょっと長くなってしまいました。それでは本題に入っていきましょう。まず哲学的なセンスということで私がどういうことを考えているのかをお話して、その後で【夕・音・鳴・鳴】「でんごん」の読解を始めたいと思います。もう少し前提的なお話が続きますが、どうかお付き合いください。

 それではどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

◆哲学的なセンスについて

 コミュの読解に入る前に哲学的なセンスということについて触れておきたいと思います。前回の記事でお話した、哲学がどういうものなのかというお話をもう少し詳しく展開したお話になります。今回読もうと思っている「でんごん」のコミュの中に私がどんなものを哲学的センスとして感じ取ろうとしているのかをお伝えできたら、と思っております。

 前回お話した哲学がどういうものなのかというのは、哲学の問題に絡めとられること、そうした問題は自分の中から出てくるということでした。

 

 これに沿って、便宜上2つに分けて考えてみます。

 前者は、日常生活を営む世の中が成り立つために当たり前のこととして前提となっていることを当たり前のこととして受け止めないというセンスが関係しています。こうしたセンスを明確にするために、哲学者とそうでない人との間で問いの立て方が異なるというお話をします。

 後者は、誰かが考えた哲学に導かれてそうなってしまうのではなく、自ずとそうしたことが気にかかって仕方がないというセンスが関わっています。ウィトゲンシュタイン永井均が哲学を水泳にたとえた話を引用します。

 霧子のコミュを見るにあたって、まずはこれらの点を見ていきましょう。

 

◇2種類の問題

 ここでは前者の方のお話です。これは簡単に言うと、哲学の問題のとっかかりになるようなセンスです。

 前回の記事で紹介した、永井均の著作『マンガは哲学する』に分かりやすい記述がありますのでそちらを引用してみましょう(前回も引用した部分です)。

 

「世の中の内部で公認された問題とはちがう、世の中の成り立ちそのものにひそむ問題が、きわめて鋭い感覚で提起されているように思われる。だれもが自明と思い、その自明性のうえに通常の世の中的な対立が形づくられているような、もともとの部分がそこで問題化されている」(永井均『マンガは哲学する』講談社,pp.1-2)。

 

 「世の中の内部で公認された問題」(あるいは「通常の世の中的な対立」)と、「世の中の成り立ちそのものにひそむ問題」とが区別されていることに注意してください。問題が2種類に区別されています。この2種類の問題のうち、「世の中の成り立ちそのものにひそむ問題」が哲学が扱う問題です。その問題のとっかかりになるようなセンス、それが私がここで考えている哲学的なセンスです

 

 この2つの問題の区別を、哲学者のトマス・ネーゲル分かりやすく例示してくれています。ちょっと長くなりますが引用してみましょう(引用文内の太字強調は引用者によります)。

 

 「私たちはみんな、日々、非常に一般的な観念を用いているのですが、そうした観念について、とりたてて考えてみることはありません。ところが、哲学が主に関心を寄せているのはこの観念を問い直し、理解することなのです。歴史家であれば、過去のある時に何が起こったか、と尋ねるかもしれませんが、哲学者は、「時間って何だろう?」と尋ねるでしょう。数学者であれば、いくつかの数の間に成り立つ関係を研究するかもしれませんが、哲学者は、「数って何だろう?」と尋ねるでしょう。物理学者であれば、原子は何からできているのか、重力を説明するものは何だろう、と尋ねるかもしれませんが、哲学者は、私たちの心の外に何かが存在するということを私たちはどうやって知ることができるんだろう、と尋ねるでしょう。心理学者であれば、子供はどのようにして、ある言語を学習するのかを研究するかもしれませんが、哲学者は、「あることばは、どのようにして何かを意味するようになるのだろう?」と尋ねるでしょう。映画館にお金を払わずにこっそに忍び込むのは不正ではないか、と尋ねることはだれにでもあるでしょうが、哲学者は、「ある行為を正しいとか、不正なものとするのは何なのだろう?」と尋ねるでしょう。

 私たちは、時間、数、知識、言語、正しいことと不正なことといった観念を、たいていの場合、当たり前のものと考えていますし、またそう考えなければ生活していけないでしょう。しかし、哲学は、こういった事柄そのものを調べるのです。その目的は、世界や私たち自身についての理解をちょっと深めることです」(トマス・ネーゲル『哲学ってどんなこと?』岡本裕一朗・若松良樹訳,昭和堂,pp.5-6)。

 

 「過去のある時に何が起こったのか」「いくつかの数の間に成り立つ関係」「原子は何からできているのか」「重力を説明するものは何だろう」「子供はどのようにして、ある言語を学習するのか」「映画館にお金を払わずにこっそり忍び込むのは不正ではないか」といった問題が、永井の言う「世の中の内部で公認された問題」に当たります。これらは、問題(解かれるべき問い)であるということ自体が世の中の内部において公認されているのです。

 一方の、「時間って何だろう?」「数って何だろう?」「私たちの心の外に何かが存在するということを私たちはどうやって知ることができるんだろう」「あることばは、どのようにして何かを意味するようになるのだろう?」「ある行為を正しいとか、不正なものとするのは何なのだろう?」という太字で強調した問題が、永井の言う「世の中の成り立ちそのものにひそむ問題」に相当します。これらは、日常生活が営まれる世の中の内部においては、問題(解かれるべき問い)と公認されてはいません。ネーゲルが言うように、私たちは、時間や数や知識や言語や正しいことや不正なことといった観念を「当たり前のものと考えていますし、またそう考えなければ生活していけない」のです。

 日常生活が営まれる世の中が成り立つためには、こうした観念は当然のこととして前提となっている必要があります。それらの観念を当然のこととして前提とするということは、それらに対して疑問を差し挟まないということ、それらを問題視しないということです。つまり、それらの観念に疑問を差し挟まないということ、それらの観念を問題視しないということによって、世の中が成り立っていると言えるのです。それゆえ、時間や数や知識や言語や正しいことや不正なことといった観念に対して疑問を差し向けたり問題視したりするということは、世の中の内部において公認されるようなことではないのです。

 このように、哲学者は世の中が成り立つために当たり前のこととしていることに対して、それを当たり前のこととして受け取らず、問いを差し向けます。世の中が成り立つために当たり前にしていることは、あまりにも当たり前すぎるので、日常生活を営む中でそれに視線が向けられたり、それが意識されることはあまりありません。ここで私が考えている哲学的センスは、そういうものに対して視線を向け、それを当たり前のものとして素通りしない(できない)というものなのです。

 

 

◇水の中を泳ぐイメージ――潜ると沈む

 ここでは後者の方のお話です。水の中を泳ぐ、という比喩的なイメージを用いてこのお話をしていきます。

 哲学者のノーマン・マルコムは、師匠であるウィトゲンシュタインの回想録を書いています。その回想録で、マルコムはウィトゲンシュタインが哲学を水泳にたとえたというエピソードを伝えています。

 

 「ウィトゲンシュタインは哲学的思考を水泳にたとえる比喩を好んでした。水泳では人間のからだは自然に水面に浮かび上がる傾向がある。人間は水中にもぐろうと努力せねばならない。哲学も同じようなものだ、と」(ノーマン・マルコム『ウィトゲンシュタイン』板坂元訳,平凡社ライブラリー,p.70)。

 

この比喩に従えば、哲学的な思考をすることは水の中に潜って泳ぐことにあたります。日常生活は空気の吸える水面にあり、水面で生活する人たちは水中がどうなっているかを知る必要がありません。成り立っている世の中の内部で自然と生きることができている人たちにとって、世の中を成り立たせるための前提として当たり前になっていることに対して疑問を抱かないのと同じです。水中を泳ぐというのは、世の中を成り立たせるための前提として当たり前になっていることを当たり前のこととせず、それはどういうものなのか、どうして前提としてそれが必要なのか、といったことを考えるということです。

 この水中を泳ぐという比喩を、永井均は2つに分けています。

 

 「この話を読んだとき、ぼくはこう思った。でも、ひょっとしたら、人間の中には、自然にしていると、どうしても水中に沈んでしまうような特異体質のやつがいるんじゃないか、そしてたとえばウィトゲンシュタインなんかがそうなんじゃないか、と」(永井均『〈子ども〉のための哲学』講談社現代新書,p.194)。

 

永井均はここで、水中を泳ぐ人を、水面からわざわざ潜って水中を泳ぐ人と、何もしなくても自然と水中に沈んでしまう人とに分けています。自然と水中に沈んでしまうというのは、世の中を成り立たせるために前提となっていることに対して自然と目が向いて疑問を抱いてしまったりするということに相当します。そしてその2種類の人それぞれで、哲学の意味が異なると永井は言います。

 

 「水面に浮かびがちな人にとって、哲学の価値は、言ってみれば、水面下のようすを知ることによって水面生活を豊かにすることにあるだろうし、それしかないだろう。水面に浮かんでいるだけではつまらないし、人生に深みも出ない、ちょっと水面下のようすも見てみたい、といったところだ。

 でも、水中に沈みがちな人にとっての哲学とは、実は、水面にはいあがるための唯一の方法なのだ。ところが、水面から水中をのぞき見る人には、どうしてもそうは見えない。水中探索者には、何か人生や世界に関する深い知恵があるように見えてしまうし、ときには逆に、そんな深いところに沈むことが、水面でのふつうの生活にとってどんな役に立つのか、なんて、水中にいる人が聞いたら笑いたくなるような(あるいは泣きたくなるような)問いが、まじめに発せられたりもする。この二種類の人間にとって、哲学の持つ意味はぜんぜんちがう」(同上,pp.194-195)。

 

 水面に浮かびがちな水面生活者と、水中に沈みがちな水中探索者それぞれで、哲学の意味が違っています

 水面生活者にとっての哲学(=泳ぐこと)は、水面生活を豊かにするためにあります。水中の面白く物珍しい様子を知ることで、水面生活が豊かになるというのです。

 一方の水中探索者は、自然にしていると水中に沈んでしまいます。ですが息をする(生活する)ためには水面に上がらなければなりません。ですので、自然に沈んでしまう人が水中に上がるためには、泳ぐ(=哲学的思考をする)必要があるのです。

 それはこういうことです。水中探索者が自然にしていると水中に沈んでしまうというのは、世の中を成り立たせるために当たり前のこととなっていることを、どうしても当たり前のこととして受け止められないということです。時間とか数とか、言葉が何かを意味するとか、何かを知ることができるとか、正しいとか不正とか、そうしたことが水中探索者には気になって仕方がない。でもそうしたことを気にしたままでは、生活することはできません。哲学者も人間ですから、世の中の内部で日常生活を送ることができなければならないのです。

 人と約束をしてそれを守ったり、買い物をしたり、人と会話をしたり、法律を守ったりしないと、世の中の内部で日常生活を送ることができません。そしてそれらを行うためには、時間や数や、言葉が何かを意味するということや、何かを知ることができるということや、正しいとか不正といったことを、前提にしていないといけないのです。ですが哲学者はそれらを当たり前のこととして受け止めることができません。そこで哲学者は、それらを日常生活の前提とするために哲学的思考を必要とするのです。水面に浮かび上がるために泳ぐ(=哲学的思考をする)というのはこういうことなのです。これは、哲学者が納得できるかたちで「世の中」の成立を論理的に説明するということなのです。

 

 このように自然と水中に沈んでしまうということもまた哲学的なセンスの重要なポイントだと私は思います。それゆえ、哲学的センスがあるということは単に哲学者の議論や哲学の話題を引用することだけではない、と思うのです。それらは水面から水中の様子を覗きに潜っていくことに当たるからです。哲学は、水中に潜ることではなく、自ずと水中に沈んでしまっている人が水面に上がるために必要としていることなのです*2

 

 

◇哲学的なセンス

 私がここで考えている哲学的なセンスというのは、世の中を成り立たせるために前提となっていることに関して視線を向け、さらにそれを当たり前のこととして受け取らないというセンスです。そしてそれは、哲学の話題を持ち出すということだけでなく、自然とそうしたところに目が向いてしまうというセンスです。このセンスに従うと、「世の中」の成立が崩れてしまいます。「世の中」の成立が崩れてしまうのですが、わざと崩しているわけではないのです。そういうところから哲学は始まるのです。

 シャニマスのコミュの中には、世の中を成り立たせる前提に視線を向けて、しかもそれらを当たり前のこととして受け取らないことで世の中を成り立たせる前提として機能させなくする見方が挿入されることがありますしかもそこで登場うする人は、自ずとそうしたところに目が行ってしまうように見えるのです(少なくとも私には)。

 

 私はシャニマスのコミュのそういうところに哲学的なセンスを感じています。とりわけ、幽谷霧子のコミュの中にそれを感じることがたくさんあり、そのうちの一つが【夕・音・鳴・鳴】のTRUEコミュ「でんごん」なのです。

 「でんごん」から読み取れる哲学的な問題は、記憶に関する問題と、ある事物や人物の存在の持続に関する問題です。過去の記憶についての観念や、ある事物や人物が存在し続けるという観念もまた、世の中を成り立たせる前提的な観念です。「でんごん」ではこれらの観念が、世の中を成り立たせる前提となっているようなものとは違った風に登場するのです。そこに注目してコミュを読んでいきたいと思います。

 

 それではいよいよ【夕・音・鳴・鳴】「でんごん」のコミュの読解に入っていきましょう。

 

 

 

 

◆【夕・音・鳴・鳴】「でんごん」を読む

◇コミュの概要

 「でんごん」は幽谷霧子の2枚目のpSSRのTRUEコミュです。シャニマスのコミュは、1つのカードの中でエピソードが繋がっていたり繋がっていなかったりとさまざまで、繋がっているかどうかも読者の読みにゆだねられていることもありますが、今回この「でんごん」は独立した1つのエピソードとして取り上げます

 

 このコミュは、(おそらく)駅から事務所までの道のりをプロデューサーと霧子が歩く間の会話になっています。道すがら空き地に出くわし、プロデューサーと霧子の2人はそこにかつてどんな建物が建っていたのか思い出せません。そこで霧子は、誰も知らないうちに建物を移動させてしまういたずらな妖怪の話をします。コミュはその妖怪と、記憶をめぐって展開していきます。

 このコミュは、大きく4つの部分に分けることができます

 

 (1)空き地にかつて建っていた建物が思い出せない

 (2)建物を移動させてしまう妖怪がいる

 (3)霧子もその妖怪に移動させられてきたのかもしれない

 (4)もしいつか移動させられるようなことがあっても事務所のことを覚えていたい

 

  (1)の建物が思い出せない、というのは日常の中でよくある話だと思います。私もそういう経験があるし、思い出せないねと人と話したことがあります。

 (2)の建物を移動させてしまう妖怪がいるという話に移動することで、話が哲学的な色を帯びてきます。記憶が問題になるからです。建物を移動させてしまう妖怪は、建物について知っている人たちみんなの記憶を操作することができます。その建物に住んでいた人でさえも、「その建物は最初からそこにあった」という記憶を持たされるのです。そうとは知らずに。

 ここで記憶についての問題が一つ上の階に上がっています。(1)の段階では、ただ普通にかつて建っていた建物が思い出せないだけです。これは日常的によくあることです。ですが、(2)の段階では、記憶は妖怪によって操作されるものになっています。いまある通りの記憶さえも、妖怪によってそうであるという風に作られたものかもしれない。ここに現れている記憶についての問題は次の2つです。1つ目は、記憶というものそのものの性質です。記憶の変化を記憶することはできないのです。そして2つ目は、記憶(認識)されない出来事が起きたと言うことができるのかということです。

 最初からそう(いう記憶)であるという風に後から記憶が作られているのですが、それを認識することもできなければ記憶することもできません。誰も認識することができないようなことが、誰もそうだとは気づくことはできないんだけど実は起きていたかもしれない、ということをここで2人は考えているのです。この点を抑えることは重要だと思います。

 (3)では、妖怪のいたずらの話が建物の移動から人物の移動へと移動します。誰も気づかないうちに建物が移動させられている(かもしれない)ように、霧子もまた妖怪によって移動させられて今ここにいるのかもしれない、というわけです。ここでも、移動前と移動そのものについての記憶はありません。霧子さえもそれを知らないし、その記憶がないのです。ここで見ておきたいのは、霧子も妖怪によって移動させられてきたかもしれないという可能性に対する、霧子自身の応答です。ここに霧子独特の哲学的なセンスが現れていると私は思います。

 (4)は、その妖怪の移動がこれから起こるかもしれないことに話が移っています。(3)までは、妖怪による移動は過去に起こった(かもしれない)こととして語られていましたが、(4)ではそれは未来に起こるかもしれないこととして語られています。霧子は、もしこれから移動させられるようなことが起きたとしても、事務所のことを覚えていたい、と言うのです。

 

 それではこれから、この4つの区分けに沿って話の展開を追いながら、このコミュを読んでいきましょう。霧子の哲学的なセンスを見るにあたって、記憶の問題とともに、霧子が事物や人間の存在の持続に関してどのように感じているかが重要なポイントになると私は考えています。

 いざまいりましょう。

 

 

◇(1)空き地にかつて建っていた建物が思い出せない

 コミュの導入部分です。道すがら空き地に出くわすのですが、霧子とプロデューサーの2人はかつてそこにどんな建物が建っていたのか思い出せません。こういうことは日常的によくあることなんじゃないかなと思います。みなさんも経験ありませんか?

 

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◇(2)建物を移動させてしまう妖怪がいる

・妖怪

 霧子はここで、ある妖怪の話を持ち出します。それは、誰も知らないうちに建物を移動させてしまう妖怪です。プロデューサーはその話を聞いて、「動いちゃった建物に住んでた人とかは、驚くんじゃないか?」と疑問を呈します。それに霧子はこう答えます。

 

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 妖怪は、建物を移動させるだけでなく、建物について知っていた人の記憶も操作してしまいます。移動させる建物について、「最初からここにあった」と思うように記憶を作り替えてしまうのです。

 ここで霧子とプロデューサーは、建物に住んでいた人の記憶について話しています。ですが霧子は「みんなが知らないうちに町の中の建物をどこかに動かしちゃう」と言っていました。「みんなが(知らない)」と言っているところから、建物に住んでいた人だけでなく、建物について知っていた人「みんな」の記憶も操作される、と読めます。

 おそらく記憶だけではありません。建物を移動させ記憶を操作するほどの能力を持った妖怪ですから、土地の権利書や登記簿なども作り替えてしまうことができると思われます。つまり人間の記憶を含めて、建物がいつからそこに建っていたかという証拠を丸ごと、今ある通りに昔からあったという風に作り替えてしまうのです。

 この妖怪のお話は、今ある通りにある世界がいま記憶している通りに(公的な文書などの記録にある通りに)昔からあった、という世の中で当たり前になっている認識の足場を崩してしまうお話です。記憶や公的な文書は間違うことがあるとしても、最初からそうであったという風に後から丸ごと作り替えられるといったことが起こるとは想定されていません。そんなことはふつう起こらないとされています。この妖怪のお話は「世の中で公認されている問題」ではないのです。この妖怪のお話から哲学的な色を帯びていきます。

 

・記憶の問題

 ここでは記憶に絞って考えていきましょう。

  (1)と(2)の記憶の違いを考えてみる必要があります。(1)は、あることを思い出したいのに、思い出せない状態です。思い出したいことが思い出せず、それを忘れてしまったということを自覚しています

 もう一方の(2)でも、建物が移動させられる前の状態を思い出すことはできません。思い出せないという点では共通しているように見えます。ですが決定的に違うのは、忘れてしまったということに気づくことはできないということです。(2)では、そもそもその建物は「最初からそこにあった」と認識するように記憶が作り替えられており、そのように記憶が操作されたことの認識もないので、記憶の操作についての記憶もないのです。したがってこれは、全く何も忘れていない普通の状態と何も違わないと言えます。

 (2)において妖怪に操作された状態の記憶が、何も忘れていない普通の状態と同じだという点をおさえておくことは非常に重要です。このポイントをもっと押し進めて考えてみましょう

 建物の移動とそれに関する記憶の操作が実際にあったとして、それについての記憶はありません。それならば、そうした建物の移動とそれに関する記憶の操作は、一切起こらなかったと言っていいことになるはずです。

 「一切起こらなかったと言っていい」という断定を強い主張だと感じられたかもしれません。ですが、それが起こったということに原理的に気づくことができないような事象が、起こったとどうして言えるのでしょうか。誰もそれが起きたということに気づくことはできません*3。それが起きたという記憶も、それが起きたという物的証拠も、何もありません。むしろ、記憶と物的証拠は、今ある通りに建物がずっと昔からあった、ということを示します。

 妖怪が起こす事象は、原理的に気づくことができないようなことです。それならば、それは一切起きなかったということと何が違うのでしょうか。それは起こらなかった、のではないでしょうか。霧子が話す妖怪は、それほどの力を持ったものなのです*4

 このように、「原理的に認識不可能なことや原理的に記憶不可能なことは、起こらなかったのだ」と主張する立場を、反実在論と呼びます。反実在論者は、認識することが不可能なことが起きたとしてもそれが本当に認識することが不可能であるのなら、そんなことが起きたと考えるのは無意味だ、と主張します。存在すると言うことに意味を持たせられないのなら、そんなものは存在しないのです。反実在論者にとっては、「存在する」と言うことに意味があるのは認識可能なものだけなのです。認識可能であるということを、「存在する」と言えることの条件としているのです。

 

・5分前世界創造説

 ところでこの妖怪のお話は、哲学者のバートランド・ラッセルが提示した5分前世界創造説というお話にちょっと似ている、ということが以前から話題になっていました。確かにちょっと似ています。5分前創造説は、記憶とか歴史資料とか古文書とか遺跡とか化石とか地質など過去の証拠となるようなものを含めて、世界は丸ごと5分前に創り出された、というお話です*5

 ラッセルは、過去がどのようなものであったかということだけでなく、過去があったということそのものまで含めて、それらは歴史資料や化石などの証拠に依存すると考えています。歴史資料や化石などの証拠から独立に過去があった、とは考えないのです。それゆえ、ラッセルはこうした想定は無意味である、と考えます。世界中のどんなものにあたったとしても、過去はずっと今私たちが認識している通りにあったということを証拠立てるだけです。創造そのものの証拠もありませんし、創造以前の過去についての証拠もなにもありません。それなら、そんな創造などなかったのと同じはずです。

 妖怪のお話が5分前世界創造説と似ていることは確かだと思います。記憶(とさまざまな証拠)も含めて一挙に操作(創造)されるということ、その操作(創造)自体に気づくことは不可能だということ、これらが似ています。5分前世界創造説の方は、世界全部丸ごとの創造であるのに対して、妖怪の話は世界内部の一部分であって創造ではなく移動であるという違いはあり、その違いは大きな違いなのですが、ここではそれはおかせてください*6。ただここで主張しておきたいのは、霧子(のコミュ)に哲学的なセンスがあると私が思うポイントは5分前世界創造説に似た話を霧子が提示したという点だけではない、ということです。重要なのは、この続きにあると私は考えています。

 

・2つの忘却

 (3)に移る前に、もう1つここで気になる言葉を拾っておきます。それは、上で引用した霧子の発言(「ずっと前から「ここにいた」って人の記憶も一緒に変わっちゃうみたいで」)を受けてプロデューサーが言った次の言葉です。

 

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 ここで言う「何か忘れる時」というのは、一見すると、このコミュの会話の端緒となった建っていた建物が思い出せないことを指しているように読めます。空き地にかつて建っていた建物を忘れてしまって今では思い出せないが、そんな風に忘れてしまったのはこういうことが起きたからなのだ、という風に。

 ですが、すでに確認したように、空き地にかつて建っていた建物が思い出せない思い出せなさと、妖怪のしわざで建物が移動させられてしまったことに気づかない思い出せなさは、全く違う思い出せなさです。ですから、空き地に立っていた建物が思い出せないというのは妖怪のしわざによるものだ、と読むのは無理があると思います。

 それなら、プロデューサーはここで間違ったことを言っているのでしょうか? そうではない、と私は考えています。プロデューサーはそもそもここで空き地に立っていた建物が思い出せないことだけを指して言っていたのではない、と読むこともできるのではないか、と思うのです。

 霧子が話した妖怪の話では、記憶も含めて操作されます。そこでは建物が移動させられる前の記憶はなくなってしまいます。そしてそれは、記憶がなくなったということに関する記憶すらもないものです。そういう忘却が、プロデューサーが言った「そんな感じ」なのではないでしょうか。

 そうだとすれば、プロデューサーの言う「何かを忘れる時」というのは、忘れたことすら忘れてしまうような忘却ということになります。まるで最初からそんな過去はなかったということになってしまうかのような、そんな忘却です

  実は私たちは日常的にそういう忘却を経験しているのではないでしょうか。道ですれ違う知らない人が着ていた服の色、たまたま横を通過した自動車の車種、カフェで近くに座っていた人たちが話していた他愛もない話……こういったことを全て記憶しているという人はほとんどいないはずです。それらは目に入り耳に入っているはずですが、ただただ忘れられて行きます。そういうものがあったということさえ忘れてしまうほどに。

 

 興味深いのは、ここでプロデューサーは「忘れる」という言い方をしているということです。妖怪の記憶の操作は、最初からその建物はそこに建っているという記憶を持たせることができるものです。この記憶の操作を受けた人は、何も忘れていないのと同じです反実在論の立場ではそういうことになります。

 けれどもプロデューサーはそれを「忘れる」ことだと言っています。「忘れる」と言うということは、覚えているべき記憶があったということです。ここでプロデューサーは反実在論の立場を採っていないのです。

 それゆえプロデューサーは、誰も記憶できないし、物的証拠も全くないし、覚えていないということすら誰も気づくことができないような、そういう過去が実在すると考えていると言えます。そしてそれはこの後の会話に続くように、霧子もそうなのです。記憶から独立に、誰からも記憶されず忘れられて最初からなかったことと同じになってしまうような、そんな過去そのものが実在すると考えているのです。これは反実在論とは真逆の、実在論の主張です。2人は実在論者だということが、ここから分かるのです。

 霧子もプロデューサーも、実在論とか反実在論とかそうした考えをふまえてこの話をしているわけではないと思います。ですが、2人の話からそうした問題を読み取ることが可能です。そして、霧子が提示した妖怪と記憶の話を反実在論の水準まで読み取ることで、霧子とプロデューサーの、とりわけ霧子の実在論の立場を、浮かび上がらせることが可能になると思われるのです。

 反実在論は、認識可能であるということを「存在する」と言えることの条件としているのでした。それゆえ認識可能な領域こそが、「存在する」と言える世界の領域だということになります。ですが、霧子は認識可能な領域の世界を超えて、ある事物や人物の存在が持続する、と考えているのです。これは反実在論ではなく実在論の考えにほかならないのです。

 妖怪による移動と記憶の操作は認識不可能だとしてもあったかもしれない、という実在論的な考えは、実はそれほど奇異な考え方ではないと思います。これは哲学においては素朴実在論と呼ばれるものです。常識的な世の中においてはこうした素朴実在論が主流の考えになっています。むしろ反実在論的な考え方の方が常識からかけ離れた変わった考え方ではないでしょうか。ならば霧子の実在論はそうしたふつうの素朴実在論なのでしょうか

 霧子の実在論がどういうものなのか、それは次の(3)ではっきりと現れてきます。

 

 

◇(3)霧子もその妖怪に移動させられてきたのかもしれない

・自分も移動させられてきた?

 事務所が近づいてきたときに言ったプロデューサーの次の言葉によって話が展開していきます。

 

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霧子が話した妖怪は、建物を勝手に移動させてしまう妖怪でした。ここで妖怪が移動させる対象は、建物から人物へと変わります。 「移される前の記憶は忘れちゃってるけど」、霧子もどこかから妖怪によって移されてきたのかもしれない、と。

 このプロデューサーの話を聞いた霧子はなんだか嬉しそうです。いまいる場所に移されてくる前にいた場所は南の島かもしれないし北の国かもしれない。霧子とプロデューサーは楽しそうにそんな話をします。

 そう、楽しそうなんですよね。こういうところが霧子らしいなと感じます。ちょっとここで、自分が霧子の立場だったらこの話をどう受け止めただろうか、ということを考えてみたくなります。みなさんも考えてみてください。

 建物が移動させられてしまう妖怪については、自分とはあまり関係のないこととして聞くこともできると思います。ですが、自分自身の移動となるとそうはいきません。 

 物心ついて自分についての記憶を持てるようになってから現在まで、全てとはいかないまでも一貫性と連続性を伴って自分の過去を記憶している人が多いのではないかと思います。私もそうです。幼少期から現在まで、自分はどこで生活してどんな風に成長して何を経験してきたか、という記憶は飛び飛びながらも一貫性と連続性のあるものとして確かにある。みなさんの多くもそう思っているのではないでしょうか。

 でもこの妖怪の話が差し挟まれると、そうした自分についての記憶の底が抜けてしまいます。私は本当は、いま記憶している通りの人生を歩んできたのではなく、ある日突然、それまでの自分自身の本当の記憶は消し去られていま私が記憶している通りの記憶を持たされてどこかから連れてこられたのかもしれない……

 この可能性、みなさんはどう思われるでしょうか。ここでは私がどう思うかを少し書かせてください。私はこの話を恐ろしく感じます。ですがそれは、私が自分の歩んできたと記憶している人生に対して愛着を感じていてそれが本当ではないかもしれないからという理由ではありません。私が恐ろしいと感じるのは、自分が本当に体験したはずのことをすっかり忘れてしまっている(忘れたことさえ忘れている!)かもしれないということが、恐ろしいのです。

 ある出来事について忘れたことさえ忘れるということは、そもそもそんな出来事は起こらなかったということと区別することができません。まして霧子の話す妖怪は、記憶だけでなく物的証拠についても力を及ぼすことができるのですから、忘れられてしまった出来事が起きたという証拠をこの世界の中に見つけることはできません。ですからやはり、そんな出来事は起こらなかった(ということにならざるをえない)のです。

 でも、もし妖怪のそのいたずらが本当に起きたことなのだとしたら、妖怪によって消されてしまった本当の記憶があるはずで、体験したはずなのに忘れられてしまった本当の出来事があったはずです。本当は起きた出来事なのに、最初からそんなこと起こらなかったということにされてしまうのです。あったのになかったことになる! そこに、私は恐ろしさを感じるのです。

 

 霧子の話に戻りましょう。霧子は、自分が妖怪によってどこかから連れてこられたかもしれない、という話を面白がります。ここに霧子の独特の感性が現れていると思います。それは、すでに確認した、霧子の実在論が関係していると思われます。

 少し回り道をすることになりますが、他の霧子のエピソードから霧子の実在論の特徴を探ってみましょう。その鍵になるのはです。

 

・夢

 あったはずのことを忘れてしまって、忘れたことさえ忘れてしまって、最初からそんなものなかったことになるということを、私たちは日常的に経験しています。その最たるものは夢です。妖怪によって移されてくる前、霧子はどこで何をしていたのか。それは忘れられています。この忘れられたことは、夢に似ています

 夢に似ているのは、次の2点です。(a)すっかり忘れられている(b)そんな出来事はなかったことになっている(起きたという証拠が全くない)

 

 (a)夢は、目覚めた後に急速に忘れられてしまうものです。長大な夢を記憶していることもありますが、毎回毎回長大な夢を覚えていられるというのはあまりないことだと思います。

 それだけではありません。目覚めた後に夢を見た記憶がなかったとしても、忘れられてしまっただけで人間は眠るたびにいつも夢を見ているのだ、と言われることがあります。これは生理学や脳についての研究が主張していることです。ですが、夢を見たという意識や記憶抜きに、自分が本当は夢を見たということを、どうやって確認することができるのでしょうか。これは忘れたことさえ忘れるということが、そもそも何も忘れていない(忘れてしまった出来事など起きていない)のと同じだということに相当します。

 (b)もし夢の内容を覚えていたとしても、夢の中で体験したことや、夢の中で起きたことの証拠を、目覚めた後の世界で探そうとしても見つけられません。目覚めた後の世界の中の視点で見れば、夢の中で体験したことや、夢の中で起きたことは、起こらなかったことなのです。妖怪が事物や人間を移動させるとき、その移動の証拠は残らないので、移動なんてそもそも起きていないと見なされるはずです。その点も夢に似ています。

 

 以上のように、妖怪のいたずらは夢に似ています。正確には、妖怪によって移される前の、妖怪によって記憶が消される前のことが、夢の世界に似ているのです。このように夢に似ていると考えると、「でんごん」もまた霧子の他のエピソードの系列に連なる話だということが分かります。夢と現実は霧子のテーマの一つだからです。確認してみましょう。

 sSSR【霧・霧・奇・譚】は、うさぎをめぐって夢と現実を横断するお話です。sSR【我・思・君・思】「かなかな」は、デカルトの夢の懐疑を参照しながら、夢と現実を越境して霧子と咲耶が同一人物として存在し続けることについて思いを巡らせています。ほかにも、pSR【白・白・白・布】「エビさん」ではプロデューサーの夢の中に霧子が登場していますし、sSSR【娘・娘・謹・賀】「三峰結華」では、霧子の夢の中に三峰結華が登場ししています。

 このように霧子のエピソードでは夢の話、とりわけ夢と現実を越境する話が何度も主題になっています*7。特に【霧・霧・奇・譚】と【我・思・君・思】では、夢と現実世界を越境して、あるものや人物が同一の存在として連続するという話が語られています。これは反実在論とは真逆の実在論の考えの中でも、かなり常識的なものとはかけ離れたものだと思います。

 夢と現実世界を越境してあるものや人物が同一の存在として連続するなんていうことは、ふつうはありえないこととされています。そういうことは日常的な世の中においては考えられていません。そもそも夢は単なる幻覚ですから、自分が知っているものや人物が夢の中に登場するとしても、それは夢を見た人物(の脳)が生み出したイメージにすぎないのであって、夢の外に実在するものや人物と同一の存在ではないとされているです。

 ですが霧子は、夢と現実世界を越境してあるものや人物が同一の存在として連続するということを考えているのです。それゆえ霧子の実在論素朴実在論とも異なっています。素朴実在論よりも、もっと強力な実在論です。これが霧子の実在論の特徴だと私は考えています*8

 霧子は、このような実在論を考えているように見えます。「論」を「考えている」とまではいかないかもしれませんが、漠然とではあれそういう風に世界を見ているということは確かだと思います。そのため、霧子自身も妖怪によってどこかから移されてきたかもしれない、というプロデューサーの話を霧子はすんなり受け止められたのではないか、と思われるのです。そして、そうした自分の見方に似ている話が提示されたのでそれを面白がることができたのではないでしょうか。

 

・覚えたままにしてくれて

 霧子の実在論の特徴を確認したところで、「でんごん」の霧子の言葉を読んでいきましょう。

 ここでまず読み解きたいのは、霧子も移されてきたのかもしれないという話を受けて霧子が言った言葉です。霧子は、こうした話に「すごい……!」と感嘆をもらした後、次のように言います。

 

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「覚えたままにしてくれて」というのはどういうことなのでしょうか? これは一読したときすんなりとは読みとけない言葉でした。実を言うと、この言葉をどのように読めばいいのか、私の中では答えは出ていません。といっても、どう読めばいいのか全く分からないわけではなく、考えられる読み方がいくつか思いつきます。それらについて考えていきましょう。

 まず2通りの読み方が思いつきます。それは次の2つです。

 

 (a)いま、みんなやプロデューサーのことを記憶しているので、妖怪による移動は起きていないということ。「覚えたままにしてくれて」というのは、いたずらしないでいてくれて、という意味

 (b)みんなやプロデューサーのことをいま記憶している通りの記憶を妖怪が作ってくれたということ。「覚えたままにしてくれて」というのは、いま記憶しているように、みんなやプロデューサーのことを覚えている状態にしてくれて、という意味

 

 この2つの読み方は真逆になっています。(a)の方は移動は起きていませんが、(b)の方は移動は起きています。この違いは大きなポイントです。

 いま問題になっている霧子の発言の文脈を考えてみましょう。プロデューサーが、霧子も妖怪によって移されてきたのかもしれないという可能性を提示しています。その可能性に対し、霧子は嬉しそうに応答します。そこで霧子が言ったのが、上の言葉です。そうであるとすれば、(a)のように移動は起きていないと読むのは文脈からいってふさわしくないように思えます。

 それなら(b)の方が適切な読み方なのでしょうか。(b)は、いま記憶している通りに覚えている状態にしてくれてという読み方でしたが、「覚えたままにしてくれて」という言葉をこのように読むのはちょっと日本語的に不自然な感じがします(ちょっと不自然な日本語を使うのも霧子の特徴、という風に捉える方法もあるかもしれませんが)。

 「覚えたまま」の「まま」という語は、事態が過去から継続しているというニュアンスを与えます。そうであるとすると、「覚えたまま」というのは、覚えているという状態が過去から継続している、という意味になります。妖怪によって記憶が作られているということは、この継続のニュアンスと合致しない気がするのです。この読みに沿ってより自然な表現にするなら、「いま覚えているようにしてくれて」という感じになると思います。

 (a)は日本語的には自然だけれど文脈に沿わない、(b)は文脈に沿うけれど日本語的に不自然、という問題にぶつかります。

 

 もうちょっと考えてみましょう。

 会話の文脈から考えると、ここで霧子とプロデューサーは、妖怪が霧子をここに移動させてきたという仮定に乗っかっています。その移動以前のことを霧子は覚えていません。ですが、いま霧子はみんなやプロデューサーのことを覚えています。いまそうした記憶があるということは確実です。

 そしてその記憶から見た過去には、移動は一度も起きていないように見えます。移動が本当は起きていたとしても、それが起きたということに気づくことは原理的に不可能だからです。それが「覚えたまま」ということです。

 では「覚えたままにしてくれて」はどういう意味になるのでしょうか。「○○のままにしてくれて」という言葉を考えてみましょう。これはふつうは、「○○という状態のまま、手を加えないでいてくれた」ということを表すはずです。このニュアンスが、(a)の方の読みを導き出しています。ですがこれは文脈に沿いません。

 過去に霧子は妖怪によって移されていまここにいる、という仮定のもとで2人は会話しています。それならば、「覚えたままにしてくれて」というのは、(a´)一度行われた移動の後には、まだ妖怪は霧子を移さないでいてくれている、という意味であるのかもしれません。これはありうる読み方だと思います。

 

 そして(b)の方にも、新たにもう1つ読み方が思い浮かびます。

 (a´)の読み方では、霧子に生じた移動は一度きりです。ですが、実は霧子が気づいていないだけで、何度も移動は起きているのかもしれません。本当は何度も移動は起きているのかもしれないのですが、霧子はみんなやプロデューサーのことを覚えています。いまその記憶があります。

 妖怪による記憶の操作に、気づくことはできません。操作されて記憶が変化したという記憶を持つことはできません。妖怪によって移され、記憶が操作された人は、そんなことに全く気付くことなく、最初から自分はずっといまいる場所にいたという記憶を持つのです。本当は記憶は操作されて連続していないのですが、人間が過去を思い返すことができるのは記憶の内側から以外にはありえないので、たとえ操作されていたとしても記憶は連続しているように見えるのです。そうならざるをえないのです。

 するとこうなります。(b´)いま霧子にみんなやプロデューサーとの記憶があるということは、霧子にとってはそれはみんなやプロデューサーのことを「覚えたまま」だということです。妖怪による移動は何度も起きているのかもしれません。ですが、霧子にとってはみんなやプロデューサーのことを覚えたままになっているのです。そういう風に妖怪がしてくれているのです。霧子にとっては、みんなやプロデューサーについての記憶に手を加えないでいてくれているという風に感じられるのです。これが、「覚えたままにしてくれて」のもう1つの読み方です。

 

 以上が、私が思いつく「覚えたままにしてくれて」の読み方です。(a´)と(b´)、事態としては全然違うものですが、霧子の認識の水準では両者には違いはありません。認識の水準では違わないのですが、意味は全く異なっています

 (a´)と(b´)、どちらの読みの方が適切なのか(あるいはほかにもっと適切な読みがあるのか)、私には確信が持てないのですが、霧子の続きの発言を考えると(b´)の方がよりふさわしいかもしれないという気がしています。

 ですが、ここではいずれの読みを採用するとしても重要と思われるポイントを指摘しておきたいと思います。それは、いまそうした記憶があるという現在性がここでクローズアップしてきている、ということです。たとえそれが妖怪によって作られたものだとしても、いまそうした記憶があるということは確実なのです。そしてこの現在性が、(4)を読む際に重要なポイントになってくると私は考えています。

 

 

・この場所じゃなくてもいい

 (4)に移る前に、(3)の中でもう1つ読み解きたい発言があります。それは「覚えたままにしてくれてよかった」に続く次の言葉です。

 

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 認識可能な領域の世界を超えて、ある事物や人物の存在が持続するという霧子の実在論が色濃く現れているのはここだと私は考えています。つまり霧子の哲学的なセンスがもっともよく現れている箇所です。

  妖怪の話を持ち出すことは、いわば哲学的な思考実験(5分前世界創造説や水槽の中の脳など)を引用することに相当します。哲学的な話題を引用するということは、それだけでは必ずしも哲学的ということにはなりません。

 ここで霧子は、そうした思考実験(妖怪の話)を単なる可能性の話としてではなく事実の話として受け止めています。そして妖怪の話という哲学的な思考実験に対して自分がどう考えているのかを言うのです。霧子自身の感性から、自分自身の考えを述べることができているのです。しかもそれは常識的なもの(世の中の内部的な見方)ではないのです。霧子のこういうところに、私は哲学的なセンスを感じています。

 

 この発言を読んでいきましょう。

 この発言は、直前の「覚えたままにしてくれてよかった」に続けて発せられたものです。霧子はみんなやプロデューサーのことをいま覚えているということを「よかった」と思っています。それに続けて、霧子は「一緒にいられたら……」とこの発言をしています。霧子はみんなやプロデューサーと一緒にいられることを重視していることが分かります*9

 いまみんなやプロデューサーのことを覚えている。それはつまり、いまみんなやプロデューサーと一緒にいられている、ということです。霧子はそれゆえ「よかった」と言ったのだと考えられます。

 そして、霧子の実在論が現れるのは「この場所じゃなくっても…… いいから……」の個所です。「この場所じゃなくてもいい」というのはすなわち、妖怪による移動が生じていてもいいということです。

 プロデューサーが提示した、霧子も妖怪によって移されたのかもしれないという話は、「移されてきたのかも」という仮定の話です。ですがここで霧子はその仮定の話の中に深く入り込んでいます。「この場所じゃなくてもいい」と言うとき、まるで妖怪の話は事実であるかのようです。妖怪が移動させている(霧子のことも)というのは事実である、その上で、みんなやプロデューサーと一緒にいられる(覚えていられる)のならば、いまいる場所じゃなくても構わない……と言っているように読めます。

 妖怪が事物や人物を移動させたとしても、妖怪はそれらに関わった人間の記憶も操作してしまうので、誰もそのことに気づくことはできません。誰も記憶することができず、誰も気づくことができないようなことは、起きていないのと同じです。ですからそれは、起きていないのです。これが反実在論の立場の考えなのでした。

 ですが霧子はここで、妖怪による移動は実際に起きていて、いま記憶できている範囲を超えて、いま認識可能な領域を超えて、事物や人物の存在は連続していると考えています。それは夢と現実を越境してある事物や人物が同一の存在として連続するということと同様です。あるいは、別の世界からある人物や事物が同一の存在として連続性を持ったままこの世界に転移してくることにも似ています。

 ですが、記憶できている範囲を超えて、いま認識可能な領域を超えて、事物や人物の存在が持続するのだとしても、記憶や認識も一緒に連続するわけではありません。霧子もたぶんそのことを分かっています。ですから、「覚えたままにしてくれてよかった」と言っているのです。「覚えたまま」でいられるかどうかは霧子の意志で制御することができないからです。「覚えたまま」でいられるかどうかは、妖怪の手に握られているのです*10

 そして、みんなやプロデューサーのことを「覚えたまま」でいられるのなら、彼らと一緒にいられるのなら、妖怪による移動は起きていても構わないのです。一緒にいたいと願う人以外についての記憶は、忘れてしまっても構わない(全く別な風であっても構わない)という言外のニュアンスをここから読みとることができます。これは常識的な考えとは大きく異なるすごい考えなのではないでしょうか。記憶は自分が何者であるのかを構成するものであるはずで、記憶が違っていても構わないということは自分が何者であるのかが違っていても構わないということを意味するからです*11。ただし、何もかもが違っていてもいいというのではなく、霧子が一緒にいたいと願う人物についての記憶は残っていていることが重要です*12

 

・霧子の実在論

 以上から、霧子の独特な実在論を読み取ることができると思います。

 

 (a)事物や人物が夢と現実を越境して同一の存在として連続する

 (b)特定の人物と一緒にいられるなら(その人のことを覚えたままでいられるなら)、それ以外の記憶は違っていても構わないし、それに伴って自分がいまの自分と違う風の人間であっても構わない

 

 霧子がこういう風に、命題として自分の考えをはっきりと持っているかどうかは分かりません。たぶんその可能性はそこまで高くないと思います。ですが、霧子の話を聞いていると、こういう考え方(少なくとも思考の傾向や世界の見方)が霧子の中にあるのではないか、ということは言えそうな気がします。

 そしてそれは世の中を成り立たせるような、当たり前の常識的なものとは異なっています。霧子は、事物や人間の存在の持続に関して、世の中を成り立たせるために当たり前になっていることを当たり前としていないのです。こういうところに霧子の哲学的センスを見いだすことができると私は思います。哲学的思考とまでは言えなくとも、哲学的思考の種子がある。それゆえ、霧子には哲学的なセンスがあると言えると思うのです。

 以上のように「でんごん」コミュの中に哲学的センスを読み取ることができると思いますが、コミュはまだ続いています。それらを読んでいきましょう。

 

 

◇(4)もしいつか移動させられるようなことがあっても事務所のことを覚えていたい

・もしひょいってしちゃっても

  この場所じゃなくてもいいと言った後、霧子は「でも」と言って次の発言をします。

 

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この発言は今までと少し違うことを言っています。それは、妖怪による移動がこれから起こるかもしれないこととして、未来向きに考えられているということです*13

 当初妖怪の話が導入されたときに考えられていたのは、過去そういうことが起きたかもしれない、ということでした。妖怪は事物や人物を移動させると、それに関わった人間の記憶も操作してしまいます。それゆえその移動を記憶することは誰にもできず、誰もその移動に気づくことはできません反実在論の立場に立つなら、そうした移動は起きなかった、ということになりますし、そうしたことが起きたかもしれないと考えることに意味はありません。

 ですが、(3)の「覚えたままにしてくれて」を読んだときに確認したように、いまみんなやプロデューサーのことを覚えたままでいるという現在の記憶は確実です。いまそうした記憶があるということは確実なのです。

 そして、ここで霧子が考えているのは、未来にそうした移動が起きるかもしれないということです。過去向きには、移動が起きたことに気づくことはできません。反実在論の立場を採るならそうしたことを考えることにも意味はありません。ですが、いまみんなやプロデューサーについての記憶があるということは確実であり、そうした記憶がこれから失われてしまうかもしれない、と考えることには意味があるはずです。みんなやプロデューサーについての現在の記憶が、これから無くなってしまう(忘れてしまう)ということは、それがどういうことなのか想像できるように思われるからです。

 (3)の始めのところで、少しだけ私の考えを書かせていただきました。「あったのになかったことになる」ということが恐ろしいというお話です。私はこの未来向きの考えに対して特にそうした恐ろしさを感じます。いま記憶があるということは確実なことです。いま覚えているのですから、それは疑いようがありません。ですがこれは未来のいつかの時点で、妖怪の手によってきれいさっぱり消えてなくなってしまうかもしれないのです。あったことさえ忘れて、その証拠もなくなって、初めからそんなものなかったことになってしまうかもしれないのです。いま確かにここにあるのに! このことを考えると私はいつもヒヤッとします。

 過去向きの妖怪の話は、あったかもしれないものがもはやなくなっているということですが、未来向きには、いま確かにあるものがこれからなくなってしまうかもしれない、ということです。過去向きには妖怪のいたずらがあったことは確かめようがありません。それがあったとしてもなかったとしても、いま何かが変わるわけではありません

 ですが未来向きの妖怪の話は全く異なるのです。なくなってしまうかもしれない記憶は、いま確かに存在しているからです。いま確かにあるこの記憶がなくなってしまうということは、いまの私にとっては大きな変化なのです。

 このように、過去向きに考える場合と未来向きに考える場合では、妖怪による移動と記憶の操作は意味を変えるのです。

 

 霧子はこの発言の直前で、「この場所じゃなくてもいい」と言っています。みんなやプロデューサーと一緒にいられるなら、いまの場所やいまの境遇でなくても構わない、と。けれど霧子はここでさらに、「事務所のこと覚えていたい」と付け加えています。みんなやプロデューサーに並ぶものとして、事務所も霧子にとって大事なものになっているということがうかがえます。それはおそらく建物だけでなく、自分がアイドルであること、ユニットの仲間がいること、自分のプロデューサーがいること、といったことも含むのだと思います。

 (3)の終わりで、みんなやプロデューサーと一緒にいられるなら、霧子はいまの自分でなくても構わないと考えているのではないか、と読みました。ですがそれは部分的に訂正されます。自分がアイドルであるということ(ユニットメンバーがいてプロデューサーがいること)はそのままであってほしい、と。霧子は自分がアイドルであるということを失いたくないと思うほど、それに愛着を感じているということなのかもしれません。

 

 

・でんごん

  そして最後にこのコミュのタイトルとなっている「でんごん」の話が語られます。事務所のことを覚えていたいと言った霧子に対し、プロデューサーが「それじゃ伝言しておこうな」と言うのです。

 

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 実を言うと 私はこれをどう読めばいいのかよく分かりません。「誰もいない時に妖怪が来たら」というのは、「事務所に誰もいないときに事務所に妖怪が来たら」という意味でしょうか。直前まで霧子が妖怪に移動させられる話をしていましたが、ここで建物が移動させられる話に戻っています。ちょっと唐突な感じがします。

 遡って直前の霧子の発言を読み直してみると、霧子は「妖怪さんがもしひょいってしちゃってもここの事務所のこと覚えてたいです」と言っています。ここで妖怪が「ひょいって」するのは、霧子のことだと思い込んで読んでいましたが、これは実は事務所のことだったのでしょうか?

 霧子のこの発言を事務所のことだとして読んでみるとすると、霧子たちが事務所の中にいるときに妖怪が事務所に来れば霧子たちは事務所と一緒に移動できます。そうすれば霧子たちは事務所のことを覚えたままでいられます。

 プロデューサーが「誰もいない時に妖怪が来たら」と言ったのは、このことと対比してのことだったのでしょうか? ですが、「妖怪さんがもしひょいってしちゃっても」と霧子が言った文脈は、霧子が妖怪によって移されてきたという仮定の話なので、これを事務所のこととして聞くのはやはり唐突な感じがします。霧子ならばそうした唐突さもあえなくはないと思うのですが……

 

 また、「誰もいない時に妖怪が来たら、困るだろ?」の「困る」の主体は誰なのでしょうか。文脈から言って「困る」のは「ゼラニウムさん」や「ユキノシタさん」だと思うのですが、妖怪はゼラニウムさんやユキノシタさんの記憶は操作しないのでしょうか……? もし妖怪がゼラニウムさんやユキノシタさんの記憶も操作するのだとしたら、ゼラニウムさんやユキノシタさんに伝言しておくことはどういった効果をもたらせるのでしょうか……

 そもそもプロデューサーはゼラニウムさんやユキノシタさんに何を伝言しようと言ったのでしょうか。「伝言しなきゃ」と言っていますが、何を伝言することが必要だと思ったのでしょうか。霧子はこのプロデューサーの言葉を受けて何を理解し、何を伝言しようと思ったのでしょうか。私には分かりません……

 「誰もいない時に妖怪が来たら」というのがどういう状況なのか、不明瞭な気がしますし、その上ゼラニウムさんやユキノシタさんに何を伝言する必要があるのか何を伝言すれば「困る」ことがないのか、分からないのです……

 霧子とプロデューサーは、時折波長が合いすぎて説明抜きに話を展開させるところがあります。最たるものは【鱗・鱗・謹・賀】「なかみ」で突然始められるミニカー遊びです。ミニカー遊びをするプロデューサーに驚いた読者は少なくないと思いますが、霧子は嬉しそうにこの遊びに参加しています。あるいは2019年のクリスマスプレゼントのコミュ「赤と緑のシート」でも、2人は一緒になって遊んで一緒に笑っていました。2人はときどきすごく波長が合って読者を置いてけぼりにすることがあるように思います。

 今回のこの「伝言しなきゃ」も、そうした2人の波長が合わさった会話として読むことができるのかもしれません。どうして伝言が必要なのか、何を伝言すればゼラニウムさんやユキノシタさんが困らないのか、明確には語られていないのに、2人は通じ合っている(ように見える)からです。

 そして2人は読者を事務所の前に置いていくようにして、事務所の中へと消えていくのでした。

 

 

◇まとめ

 以上、かなり詳細に「でんごん」コミュを読んできました。妖怪の話の導入と霧子自身の考え方の提示から、霧子(のコミュ)の哲学的センスを読み取ってみました。もしそれが理解していただけたとしたら幸いに思います。

 最後にこれまでの話を常識的な世の中の内部から眺めなおしてみたいと思います。いままで霧子とプロデューサーに寄り添って読んできましたが、逆に常識的な世の中の内部からこの話を振り返ることで、その特異さが浮き彫りになると思うからです。それをもってコミュの読解のまとめとしたいと思います。

 

 妖怪の話をファンタジーやSFのお話としては受け取るとしても、それを実際に起きていることとして真に受ける人はあまりいないと思います。物体や人間が勝手に瞬間移動するというのは物理法則に反していて、どうにも起こりそうにもありません。そんなことが可能な妖怪も実在しそうにありません。

 5分前世界創造説や水槽の中の脳を、一時の面白いお話として聞く人はたくさんいると思います。同様に妖怪の話も面白がって聞く人は少なくないかもしれません。ですがそれが本当の本当に起きていることかもしれないと真に受ける人は多くないと思います。それを信じたところで日常生活そのものには何ら影響を与えません。ですからそれは信じるに値しない無意味なことだとされるのです。日常生活の前ではそうしたお話は無力で、たいていは仕事や家事や趣味を前にしてすぐに忘れられてしまいます。

 また、事物や人物が、夢と現実を越境して同一の存在として持続したりするということもありえません。夢は眠っている間に脳が作り出す単なる幻覚にすぎないからです。夢は確かに本当らしく現れますが、それは結局幻覚なのですし、どんなに本当っぽい出来事であってもそれは実際には起こらなかったことなのです。

 記憶が第3者に勝手に操作されるなんていうこともありえません。それにある時点よりも前の記憶が丸っきり後から作られた記憶だということもありえません。しかもそんな風に記憶が丸っきり作られたものだということに誰も気づくことができないなんてこともありえません。記憶違いのようなことはありますが、それは記憶の小さな一部分にすぎませんし、間違いに気づくことができるから記憶違いだと分かるのです。認知症や記憶喪失や妄想のように、記憶が全面的に失われたり書き換えられたりすることもありますが、それらは病気なのですし、それらの記憶が誤りであるという外的な証拠があるからそうだと分かるのです。

 自分が何者であるのかということの理解に、自分の過去の経験の記憶は重要な役割を果たします。多くの人は、自分が何者であるのかを示す自分の過去の経験に対して、愛着や憎しみ、あるいは後悔など情動的な態度を持っていると思います。愛しているにせよ憎んでいるにせよ、自分が経験してきたこと(の記憶)は自分が何者であるのか(の理解)に欠かせないと思う人が多いと思います。ならば、自分が経験してきたことの記憶は違うものであっても構わないと思う人は、そんなに多くないのではないかと思います。

 

 このように、常識的な世の中の内部から見れば、「でんごん」で語られる話はありえないことであって考える意味がないことだとされるはずです。霧子はそういう話を正面から受け止めて面白がり、それに対して真剣に考えを巡らせて自分の考えを提示するのです。そういいうところに霧子の哲学的センスが見えます。

 哲学が問題にすることは、世の中の内部で公認される問題ではない、という永井均の話を思い出してください。哲学が問題にするのは、そもそも世の中の成り立ちそのものにひそむ問題です。哲学の問題は、世の中の内部においては取り上げる必要のない無駄なこと、日常生活に影響を与えない無意味なことだとされてしまうのです。そうしたことに目を向けず、哲学者が疑問に思うようなものごとや観念をむしろ当たり前のこととして前提とすることで、そもそも世の中は成り立っているからです。

 このコミュで霧子とプロデューサーは、世の中の内部では問題として認められないようなことを話しています。特に霧子にとっては、それは単なる一時の面白いお話ではありません。単なる面白いお話以上のものとして、この話を受け止めることができるのが霧子です。それはすでに成り立っている世の中の内部だけで霧子が生きているわけではない、ということを示していると読めると思うのです。

 ひょっとすると「でんごん」というコミュ自体も、世の中の内部で5分前世界創造説や水槽の中の脳の話のように、ちょっと面白い哲学話みたいなものとして読まれているのかもしれません。あるいは、不思議な感性を持った女の子のちょっと変わった空想のお話みたいに。そういう受け止め方が間違った受け止め方だと言いたいわけではありません。そのことはどうかご理解ください。それに哲学というものが世の中の内部でどういう風に受け止められるかを考えれば、そうした受け止め方にも必然性があります。

 ですが、少なくとも私にとってはそうではありません。永井均が漫画の作者に対して感じた「魂の交流」を私は霧子に対して感じています。

 

 「私がマンガに求めるもの、それはある種の狂気である。現実を支配している約束事をまったく無視しているのに、内部にリアリティと整合性を保ち、それゆえこの現実を包み込んで、むしろその狂気こそがほんとうの現実ではないかと思わせる力があるような大狂気。そういう大狂気がなくては、私は生きて行けない。その狂気がそのままその作者の現実なのだと感じたとき、私は魂の交流を感じる。それゆえ、私がマンガに求めているものは、哲学なのである」(永井均,『マンガは哲学する』講談社,p.2)。

 

 もし「でんごん」に少しでも「哲学」を感じたのであれば、単に水面から水中の様子を見るために覗き込むだけでなく、深く水中の中を泳いでみてほしいと思うのです。そしておそらくは水中に自ずと沈んで行ってしまう人の一人である霧子のそういう性質のことにも思いを巡らせてみてほしいな、と思います。

 

 

 

 

◆おわりに

  当初予定していた文字数を大幅に超えてかなり長大な文章になってしまいました(脚注込みで35000字)。こんなに長い文章をここまで読んでくださった方に、心よりお礼申し上げます。シャニマスのコミュ、とりわけ幽谷霧子(のコミュ)に哲学的センスが見られるということをもし感じていただけたとしたら、とても嬉しいです。

 

 前回の記事を書いてから、アンティーカのシナリオイベント「ストーリー・ストーリー」と、新プロデュースシナリオのG.R.A.D.が実装され、私もそれらを読んで頭がいっぱいになっていました。特に私の推しの1人である杜野凛世のG.R.A.D.のシナリオは衝撃的で、いまだにどう読みとけばいいのかと考えてしまいます。霧子のG.R.A.D.が来たらどうなってしまうのでしょう……

 「ストーリー・ストーリ」に関しましては、Privatterに霧子の発言の読解の試みを行った記事を投稿しておりますので、よろしければそちらも見てくださったら嬉しいです。

存在することの真理--「ストーリー・ストーリー」の霧子を読む - Privatter

 

 今後の予定ですが、次回はいよいよ哲学書の紹介に入りたいと思っております。最初はデカルトの『省察を予定しています。そこで霧子の【我・思・君・思】「かなかな」の話ができたらいいなと思っています。5月中に投稿できるかどうかわかりませんが、気長に待っていただけたらと思います。よろしければ次回もどうぞお付き合いください。

 今回ここまでお付き合いくださってありがとうございました。

 

 (2020年5月17日)

 

 

 

 

◆文献

マルコム,ノーマン,『ウィトゲンシュタイン』板坂元訳,1998,平凡社ライブラリー

永井均,1996,『〈子ども〉のための哲学』講談社現代新書

永井均,2000,『マンガは哲学する』講談社

永井均,2001,『転校生とブラック・ジャック岩波書店

永井均,2004,『私・今・そして神』講談社現代新書

ネーゲル,トマス,『哲学ってどんなこと?』岡本裕一朗・若松良樹訳,1993,昭和堂

 

 

<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス

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マンガは哲学する (岩波現代文庫)

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私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)

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哲学ってどんなこと?―とっても短い哲学入門
 

 

 

 

 

◆注

*1:「でんごん」はTRUEコミュで、TRUEコミュの話はネタバレ回避のために読解の対象にしない方がよいという考えもあるかもしれません。ですが、【夕・音・鳴・鳴】は恒常SSRであること、セレチケで入手する機会が何度かあったこと、登場から1年以上が経過していることから、読みたいと思っている方の多くはすでに読むことができているのではないかと考え、今回読解のテキストとして選択しました。その点どうかご理解ください。

 

*2:よく哲学は「常識を疑うもの」だと言われます。ですが水中を泳ぐことをこのように2種類に分けるなら、「常識を疑うもの」という哲学観はちょっと正確ではないという気がしてきます。

 確かに哲学は常識を疑ってはいます。ですがそれは、「常識を疑うために哲学する」というわけではありません。哲学者は自然と常識を疑ってしまっているのであって、あえて疑っているわけではないからです。この違いは、自然と水中に沈んでしまうということと、水面から潜って水中の様子を見るということの違いに相当します。

 水面で生活する人にとっては、哲学は「常識を疑うもの」に見えるのかもしれません。あるいは「世の中」を解体して見せてくれるものなのかもしれません。ですが、水中に沈んでしまう人は、あえてそれをやっているわけではないのです。

 

*3:起きたことに気づくことができないというのは、たとえば、本棚に乗っているホコリが1g別の棚に移動するというような、細かすぎて誰も気づかない、というようなことではありません。細かすぎるホコリの移動のような事象であっても、ホコリを高度な機械などを用いて厳密にチェックすればそれに気づくことは不可能ではありません。

 妖怪が起こすことはそういう細かな事象とは異なります。ここで考えているような妖怪が起こす事象は、記憶も証拠も同時に操作するので、原理的に気づくことが不可能なのです。原理的に気づくことができないようなことと、原理的に気づくことは可能なのだが現象が小さすぎて気づかないようなことは、違います。この違いは重要です。

 

*4:私はこの妖怪の話からデカルトの悪霊を連想するのですが、後に【我・思・君・思】でデカルトの話をしていることをいま事後的に思い出すと、その連想もあながち間違いではないかもしれないという気がしてきます。デカルトの悪霊もまた、本当は間違いであるような計算や推論を、それが正しいと思うように認識を操作するものです。

 

*5:これはラッセルの『心の分析』に登場するお話ですが、いま手元にその本がない上に現在は図書館を利用することができないので、このお話について書かれていている永井均の『私・今・そして神』(講談社現代新書)を参照しています。

 

*6:5分前世界創造説の方は世界丸ごとの創造になるので、世界の存在そのものの創造という問題がかかわってきます。妖怪の話においては、本当の過去は別の場所に建物が建っていたという別の過去にすぎませんが、5分前世界創造説においては、本当の過去は世界の存在すらない無です。

 文化的な観点から言えば、ラッセルの5分前世界創造説は無からの創造であり、キリスト教圏においてこれが可能なのは神のほかには誰もいません。建物を移動させ人間の記憶を操作することは無からの創造ではないので、神ほどの存在でなくてもそれは可能だと思われます(デカルトの悪霊のような)。

 

*7:これだけでなく、さらにsSR【君・空・我・空】をこの系列に連なる話として読む読み方もあります。1つ目のコミュを、2つ目のコミュの霧子が見ている夢として読む読み方です。詳しくは次のTogetterを参照してください。【君・空・我・空】幽谷霧子に夢中になる話 - Togetter

 

*8:さらにこの連続性には、見かけと存在という区別が見られます。越境して持続するのは見かけではなく存在の方です。

 ウサギ-アヒル図という錯視図形があります。その図形はウサギにもアヒルにも見えるのですが、図形としては一個(identical)です。ウサギに見えるかアヒルに見えるかというのが見かけの水準で、identicalな図形が存在です。「見かけ」は、それが何であるかという説明を与えるものです。そのものの性質や属性に置き換えられます。一方の「存在」は、そうした性質や属性に還元することができない、それそのものです。

 霧子のコミュの中には、こうしたウサギ‐アヒル図のようなものが繰り返し登場しています。たとえば【夕・音・鳴・鳴】「われたよ」のカップ。このカップは存在としては同一ですが、水を入れるカップと植物を植える鉢植えという2つの現れ方をします。あるいは【菜・菜・輪・舞】「銀の包み紙」の、包み紙で折られた指輪=時計。指輪と時計は見かけ上どちらともとれるものですが、その存在としてはそれは包み紙です(「お別れするときは」……)。そしてアンティーカの「ストーリー・ストーリー」では、物語を介したものとして視聴者にアンティーカを提示することを霧子は提案していますが、それに対するように、存在そのもののアンティーカにはどこにも嘘なんてないと言っています。

 このように、霧子の実在論には見かけと存在という区別があるように思えます。見かけは、夢と現実という区別や記憶や物語や物の見方の影響を受けるかもしれませんが、存在そのものはそれらを越境して持続する、という風に見えるのです。この点を見ると、やはり霧子は認識に対して存在を優位に捉える存在論者なのではないか、と思いたくなります。

 ですが、だからといって見かけの方を重視していないわけではない、と私は思います。割れてしまったカップに鉢植えとしての新たな役割を与えたりしているところにそれが見受けられます。「でんごん」のコミュの中でも、みんなやプロデューサーのことを現在覚えている(一緒にいられる)ことを喜んでいますし、このあと見ていくように事務所のことを覚えていたいとも言っています。見かけとしてのあり方がどうであるかということは、どのように生きていく(ことができる)かに道筋を与えるものだということなのかもしれません。

 

*9:霧子のほかのコミュを見てみると、霧子は誰かと一緒にいられることを重視しているように見えます。ここから、霧子が植物や事物をさん付けするのはどうしてなのかが見えてきます。

 霧子は、誰かと一緒にいられることに喜びを感じているようです。霧子は「楽しい」ということを頻繁に言うのですが、霧子が「楽しい」と言うときはきまって誰かと一緒にいるときです(特にアンティーカメンバー)。

 誰かと一緒にいるということに重きを置いているのだとすると、逆に霧子にとっての孤独とは、ということを考えたくなります。ですが霧子は一人でいることの寂しさや緊張感などについて自分で言うことはほとんどありません。

 霧子は自分の孤独についてほとんど言わないのですが、そのかわり、植物や事物の孤独を感じ取って、それらが寂しがっていたり緊張しているということを言います(コデマリさんなど)。

 このことを踏まえて、霧子が植物や事物に話しかけたり、さん付けして呼びかけたりする場面を見てみると、分かることがあります。それは、霧子は自分の寂しさや緊張感を感じ取る代わりに、植物や事物に寂しさや緊張感を感じ取っているようである、ということです。

 【白・白・白・祈】「そこにいますか、雪」で霧子は、雪に対して「雪はとってもえらいです」と声をかけたいと言います。雪は「緊張して降ってくる」と。重要なのは、プロデューサーが霧子に対して「霧子もそうだよ」と声をかけていることです。霧子が見る雪の姿に、プロデューサーから見る霧子の姿が重なるのです。

 ほかの場面を見てみても、霧子が植物や事物に語りかけたりさん付けして呼びかけたりするときには、霧子自身の中に寂しさや緊張感があることを読み取ることができます。

 ではなぜ植物や事物に語りかけ、さん付けをして呼びかけるのでしょうか。1つは、自分自身がそういう感情を抱いているということから防衛するために、対象にその感情を投影するということが考えられます。

 もう1つは、より霧子自身の言葉に即したものです。それは【鱗・鱗・謹・賀】「いこうね」で語られていたことですが、語りかけられさん付けされる植物や事物は、霧子の孤独や緊張を癒す隣人になるのです。

 霧子は誰かと一緒にいられることに重きをおいていて、一緒にいられることを「楽しい」と言います。語りかけられさん付けされる植物や事物は、霧子自身が寂しさや緊張感を抱いているときに、一緒にいてくれるものになるのだと考えられるのです。

 この霧子読解について、詳しくは私が以前書いた以下のPrivatterの記事を参照してください。

「おかえりなさい」と「ただいま」のその先に――幽谷霧子の世界観とさん付けされる隣人を通して - Privatter

 

*10:ここにも、見かけと存在の区別が現れています。存在は夢と現実を越境して、あるいは認識可能な領域を越境して持続することができますが、見かけの方はそうではありません。見かけは文字通り、認識に依存するものだからです。

 見かけはここでは、霧子がいまどこで暮らしていて、どういう人物で、という霧子が何者であるのかという属性です。そして、いま霧子が記憶している通りのみんなやプロデューサーについての記憶と、彼らとの関係性です。

 霧子がどこで暮らしていて、どういう人物で、みんなやプロデューサーとの関係はどんなもので、彼らのことを覚えていられるかどうか彼らと一緒にいられるかどうかは、妖怪の手に握られています。それを霧子は思い通りにはできません。ですから霧子は、妖怪に向かって「覚えたままにしてください」とお願いすることになります。これが(4)での主題になります。そしてこれは、【我・思・君・思】「かなかな」で、「次に会う咲耶さんもこの咲耶さんなら」と言ったのと同等です。このお願いは、祈りに似てないでしょうか。

 このように、夢と現実の越境、あるいは認識可能な領域の越境において、事物や人物の存在が持続するだけでなくその見かけも持続することを祈るというのは、アンティーカの感謝祭シナリオで霧子が祈っていたことと通じているのでしょうか?

 

*11:さらに見かけと存在の区別をふまえるなら、自分がどこに住んでいて、どんな暮らしをしていて、どういう人間なのか、という自分の性質も全く違う者であって構わない、と言えるかもしれません。

 見た目や性別や年齢などを変えてしまうのは妖怪でも難しいかもしれませんが(できると仮定することも可能だとは思います)、住所だけでなく、国籍や経歴や現在の職業などもすっかり変えてしまうことはできると思います。

 もし、自分が現在住んでいる地域や国籍や、自分の現在の職業や経歴に愛着を覚えている場合、それらが全く異なっていても構わない、というのはかなり強い主張だということが分かると思います。これらに愛着がなかったとしても、たとえば妖怪によって今日明日生きるのも過酷な環境の地域に移されてしまう、というようなことを考えてみたら、それは嫌だと思う人が多いのではないかと思います。

 もちろん霧子がここでそれほどのことを仮定しているとは言えません。ですがそれでも、霧子の言葉を文字通り受け止めるなら、こういう家庭も可能性の中に含まれてくるのです。少なくとも現在の霧子の住んでいる場所や境遇に関しては、全く異なっていたも構わないと思っているのは確かだと思います。これだけでも十分すごい考えです。

 

*12:この点は【我・思・君・思】「かなかな」で、「次に会う咲耶さんもこの咲耶さんなら」夢でも現実でもどちらでも構わない、と言ったことに通じています。

 

*13:以下の、過去向きに考える場合と未来向きに考える場合とで差が生じてくるという読み方は、永井均『転校生とブラック・ジャック』(岩波書店)「序章 火星に行った私は私か」の議論を参照しています

 

シャニマスPにおすすめしたい哲学書の話をするよ――哲学入門編

◆はじめに

 こんにちは。初めましての方は初めましてです。響きハレと申します。今回は、シャニマスPにぜひ哲学書をおすすめしたいと思ってこの文章を書き始めています。

 まずは経緯からお話させてください。先日ツイッターで下のようなツイートを先頭に、ツリー状で哲学書の紹介と哲学とシャニマスの話をしました。

https://twitter.com/mokamokamas/status/1254107843159969795?s=20

https://twitter.com/mokamokamas/status/1254107843159969795?s=20

https://twit

 

 

https://twitter.com/mokamokamas/status/1254108362586812419?s=2

https://twitter.cyom/mokamokamas/status/1254108362586812419?s=20

そうしましたら予想以上に反応をいただいて、この話に関心のある方はひょっとしたらけっこういるのかもしれないと思ってこれを書き始めています。反応をくださったみなさんありがとうございました。

 

 今回、哲学入門編として、哲学というのはどういうことなのかということのお話と、哲学の入門書の紹介をしていきたいと思っております。

 私の文章力的にそれができるのかは分からないのですが、できるかぎり哲学についての予備知識がなくても理解していただけるよう書くつもりでおります。よろしければどうぞお付き合いください。

 

 

 

 

 

シャニマスと哲学

◇【我・思・君・思】の衝撃

 シャニマスは、特に幽谷霧子のシナリオは、哲学と関連付けて語られることが多いように思います。私も幽谷霧子は特に哲学との相性が良いと思います。それが最も顕著なのは、間違いなくデカルトの夢の懐疑を引用したsSR【我・思・君・思】のコミュ「かなかな」だと思います。

 

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このコミュはカードイラストも含めて多くの人に衝撃を与えたことと思います。私も衝撃を受けた一人です。デカルトの名前を取り上げつつ夢の懐疑の話をしているという点にまず私は驚きました。そして、霧子自身が独特な夢に対する態度を見せたことで、私はさらに驚いたのです。

 デカルトといった哲学者の名前を出しながら哲学の話題をすること、これ自体アイマスではあまり例のないことだと思うので、これは非常に驚くべきことです。ですが、私個人的にはそれ以上に、霧子が見せた独特の夢に対する態度の方がさらに驚くべきことでした(最初混乱してそれらの違いについてちゃんと書けていませんでした)。これらのことについて詳しくは、デカルトの『省察』を取り上げる回でお話できたらいいなと思っております。

 ここでまず理解してくださったら嬉しいなと私が思うのは、霧子やシャニマスに感じる哲学的なセンスというのは、哲学の話題を取り上げているということ以上に、霧子たちが見せる独特な態度や言動などの方にあるということです。哲学というのは、単に哲学者の考えたことや哲学者の概念を知ったり用いたりするというようなことではないからです。

 今回はその点に絞って、まず哲学のことをお話していくつもりでおります。シャニマスに見られる哲学的センスについては、幽谷霧子のシナリオを取り上げつつ次回の記事でお話できたらいいなと思っております。

 

 

◇私のこと

 今回の本題に入る前に、そもそもこんな話をするお前は誰なんだと思う方もいらっしゃると思いますので、ここで自己紹介を差し挟ませてください。興味ないよという方は読み飛ばしてくださって大丈夫です

 私は哲学を専門にする大学院生(博士課程)です(この記事執筆時の身分です)。哲学研究科に所属してるわけでも哲学科卒業というわけでもないので、メインストリームの哲学の研究というわけではないのですが、学部時代に哲学の先生のもとで哲学の卒論を書きましたし、修論も哲学で書いています。

 私の専門なんですが、これがまた注釈が必要で、フランスの精神分析家のラカンの思想と哲学(主に現代の英米哲学)との二本柱になっていて、人間にとっての現実(とされるものごと)とは何であるかということを考えています。ですので、夢の懐疑という哲学の問題には私自身も強い関心があります。精神分析についての研究も含むので哲学研究科ではないところに所属している、という事情があります(精神分析は哲学とは違うので)。

 

 今回は私のことはこのくらいにして、今回の本題に足を踏み入れていきましょう。(私個人の思考については、幽谷霧子の【我・思・君・思】を取り上げるときにお話ししたいと思っています。)

 それではどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

◆哲学のお話

◇どうして哲学書

 さてまずは、どうして哲学書をおすすめしたいと思ったのか、というお話からまいりたいと思います。

 まずは哲学(的なこと)にそれほど関心のない人に向けた理由になるのですが、これはいくつかあります(これは私の個人的な考えであるということをここで注記させてください)。ざっと箇条書きにしますと……

 

  • シャニマスについて哲学と絡めて語るときにもっと入り込んだ話ができるようになる
  • そもそも哲学の議論を知るとものごとを見るときの解像度が上がる

 

……と哲学のことを知ることによって良いことはたくさんあるはずだと思っています。

 また、シャニマスのシナリオで登場する話題や場面に哲学的な問題を感じていて、さらにその問題について考えたい(あるいは知りたい)のだが哲学は詳しくなくて何を読んだらいいのか分からない、という方のための読書案内にもなったらいいなと思っております。

 

 今後シャニマスPのみなさんに向けて哲学書をいくつか紹介していきたいと考えているのですが、そこでは、その哲学書の議論を知っているとシャニマスのコミュがこういう観点から読める(と思う)とか、シャニマスのこのコミュのこの場面からこうした哲学の問題が読み取れるといった、私自身の読みの経験も合わせて提示できたら、と考えています。……というより私の読み方から紹介するしかないのですが……(これはそもそも私に哲学のセンスがどれほどあるのかという問題でもあります……)

 今回は、哲学ということでどういうことを私が考えていて、どういう風なものとして哲学のことを知ってもらいたいか、ということをお話ししていきます。それがこの記事全体の前半部の内容になります。後半部では哲学の入門書の紹介をしていきます。

 

 

◇哲学?

 もしかしたら、哲学のことなんて知ってるよ、という方もおられるかもしれません。高校の倫理で習ったとか、大学の授業を受けたことがあるとか、ご自身の興味で哲学書を読んだとか、そういう方がいらっしゃることと思います。

 それでは哲学と聞いてどのようなイメージを持たれているでしょうか? 哲学なんてただの思い込みだとか、非科学的な妄想だとか、独りよがりな思想だとか、そういう風に思われている人もおられるかもしれません。そう思われている方にも哲学のことをもう少し理解していただけたらと思うのですが、そういう方たちにも哲学のことをもっとよく知ってもらうために哲学のことをお話していきたいと思うのですが、そのための文章力や説得力が私にあるのかは分かりません。

 あるいは、ソクラテスプラトンアリストテレスデカルトやカントやヘーゲルニーチェハイデガーウィトゲンシュタインといった人たちが何て考えたかを知るのが哲学だ、というイメージをお持ちの方もおられるかもしれません。高校の倫理の授業を私は受けたことはないのですが、倫理の授業の場合は歴史上の哲学者が考えたことを知ることが重要なことであるはずです。大学での哲学の授業もそういうものであったかもしれません。今回ここで哲学のことを知ってもらいたいと私が想定しているのは、いま挙げたようなイメージを持たれているような方です。哲学というのは、歴史上の哲学者が考えたことを知ったり、理解したりすることだけではないのです

 歴史上の哲学者のことをよく知っていて、いろんな哲学者の議論や概念のことを知っていても、ちっとも哲学的でないということがありえるのです。「哲学的である」ということは、歴史上の哲学者のことを知っているということとは別のところに由来しています。それは、哲学の問題そのものの問題性に絡めとられる、ということです

 

 

◇哲学の問題

 では、哲学の問題とは何でしょうか? 「哲学は驚きから始まる」という言葉があります。「実にその驚異の情こそ智を愛し求める者の情なのだからね」とソクラテスは言っています(プラトン『テアイテトス』田中美知太郎訳,岩波文庫,155D)。「智を愛し求める」ということは、フィロソフィー(フィロ=愛する,ソフィー=知)=哲学のことにほかなりません。「驚異」(驚き)から哲学が始まるわけです。

 では何に驚くのでしょうか。それは誰かに驚かされてびっくりするということでもなければ、手品のような不思議な現象に出くわしてびっくりするということとはかなり違います。もっと身近で、常識的には当たり前だとされていることに驚くということです。常識的に当たり前だとされていることに対して驚いて、「それは一体どういうことなのか」「それはいったいどうしてなのか」という問いにとらわれること、これが哲学の始まるポイントです

 実際に哲学の問題をいくつか列挙してみましょう。

 

 無数に存在している人間の中で自分という特殊な人間がいるのはなぜなのか

 宇宙なんて無くてもいいはずなのにどうして存在しているのか

 言葉が何かを意味することができるというのはどういうことなのか

 言葉というものを用いて他人とコミュニケーションがとれるのはどうしてなのか

 自分の意志で自分の身体を動かすことができるのはどういうことなのか

 心と体(脳)の間はどのように関係しているのか

 世界を認識することができるということはどういうことなのか

 現実を夢から区別することは本当にできるのか

 時間が流れているということはいったい何なのか

 善とか悪とかっていったいどうやって決まっているのか

 死ぬとはいったいどういうことなのか

 

……とまだまだ問題はいくつもいくつもあるのですが、とりあえず例としてこのような問題を挙げることができます(これらは哲学の問題の例であって、哲学の問題の全てではありません)。このようなことを(全てとは言わずともいくつかは)、たとえば子供のころなどに疑問に思われたことがある方は、実はかなりいらっしゃるんじゃないかと思います

 ですが、こうした疑問に絡めとられたままとか、こうしたことが気になって仕方がないとか、こうした疑問のことについてずっと考えてしまうとか、そういう方となるとかなり少なくなるのではないか、とも思います。自分と他人がいるとか、宇宙があるとか、言葉で何かが言い表せるとか、言葉でコミュニケーションが取れるとか、自分の体を動かすとか、何かを認識するとか、時間が流れてるとか、こういうことは私たち人間が日常生活を営む前提として当然視されていて、場合によっては当たり前すぎて見向きもされないようなことばかりです。それほど当たり前なものについて、「それは一体何?」「それは一体なぜ?」と疑問に思うこと、こういうところに哲学の問題の特徴があります

 ソクラテスプラトンアリストテレスデカルトもカントもヘーゲルニーチェハイデガーウィトゲンシュタインも、こうした問題に独自に絡めとられ、独自にその問題について思考を巡らせた人たちです。ですので、こうした問題の問題性を感じること抜きには、誰それが何を考えたかとか誰それの概念はどういう意味だとかそういうことを知っていても、それはちっとも哲学的ではないということになるのです。

 

 

◇哲学の問題はどこから来る?

 さらに言うと、哲学の問題は全てをリストアップするということは不可能です。というのも、哲学の問題というのは、いままで誰も問題にしたことがないような全く新しい問題というのが現れうるからです。それはいつもその人個人の中から生まれてきます。ですので、哲学の問題に絡めとられるということは、上に例示したようなすでに哲学の公認の問題を自分の課題として引き受ける、ということとも違うのです。自分が独自に感じていた問題が、哲学の公認の問題と同じだった、ということはありえます。でもその場合でも、問題は公認の問題を引き受けることではなく、自分自身の中から生まれています

 アメリカの哲学者のトマス・ネーゲルは、「哲学のネタは、世界から、そして世界と私たちの関係から直接生まれるのであって、過去の著作から生まれるのではありません」と言っています(ネーゲル『哲学ってどんなこと?』岡本裕一朗・若松良樹訳,p.4)。さらに永井均の次の文章も参考になります。

 

 「哲学は、他にだれもその存在を感知しない新たな問題をひとりで感知し、だれも知らない対立の一方の側にひとりで立ってひとりで闘うことだからである」(永井均『マンガは哲学する』,p.221)

 

 哲学の問題がどういうものなのか、どういうところから哲学という営みが生まれているのか、少しでもイメージしていただけたでしょうか。もし伝わっていましたら嬉しいです。

 哲学の問題を自分の中から生み出すなんて、そんなこと難しいことに思われるかもしれません。ですが先ほども述べたように、上で例示したみたいな哲学の問題のような問題を、みなさんも子供のころなどに疑問に(あるいは不思議に)思ったことがあるのではないかと思います。可能ならば、そのときの疑問に(あるいは不思議に)思ったことを少しでも思い出してみてもらえたら、と思います。

 

 

 

 

◆哲学の入門書

 ここではもう少し具体的に哲学のことを知ってもらうために、哲学の入門として適していると思われる5冊の哲学書を紹介してまいりたいと思います。これは今回の企画の「シャニマスPにおすすめしたい哲学書」というよりも、もっと普遍的な意味での哲学の入門書です。

 ここでは5冊の本を紹介しますが、それらに順序はなく、興味を持ったものから手に取っていただけたら、と思います。どの本も、興味のある章をいきなり読み始めることができると思います。より自分の関心に近いところから読み始めることができれば、それだけより哲学の中に入っていきやすくなるはずだと思います。

 

 

永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』ちくま学芸文庫

 

 

 翔太という中学生の少年と、なぜか喋る猫のインサイトが、哲学の問題について考えて議論をする哲学書です。2人の会話によって議論が進んで行き、小説のように読むことができます。著者も、「中学生・高校生向き」だと言っています。哲学書といえば、文章が長くて固くて、概念も分かりづらくて何言ってるのか分からないみたいなイメージを持っている方にぜひおすすめです。本の体裁としてまずとっつきやすいというのは入門として最適だと思います。

 この本は、会話主体で議論が進む小説のような本であるという特徴のほかに、哲学者の議論の紹介ではなく哲学の問題そのものを議論しているという特徴があります。そして、哲学者の名前はほとんど出てきません。ですので、哲学についての予備知識がなくても、この本を読み進めることができます。そういう点でも入門としておすすめすることができます。

 この本のもう一つの特徴は、議論される問題に対して一つの答えを提示したり、一つの学説を強く主張したりはしないということです。この本は、哲学の問題について、そもそも何が問題になっているのかをよりよく理解しようとしたり、問題に対する答えになりそうなものがどうして答えにならないかを考えたりします。問題に対して答えが与えられないというのはもやもやするかもしれません。ですが、このそもそもの問題をよりよく理解することや、答えになりそうなものが答えになりえるかどうか検討するということが、哲学においてはとても重要なのです

 哲学はクイズのように問題に対して答えを当てはめるような営みではありません。そもそも何が問題になっているのかよく分からないこともあるので、その場合には問題になっているのはどういうことなのか考えることが必要になります。そして何が問題になっているのか分からなければ、どういうことが答えになるのかも分からないので、答えになりそうなものが答えになりうるかどうかも考えます。そういう議論の営み自体が哲学の営みです。『翔太と猫のインサイトの夏休み』は、そういう哲学の営みそのものを読むことができる本でもあります

 

 本書について、著者は「中学生・高校生向き」と言っているのですが、だからといってしかし内容がちゃちというわけではありません。翔太と猫のインサイトの2人(1人と1匹)とともに、読者も考えながら読んでいく必要があります。その点では、子供だけでなくても大人にとっても歯ごたえがある本だと思います。

 著者の永井均は、私が最も尊敬する哲学者の一人です。かなり多くの哲学者が認める、現代日本を代表する哲学者に違いありません。永井均は独自の哲学的問題を哲学史上初めて問題にした人であり、哲学の議論については他の追随を許さないほどの精緻さとセンスを誇る人物です。本書は中学生と猫の会話だからといって侮ることはできないほどレベルの高い議論が展開されていて、敷居はかなり低い本ですが哲学的にかなり高度なところまで連れて行ってくれる本でもあります。その点でもとても良い本として強くおすすめできます。

 

 『翔太と猫のインサイトの夏休み』の中で行われている哲学の議論は、4つの問題に分かれています。

 

 第一章 いまが夢じゃないって証拠はあるか

 第二章 たくさんの人間の中に自分という特別なものがいるとはどういうことか

 第三章 さまざまな可能性の中でこれが正しいといえる根拠はあるか

 第四章 自分がいまここに存在していることに意味はあるか

 

 たとえば第一章では、培養液の中の脳の話から始まって、夢と現実を区別することはできるのか、ほんとうということはどういうことか、といった問題が議論されていきます。猫のインサイトが提示している問いを、少しだけ引用してみましょう。

 

 「問題はね、こういうことなんだよ。ぼくらが培養器の中の脳だとしても、そんなことはないとしても、どちらにしても、ぼくらにそのことを知ることができるか、あるいは証明することができるか? ってこと。これが、第一の問題だ。そしてね、たとえぼくらがそれを知ったり証明したりはできなくても、ひょっとしたら、ほんとうはぼくらは培養器の中の脳だった、なんてことがそもそもありうるか? ってこと。これが第二の問題だ。この二つは分けて考える必要があるな」(『翔太と猫のインサイトの夏休み』ちくま学芸文庫,p.23)。

 

ここではこの問題についての議論を展開することはしませんが、この問題が気になる方は、ぜひ『翔太と猫のインサイトの夏休み』を手に取って考えてみてください!

 

 

永井均『マンガは哲学する』岩波現代文庫

 

マンガは哲学する (岩波現代文庫)

マンガは哲学する (岩波現代文庫)

  • 作者:永井 均
  • 発売日: 2009/04/16
  • メディア: 文庫
 

 

 1冊目と同じ著者からもう1冊です。

 この『マンガは哲学する』は、いくつもの漫画を取り上げながら、そこに哲学のセンスを見いだしたり、漫画で展開されている場面や物語を哲学的に読解したりするというちょっと変わった本です。『翔太と猫のインサイトの夏休み』は小説風に読めるという点で哲学に入り込みやすくなっている本ですが、この『マンガは哲学する』は扱われているのが漫画という点で哲学に入り込みやすい本になっています

 永井均は、漫画を次のように読んでいます(私は文庫版を持っていないので引用は単行本からです)。

 

 「二十世紀後半の日本のマンガは、世界史的に見て、新しい芸術表現を生み出しているのではないだろうか。世の中の内部で公認された問題とはちがう、世の中の成り立ちそのものにひそむ問題が、きわめて鋭い感覚で提起されているように思われる。だれもが自明と思い、その自明性のうえに通常の世の中的な対立が形づくられているような、もとのもとの部分がそこで問題かされている。哲学という形で私が言いたかったこと、言いたいことの多くが、萌芽的な形態において、マンガ作品のうちに存在している。

 いや、それどころか、ひょっとすると、マンガという形でしか表現できない哲学的問題があるのではないか、と私は感じている」(永井均『マンガは哲学する』講談社,pp1-2)。

 

「世の中の成り立ちそのものにひそむ問題」を扱うという点で、漫画は哲学と共通している、というのが永井均が漫画に感じていることだというわけです。それゆえ永井均はまた次のように言います。

 

 「この本は二兎を追っている。マンガ愛好者には、マンガによる哲学入門書として役立つと同時に、哲学愛好者には、哲学によるマンガ入門書として役立つ、という二兎である。マンガ好きの方々には、君たちはそれとは知らずにじつは哲学に興味を持っていたのだよ、とぜひとも言ってみたかったし、哲学好きの方々には、その問題ははるかにポピュラーな形でもうマンガに表現されているのだよ、と言ってみたかった」(同上,p.3)。

 

 『翔太と猫のインサイトの夏休み』のように、本書も問題のテーマごとに章が分かれています。私という存在の問題や、夢と現実の問題もあります。『翔太と猫のインサイトの夏休み』では扱われていなかったテーマも含まれており、そこでは言語と言葉の意味の問題や、時間の問題、子供と大人の対立の問題、人生の意味の問題などが取り上げられています。

 取り上げられている漫画は多岐に渡ります。藤子・F・不二雄手塚治虫萩尾望都諸星大二郎、謀図かずおなどの作品ほか、吉田戦車の『伝染るんです。』、中川いさみクマのプー太郎』といったギャグマンガも取り上げられています。『カイジ』や『寄生獣』『攻殻機動隊』『鉄コン筋クリート』など比較的最近(といっても20年以上前ですが)の作品も扱われています。身近な漫画を題材にして哲学の問題の方へと入っていくことができる本として、本書もおすすめすることができます。

 

 

入不二基義『哲学の誤読』ちくま新書

 

 

 こちらも一風変わった哲学書です。

 この本を簡単に紹介すると、大学入試の現代文の問題に出題された哲学の文章を、プロの哲学者が読解するという本です。日本の高校には哲学という科目はありません(フランスのリセにはある)。ですが現代文では、授業においても入試においても哲学者の文章が取り上げられることがけっこうあります。大学入試で取り上げられるようなものは、哲学の専門的知識がなくても現代文の読解能力を駆使すれば読むことができるものです。ならばそうした文章を読むということは哲学の入門にもなりうるはずです。そこで著者の入不二は「この本は、「現代文の受験参考書」と「哲学の入門書」とを「橋渡しする」かのような一冊」だと言っています(入不二基義『哲学の誤読』,p.10)。

 著者の入不二基義は、永井均と同様に現代の日本を代表する哲学者です。私が最も尊敬する哲学者の一人でもあります。入不二は大学の教授で哲学者ですが、かつて駿台予備校で受験生に英語を教えていた講師でもありました。この『哲学の誤読』では、そうした哲学者としての面と、予備校講師としての面の両方を垣間見ることができるという点でも面白い本になっています。入不二(の本)に特徴的な図解も多用されていて、授業を受けているリアルタイムな感じもそこから感じられます。

 

 この本で取り上げられているのは4つの哲学の文章で、それぞれ野矢茂樹永井均中島義道大森荘蔵現代日本を代表する哲学者のものばかりです。専門的知識がなくても読解力をもってすれば読める文章であるとはいえ、これらは必ずしもちゃんと読まれているわけではありません。哲学の文章は、哲学的な知識が予断としてはたらいたり、人生論的なものとしてとらえられたりして、適切に読んでもらえないことがあります。問題作成者自身がこのような誤読をしていることもあれば、いわゆる赤本などの、出版社が作成する過去問の解説者がこのような誤読をしていることもあるのです。

 また、哲学的に有意義な、新たな読みの可能性を開く誤読もあると入不二は言います。入不二が注目するのは、これらの「誤読」を取り上げることで哲学的な文章を哲学的に読むという哲学の営みを浮かび上がらせることができる、ということです。入不二の文章を引用しましょう。

 

 「もちろん、「誤読」には、初歩的なミスもあれば、見逃すことのできない致命的なものもあるし、さらに新たな読みの可能性を開いてくれる生産的な誤読もあるだろう。しかし、「何がどのような誤読なのか」をあらかじめ言うことなどできはしない。各文章に深く入り込んで、その内からそのつど個別的に考えるしかない。しかも、それが「誤読」であるのはなぜなのか、という理由と一緒にしなければ、どのような「誤読」なのかも見えてこない。それぞれの「誤読」の検討から、「哲学の文章を哲学的に読み思考することが、どのようなことか」について、その輪郭を少しでも浮かび上がらせたいと思う。「誤読」に注目することは、そのための補助線として役立つはずである」(同上,p.9)。

  

 「誤読」と言えるということは、読解にはある種の正しさのようなものがあるということを意味します。それは書かれていることを、書かれていることに沿って読むということのはずです(永井均はこうした読み方を「ひたりつく」と呼んでいます)。その読み方が「誤読」なのかどうかは、そうした書かれていることに沿ってそのつど考える必要があるのです。

 入不二自身による中島義道の文章の誤読の例について、入不二は「その誤読は(誤読ではあっても)一定程度の「理」がある」と述べています(同上,p.178)。「中島の文章の中には、異なる二種類の「未来」(の分岐)が含まれている」(同上,pp.178-179)とあるように、文章自体がそういう書き方がなされていて、そういう風に読める、ということが示されています。そしてそこから哲学者としての入不二と中島との、読解における哲学的な議論を追いかけることができます。

 このように『哲学の誤読』は、哲学的な文章を読むということをありがちな誤読から哲学的な誤読までいくつもの層で見ていくことができ、その上で哲学という営みへと深く入り込むことができるという点で、哲学の入門に適していておすすめできる一冊です。

 

 

中島義道『哲学の教科書』講談社学術文庫

 

哲学の教科書 (講談社学術文庫)

哲学の教科書 (講談社学術文庫)

  • 作者:中島 義道
  • 発売日: 2001/04/10
  • メディア: 文庫
 

 

  この本は、哲学とは何であるかをとてもよく教えてくれる本です中島義道は、哲学的センス(がある)とはどういうことかをよく知っている哲学者で、それを的確に文章化してくれています。まず本書の全体の構成を見てみましょう。

 

 第一章 死を忘れるな!(Memento Mori !)

 第二章 哲学とは何でないか

 第三章 哲学の問いとはいかなるものか

 第四章 哲学は何の役にたつか

 第五章 哲学者とはどのような種族か

 第六章 なぜ西洋哲学を学ぶのか

 第七章 なぜ哲学書は難しいのか

 

 第一章は、中島義道が最大の哲学問題とする死の問題が書かれており、そこで(中島の)哲学の世界へと導かれます。第二章はちょっと飛ばして、第三章で哲学の問いが6個紹介されています。「時間という謎」「因果関係という謎」「意志という謎」「「私」という謎」「「他人」という謎」「存在という謎」の6個で、どれも哲学上の大きな問題です。第四章の「哲学は何の役にたつか」という問題は、多くの人が関心を寄せる問題だと思います。

 

 私が思うこの本の最大の魅力は、第二章にあります。第二章は「哲学とは何でないか」と題していて、6つのものから哲学を区別しています。それらを挙げてみましょう。

 

 哲学は思想ではない

 哲学は文学ではない

 哲学は芸術ではない

 哲学は人生論ではない

 哲学は宗教ではない

 哲学は科学ではない

 

哲学が科学とは違うものだというのは、わりかし理解されていることかもしれません(ただしそれは「哲学というのは科学とは違って実証不可能の言葉遊びや思い込みにすぎない」という理解かもしれませんが)。哲学が芸術や文学とは違う、となるとちょっと微妙になるかもしれません。ですが、哲学は人生論や思想ではない、というところまでいくと「そうなの?」と思われるのではないでしょうか。これらは厳密には哲学とは違うものです。

 一番最初の「哲学は思想ではない」の節では、中島義道が1965年頃に政治思想史の大御所である丸山眞男と会って話したエピソードが紹介されています。大御所の学者である丸山に「個人はさらに分解されないのですか」と質問したところ、丸山は「そういう哲学的な質問なら私なんかに聞かずに、プラトンの『国家』を読みなさい」と言うだけで肩すかしという感じだった、というのです(中島義道『哲学の教科書』p.46)。

 丸山眞男くらいの学者なら哲学の古典に対する知識は膨大にあるはずだと中島は言います。「古典的な哲学的問題はことごとく「知っていた」と思いますが、それらに痛めつけられ引き回されることはない。むしろ、こうしたことにこだわらなかったからこそ、天皇ファシズムの構造について、あのような立派な仕事をすることができた」(同上,p.47)と。哲学の問題を「知っている」ということ以上に、哲学の問題に「痛めつけられ引き回される」というところに力点があります。中島は思想と哲学との違いについて、次のようにまとめています。

 

 「哲学の大きな特徴は、足元にころがっている単純なこと――そのテーマはおのずから決まってくるのですが――に対して、誰でもどの時代でも真剣に考え抜けば同じ疑問に行きつくという信念のもとに、徹底的な懐疑を遂行することです。思想はこの一つの信念を捨てて、むしろ時間・空間・物体などという膨大な信念を受け容れることである、と言えましょう」(同上,p.44)。

 

ここで中島が言う、「足元にころがっている単純なこと」に対する懐疑というのがとても重要です。永井均が、哲学と共通するものとして漫画に感じていたものが「世の中の成り立ちそのものにひそむ問題」でした。哲学は、このように日常世界においてはすでに前提となっていて、当たり前すぎて気づかれていないようなものに、問いのまなざしを向けるものなのです。

 このように、徹底して哲学とは何でないかを記述してくれることで、哲学とはどういうものなのかに対する先入観を削ぎ落すことができ、その理解を改めることができるという点で、哲学の入門書としておすすめしたい一冊です。

 

 

◇トマス・ネーゲル『哲学ってどんなこと?』昭和堂(岡本裕一朗・若松良樹訳)

 

哲学ってどんなこと?―とっても短い哲学入門
 

 

  最後の5冊目はアメリカの哲学書です。

 著者のトマス・ネーゲルは、ユーゴスラビア生まれのアメリカの哲学者です。いわゆる分析哲学と呼ばれる、現代の英米圏で活発な哲学の代表的な哲学者の一人です。一人称的な意識の実在の問題を取り扱った「コウモリであるとはどのようなことか?」という論文でも知られています(この論文が収録された書籍は永井均が翻訳しています)。

 この『哲学ってどんなこと?』は、永井均の『翔太と猫のインサイトの夏休み』のように、哲学の問題ごとに9つの章に分かれていますが、小説のように会話で議論が書かれたものではなく、ネーゲル自身が読者に語りかけるような文体で書かれています。会話ではむしろ分かりにくいという場合には、こちらの本がおすすめできると思います。

 ネーゲルは、14歳くらいになると哲学的な問題について自分自身で考え始めると言っており(ネーゲル『哲学ってどんなこと?』岡本裕一朗・若松良樹訳,p.4)、高校生が読んでくれたらとも言っています(同上,p.3)。そのくらい平易な言葉で書かれており、本書も哲学についての予備知識がなくても読むことができます。

 本書が取り上げている9つの問題を見てみましょう。

 

 私たちの心を超えた世界を知ることができるのか。

 他人の心を知ることができるのか。

 心と脳の関係はどのようなものか。

 いかにして言語は可能になるのか。

 私たちは自由意志をもっているのか。

 道徳の基礎はどのようなものか。

 どのような不平等は正しくないのか。

 死とはどのようなものか。

 人生には意味があるのか。

 (同上,p.7)

 

これらの問題は、やはり私たちの日常生活の前面において取り上げられることはほとんどないような問題だと思います。哲学者が問う問題は、そうした日常生活において前提になっていることに向けられるのです。

 ネーゲルは、これらの問題は「思想史にあたらなくても、それだけで理解できる」と言い、「哲学の勉強を始める最もよい方法は、こういった問題を直接考えること」だと言います(同上,p.4)。こうした考えにもとづいて、ネーゲルはこの本の目的について次のように述べます。

 

 「この本の目的は、答え――私自身が正しいと考える答えでさえ――を提出することではありません。そうではなくて、あなたにこれらの問題をごく初歩的な仕方で紹介し、あなたが自分自身で思い悩むことができるようにすること、これが目的なのです。哲学理論をたくさん学ぶよりも、その前に、それらの理論が答えようとしてきた哲学的問題に頭を悩ます方がよいのです。そして、そうするための最善の方法は、いくつかの可能な解決策を検討し、それらのどこが間違っているかを調べることです」(同上,p.8)。

 

この本もまた、哲学の問題そのものからスタートして、哲学という行為そのものの中へと導いてくれる本で、哲学の入門書としておすすめすることができます。

 

 ところでこの本には、特に今回の記事に関係する私自身の個人的な思い出があります。私が大学の学部2年生のときに受講した、一般教養に相当する科目の哲学の授業での教科書がこの『哲学ってどんなこと?』だったのです。そのときの先生が入不二基義先生でした。

 当時私は心理学科に所属していましたが、心理学というよりは哲学の方に興味があって、すでに哲学の本をいくつか読んでいました。 デカルトやカントやニーチェキルケゴールメルロ=ポンティといった哲学者の本です。それで、こういう難しい本を読み、こういう哲学者たちの考えたことや難しい概念を知ることが深い哲学なのだ、と私自身も思っていました。そうすることが私の知りたい問題を解決してくれる、という風にも。

 この『哲学ってどんなこと?』を用いた授業では、哲学者の名前も難しい概念のこともほとんど出てきませんでした。なので、最初の方は物足りない気がしていました。「ぜんぜん深くない。こんなのが哲学なのか」なんて今思えばかなり生意気なことも思っていたのです。

 ですがこの『哲学ってどんなこと?』の議論と入不二先生の授業が進んで行くにつれ、議論がどんどん高度になっていくと、そのすごさと面白さが分かるようになってきました。そして私自身の哲学観も変わっていったのです。その頃から永井均中島義道や入不二先生の本なども読み、自分が問題を感じていることを自分で考えることが大事なんだと思うようになったのでした。

 

 

 

 

◆おわりに

 この記事で哲学についてほんの少しでも具体的にイメージすることの手助けになったのであれば、この記事は役目を果たすことができたのかな、と思います。読んでくださったみなさんにとって何か得るものがありましたら嬉しいです。

 

 次回は幽谷霧子の【夕・音・鳴・鳴】のTRUEコミュ「でんごん」を読んで、シャニマスの中の哲学のお話ができたらいいなと思っております。そしてその次にデカルトの『省察』と【我・思・君・思】「かなかな」のお話をしたいなと思っています。

 もしよろしければ次回以降もどうぞお付き合いください。ここまで読んでくださってどうもありがとうございました。

 

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(2020年4月30日)

 

 

 

 

「天気の子」の感想文

「天気の子」の感想

 

 2019年7月19日に公開された新海誠監督の最新作「天気の子」の感想文です。

(2019年7月26日に追記。)

 

 公開初日に見に行くつもりだったのだけれども、個人的な都合のため数日遅れて23日に見てきた。公開初日、ずっと雨が続いていた東京に久しぶりの晴れ間が訪れたのは、偶然以上の何かを感じてしまう。そのくらいに、私は新海誠監督のファンで、信者だと言っていい。

 

 さて、「天気の子」はネタバレを受ける前にまっさらな気持ちで見に行こうと思っていたのだけれども、それはかなわなかった。「世界を変えてしまった」という公開前の予告と、公開初日のテレビでの新海監督のコメントのほか、ぽろぽろとツイッター上で感想を見かけていた。

 新海監督のコメントでは、「これは道徳の教科書には乗らない」「批判される」というもの。ツイッターで見かけた感想の中でとりわけ重要そうだなと感じたのが、「ゼロ年代セカイ系っぽい」っていうのと、「雲の向こうっぽい」という話。

 それらを総合して、なるほどこれはきっとそういうストーリーだな、と頭の中で予想をしていた。個人的にはおおむね予想通りだと思ったのだけれども、ツイッター上の感想を見ると内容を意外に感じている人が多いみたいで、何か重要なものを見落としてしまっているのではないかと不安になる。

 ここでは、事前にどんな予想をしていたのかということを中心に感想を書いていきたい。

 

 

セカイ系

 セカイ系といえば、「君と僕と世界」と以前から評されているけれども、新海監督の作品の中でそれを一言で言い表しているセリフがあるとずっと思っていた。それは「雲の向こう」終盤で、タクヤがヒロキに向かって言う「世界を救うのか、サユリを救うのかだ」というセリフだ。

 「雲の向こう」では、パラレルワールドの実在が実証されており、人間が見る夢は宇宙の見る夢=パラレルワールドなのではないか、という研究が行われている。蝦夷には印象的な塔が建てられており、その塔は世界をパラレルワールドに書き換える力を持っていた。けれど、そのパラレルワールドの情報が眠り続けているサユリの夢となっていることで、世界は書き換えられずに済んでいる。塔の設計者はサユリの祖父だった。世界が書き換えられてしまう代わりにサユリは眠り続けているのだ。世界とヒロインが、天秤にかけられているのである。

 ヒロキ(とタクヤ)はサユリを目覚めさせたいと思っており、サユリが眠る前に約束した、「あの塔まで飛ぶ」という約束を果たそうとする。そこでタクヤがヒロキに向かって言うのだ、「世界を救うのか、サユリを救うのかだ」と。サユリは世界が書き換えられるのと引き換えに眠り続けている。サユリが目覚めれば世界は書き換えられてしまう。だから眠らせておいた方がいい、そう考える人もいるということだ。

 結局、タクヤもヒロキに賛同して、サユリを目覚めさせることを選ぶ。目覚めたら、すぐに塔を破壊しようと言う計画だった。眠ったままのサユリを、ヒロキとタクヤが作った飛行機に乗せて塔の元へと飛んでいく。塔に近づくとサユリは目覚めるが、サユリは何か大事な記憶を失っている。夢の中で確認したサユリの大事な気持ちが何だったのか、忘れてしまっている。サユリが目覚めると同時に、塔の世界の書き換えが再開するが、ヒロキの飛行機に乗せた爆弾が塔を破壊し、書き換えは途中でストップする。これで終幕。

 

 ちょっと長く「雲の向こう」の終盤のストーリーをおさらいしたが、世界を救うかヒロインを救うか、という二者択一がここにあることを確認しておきたい。世界とヒロインが天秤にかけられている。

 「天気の子」が「雲の向こうっぽい」と言われていたのと、「道徳の教科書には乗らない」「批判される」という新海監督の話を総合して予想したのはこういうことだった。ヒロイン陽菜の天気にする力を使って、主人公たちは何らかの意味で世界を変えてしまった。世界を救うことと引き換えに陽菜の存在が失われるが、主人公は世界を救うことではなく、陽菜を救うことの方を選ぶ、と。こういうことを予想していた。これはおおむね当たりだったと思う。だから内容に関しては、私が見た限りでは、うんうんそうだよねそういう風になるよね、という感じが強い。

 

 「向こう側」に行ってしまったヒロインをこちら側へ救い出すということも、新海監督がずっと描こうとしてきたことだった。「ほしのこえ」以来、ヒロインは繰り返し向こう側へと行ってしまう。ハッピーエンドとして救出に成功したのは「君の名は。」が初めてだった。(「雲の向こう」では大事な記憶が失われている。)

 だから、最後雨が降り続けて東京はほとんど水没してしまったけれど、ちゃんと陽菜と再会することができた。これで良かったんです。ハッピーエンド。

 「批判される」と監督が言っていたのは、世界を救う方を選ばなかったから、なんだろうか。だとすれば私個人的にはあまりそちらの方はピンとこない。世界とヒロインだったらヒロインを救う方を選びたい!と声高に言えればいいのだけれども、雨が降り続いて3年かけて東京が水没、というのは世界の崩壊というのはちょっと弱い気もする。徐々に水没していったと思うんだけど、それなら隕石被害に比べて死者もそんなに多くないと思いたい。「雲の向こう」の世界の書き換えの方がおそろしい。

 「君の名は。」ではヒロインも糸守の人たちも、全員守ったところにくらべて、「天気の子」はヒロインのことしか考えてないってことが問題なんだろうか。そのあたりについて「天気の子」に対して批判的な感想はまだ見てないのでよく分からない。

 私個人としては、「天気の子」があのような展開になったのは、新海誠監督の世界観的にも、個人的感覚に照らし合わせても、よく分かるものだった。

 

 

◆世界から外れたものたち

 新海監督の世界観は、「ほしのこえ」や「雲の向こう」などはSF的であったけれども、完全にSFというよりは、少しオカルト的な要素が入っていると思う。「君の名は。」に引き続き、「天気の子」でも『月刊ムー』が出てくる。

 このオカルト、というのが重要で、これは科学的な世界観や、大人が生きる常識的な世界にうまく位置づけられないものだ。新海監督はずっとこの科学的世界観や大人の常識的世界観にうまく位置づけられないものを描き続けてきた。パラレルワールドや夢を始めとして、主人公とヒロインが体験することや大事にしていることは、普通の人たちに話せばどれもたわごとに聞こえたり、どうでもいいと価値を認められなかったりするようなものばかりだ。

 夢の中で入れ替わりを体験したとか、その夢を通して隕石が落ちてくるとか。夢の中でサユリと再会したとか。こんなことはふつうの意味での「体験」とは呼ばれないに違いない。「単なる夢でしょ」と言われるのがふうつだろう。

 はやく大人になって靴職人になりたいとか。子どもが考える自分自身の能力についてのあれこれなんてものも、大人から見れば「青い」だけに違いない。須賀さんも「はやく大人になれよ」と言ってくる。

 こうしたものは、科学的な世界観、大人の常識的な世界観にはそぐわない。うまく位置づけられない。いずれ消えてしまうもの、意味のないものだったりする。けれどこういうものに新海監督は視線を送っており、そういうものを大事にする人を描き続けている、と思う。

 そうした、ふつうの世界の中では出来事として位置づけられないようなこと、出来事の説明として通用しないようなことが、世界よりも大きな枠組みにおいて、あるいは世界の外側において起きている、というのが新海誠の世界観なんだとずっと感じている。

 

 「天気の子」もそうで、帆高は地元と家族に息苦しさを感じて東京に家出をしてきており、陽菜と凪のきょうだいは親がいない。(東京の)大人の世界の中にうまく位置づけられていない。そういう世界の中から外れてしまった存在が、世界自体をその世界の穴からひっくり返してしまう。その「ひっくり返し」も、世界の中の論理では説明できない。陽菜は人柱で空の上には空の世界があって等々と説明したところで、ほとんどの人は耳を貸さないだろう。

 終幕間際、雨が降り続いたままの東京で、須賀さんは帆高の話を真に受けていないし、立花さんは何も変わってないと言う。実はそうなのかもしれない。ふつうの、常識的な大人たちの世界観では、帆高が見た空の上の光景は夢みたいなもので、ありえないことに違いない。帆高もそう思おうとした。

 けれど最後3年ぶりに陽菜に会いに行ったとき、帆高の目に飛び込んできたのは陽菜が祈っている姿だった。それを見た帆高は思いなおす。2人は自分たちで世界を変えてしまったのだと。たぶんふつうの大人はそんな話を誰も信じないだろう。それでも、帆高はそれを信じようとする。

 世界の外側に、世界よりも大きな枠組みで、世界の中の説明が通用しないような何かがあり、それがむしろ世界を動かしている。地球上で日常生活を送る私たちの世界の外側に宇宙があるということ、私たち人間に性別がなぜかあるということ、私たちは日常的に現実とよく似た夢を見るということ。こうしたものはその代表例として新海監督の作品に登場してくる。私は世界の中のあれこれ以上に、こういうものにこそ興味がある。そういう世界観を、新海監督は見せてくれる。私にはそれがたまらなく嬉しい。

 

(2019年7月24日)

 

 

◆以下追記

 朝のテレ朝の番組で気象予報士の依田さんと新海誠監督がトークしていて、それが面白くて、それでさらに考えたことです。以下は響きハレがふせったーで投稿した内容の転載です。https://fusetter.com/tw/j4S80#all

 また、新海監督が依田さんと話した内容とほとんど同じ内容が、ウェーザーニュース社のインタビューで読むことができます。

『天気の子』新海誠監督単独インタビュー 「僕たちの心は空につながっている」 - ウェザーニュース

 

◇天気について

 新海監督は、天気について、「人間ではないものが、あんなに遠くにあるものが、人間の心をこんなにも動かしてしまう」ということを言っていて、それそれ!と。
 雲の上の世界についても、「雲の上は(地上からは)見えないので、そういうところに人間の知らない世界があったら面白いなと思った」のように言っていた。やはり新海監督の世界観では、人間の日常的な生活の外側にある、それよりももっと大きなものが、人間の生活する世界の方に影響を与えている、のだと思う。

 

◇異常気象について

 それから異常気象について。話を要約すると次のような感じ。
 「昔から異常気象が起こると言われてきたけれど、人間ならそれをどうにかできるんじゃないかと思ってた。けれどそれは違っていて、本当に気候変動が起きてしまった。それに絶望している。けれどいまの子どもは、これから生まれる子どもは、これを「異常気象」とは思わないかもしれない。英題のweatherには「乗り越える」という意味があって、「君となら乗り越えられる」という風に、子どもたちにはこの暗い世界を軽々と乗り越えていってほしい」
 「暗い世界」とはっきり言ったかどうかは私の記憶は定かじゃないんだけど、こんな風なことを確かに言ったと思う。そしてそれは、おそらく映画結末の雨が降り続いているということであり、水没した東京のことだ。そういう風になってしまっても、乗り越えていける、と。
 これは「秒速5センチメートル」の、「人生には劇的なことは起こらないかもしれないけれど、それでも生きるに値する」というコンセプトに通じてると思う。
 「天気の子」の新宿(歌舞伎町)の描写について、かなり暗い面が切り取られている、ダークである、という話があって、私はそれはぜんぜん気づかなかった。「天気の子」で描かれるような新宿の光景を私も知っているので、リアルな新宿を見てるかのように思ってしまった。けれど言われてみればあれはかなりダークだ。
 「雲の向こう」で描かれる新宿も、思い返せばけっこう暗かったと思う。ヒロキが下宿していたあのアパートがあるのが新宿の端っこだった。「秒速」では、第3話に、クリスマスの夜に残業で終電を逃して中野坂上の家まで新宿から歩いて帰るところが描かれる。(新宿がダークであること、それに比して代々木が何か神聖で特別な場所であること、これらが重要なのかもしれない。)
 世界はかなり暗くて、ダークであるかもしれない、けれどそんな世界の中でも生きていくに値するんだと、それだけの中かがあるんだと、新海監督の作品は伝えてくれている、という風にも感じられる。これも一貫してるんじゃないかと思う。

 

◇晴れるということについて

 気象予報士の依田さんは、「天気の子」の雨の描写をかなり褒めていて、その上で、作中で晴れ間が訪れたときのカラッとした爽快感を話していた。
ネタバレ配慮のためそれ以上は掘り下げられていなかったけれども、「天気の子」に感動してしまった場合、見終わった後に迎える晴れた青空には複雑な気持ちが感じられるのではないかと思う。
 人柱となった陽菜が、異常気象の中で帆高に「こんな雨、止んでほしいと思う?」と聞く場面がある。陽菜の事情を知らない帆高は、あっけらかんと「うん」と答える。その残酷さ。
 たぶんだけど、私たちの中の多くには、晴れた青空は良いものだという前提的な感覚がある。物語の描写としても、「雨」というのは悲しみや困難を示すものであることが多い。そうした雨の後に訪れる晴れ間は、困難の解消、悲しみの乗り越えなのだろう。
 けれど「天気の子」はそのような展開にならない。そうした乗り越えは描かない。他の人の感想で、陽菜がいなくなった後に晴れた東京はどこか不気味だと言っていた。そんな晴れは、一番大事なものじゃない。須賀さんが、「大事なものの順番を変えられなくなる」と言っていたのが印象的だ。
 雨という困難や悲しみそのものを消して乗り越えるのではなく、その中でそれを乗り越えることを目指す。
 でも今回は陽菜と引き換えの晴れ間だったので、それなら陽菜を選ぶ、雨だって構わない(陽菜がいるのだから)という風にも読めてしまう。陽菜が帰ってきて、それでも晴れにする方法があったとしたら、それを帆高たちは選んだだろうか。「君の名は。」はそうした方法を見つけ出せた話なのかもしれない。
 あるいは、この映画のメッセージを「帆高は陽菜みたいな子がいたから「乗り越え」られるのかもしれないけど、そういう存在がいない人はどうしたらいいの」と受け取るかもしれない。
 英題の「Weathering with you」について、新海監督は「君となら乗り越えられる」という風に言っていた。なぜ「君と」なのだろう。しかもなぜそれは異性(多くは女性)なのだろう。私にはまだその理由が分からないけれども、そこに必然的があることは分かる。そうでなければならないと、私も思う。

 

◇「天気の子」を見たあとで晴れ間を迎えるということ

 最後にもう一つ。
 見終わってすぐ書いた感想文で、公開初日のことを書いたのだけれども、あれは間違いだったなと今では思ってる。
 公開初日、東京は長く続いていた雨が止み、久しぶりの晴れ間が訪れていた。映画をまだ見ていなかった私は、「天気の子」すげーなと素直に思ってしまったのだけれども、その日に映画を見た人はあの晴れ間をどう思ったのだろう。私があの日を振り返って思うのは、「晴れてもな……」というものだった。
 「天気の子」のCMでは、「これから晴れるよ!」という陽菜のセリフが劇的に使われている。晴れた方がいいという前提的な感覚も私は持ち合わせていた。だからこそ、公開初日のあの晴れ間をすごいことだと思ってしまったのだけれども、それは映画を見た後の視点では素直に肯定することができない。
 CMでの「これから晴れるよ!」のあの劇的な感じ、あれはやっぱり晴れた方がいいという前提的な感覚に訴えかけるものだと思う。「晴れ」というのをそのレベルで捉えると、あの結末の雨が降り続く東京というのは、そういう素朴に良いと思えるものが決定的に失われた世界だということを意味するように思う。そして「天気の子」が伝えるのは、そういう世界も乗り越えられるということ、そういう世界でも生きるに値するということ、なのではないかと思う。

 

 (2019年7月26日)

デレステで「草」が使用された日――「淫夢語録」の使用はなぜダメなのか

◇はじめに

 この記事は、デレステこと「アイドルマスターシンデレラガールズスターライトステージ」というゲーム内にて、「淫夢語録」である「草」という言葉が使用されたことの問題をその背景から記述し論じたものです。

 前半部がアイドルマスターシンデレラガールズ内において起きた出来事の記述で、後半部が「淫夢語録」の使用がなぜ問題であるのかを私にできる限り論じたものです。「淫夢語録」の使用の問題に関心のある方は後半部だけお読みください。「おわりに」にも書きましたが、私は差別の問題については専門ではありませんので、より詳しく分かる方に正確に論じてほしいと思っています。

 

 

 

◇目次

 

はじめに

新アイドルとなんJ

デレステのデレぽで「草」が使用された日

淫夢語録」の使用はなぜダメなのか

淫夢語録」の使用がなぜ差別になるのか

おわりに

 

 

 

◇新アイドルとなんJ

 

 2018年12月、モバゲーのアイドルマスターシンデレラガールズに約4年ぶりに登場した新アイドルの辻野あかりは、登場して間もなくこう言った、「あかりんご、歌うんご」。

 文末に「ンゴ」を付けて話すのは、インターネット掲示板2chの、なんJ(なんでも実況)での話し方である。過去日本の球団に所属していた外国人野球選手のドミンゴを笑いものにするところからきている。なんJは、主に野球(「やきう」)を話題とする場所であるが、たとえば犬を「イッヌ」と書くなどのように言葉の上での符丁が多く用いられ、それらは「なんJ語」と呼ばれている。それゆえ登場間もなく「んご」と喋った辻野あかりは、Twitter上の一部で(主になんJ語を面白がる人たちの間で)「新アイドルはなんJ民だった」として歓迎されるに至っている。

 

 ただし、ここにはいくつかの留保をする必要がある。また多くの人にすでに気づかれているように、辻野あかりはなんJ民ではない。

 まず一つ目は、辻野あかりが使用するのは「んご」とひらがなであって、なんJにおけるカタカナの「ンゴ」ではないということ。辻野あかりが「んご」を使用するのは、出身地である山形のりんごをPRするためにキャッチーなキャラ付けを求めたからである。ただし、辻野あかりがインターネットで検索してなんJ語の「ンゴ」を見て参考にした可能性は否定できないのだが、辻野あかりはインターネットに疎いようでもあるので、辻野あかりをなんJ民ということはできないだろう。

 そしてもう一つは、藤原肇の声優である鈴木みのりの存在である。鈴木みのりは「みのりんご」と呼ばれており、辻野あかりのモデルの一人だと言っても過言ではないと思われる。(ただし、この「んご」について鈴木みのり本人は「これ(みのりんごと呼ばれるの)はドミンゴ前」だと言っており、由来は異なるとはいえ、なんJ語の「ンゴ」を認知してはいるということがここから分かる。)

 

 辻野あかりは、山形県産りんごをPRしたいという目的でアイドルを目指した少女であり、話を聞くところ都会やインターネットに疎く、信じ込みやすい性格をしてはいるものの、両親想いの素直な子である。辻野あかりはなんJ民ではない。だが、Twitter上ではいまだに辻野あかりをなんJの名とともに紹介しているものが多く見受けられるし、なんJ民だと断定するものも少なくない。

 文末に「んご」とつけるキャラ付けをシンデレラガールズ運営が選択したということは、辻野あかりをなんJ民にしようという意図があったかどうかにかかわらず、こういう結果をもたらしたのである。シンデレラガールズ運営は、ここで慎重にならなくてはならない。その意図があろうとなかろうと、「なんJ民だ」と歓迎されてしまうようなところに種を撒くことは避けられるべきである。

 なぜか。それは、なんJと、同性愛差別を背景にした「淫夢語録」とは、切っても切れない関係にあるからだ。

 

 「淫夢語録」は、「真夏の夜の淫夢」というゲイポルノを笑いものにする中で生まれたスラング、符丁である。笑いを意味する「草」や、文末に「ゾ」を付けるもの、「不幸にも黒塗りの高級車に追突してしまう」「あっ(察し)」「ん? いま何でもって言ったよね」「(小並感)」「(迫真)」など多岐にわたるもので、主にニコニコ動画で使用されていたが、残念ながらいまではTwitterをはじめインターネットで見かけない日はない。

 なんJは、野球(「やきう」)を主な話題とするのだが、なんJと「淫夢語録」が切り離せない関係にあるのは、過去、プロ野球選手に「真夏の夜の淫夢」に出演した人がおり、そのことをなんJ上で笑いものにしているからである。

 したがってなんJ語を使用するということは、「淫夢語録」の使用までほとんど距離がないということを意味する。それゆえ、なんJ語の使用は避けられるべきだ。辻野あかりをなんJ民だという風潮にしないために、究極的には「淫夢語録」を使ってしまうようなアイドルにしないために。だから、辻野あかりが登場したその日、私はモバゲーのシンデレラガールズにその旨の「お問い合わせ」を行った。その返信は芳しいものではなかった。辻野あかりはなんJ民ではないのだから、今後の舵取りをうまくやってもらいたいと願うほかない。

 

 

 

デレステのデレぽで「草」が使用された日

 

 辻野あかりが登場してから約1か月が経ってから、その日は訪れた。デレステ内の短文投稿SNS機能であるデレぽにて、荒木比奈が「草」と書いて投稿したのである。

 荒木比奈は、思わず書いてしまったという風で、それに対して鷺沢文香が勘違いの反応を示したのだが、荒木比奈によれば「草」はネットスラングだけど辞書にも乗ったんだよ、ということであった。「ネットスラング」である「草」が辞書に載ったというのは、確かに事実である。

 

 だが、「草」は単なる「ネットスラング」ではない。これは「淫夢語録」である。もともと笑いを意味する言葉としては、本や雑誌などで「(笑)」とつける書き方が古くから用いられてきた。インターネット上のチャットや掲示板などでは、素早く記述できることが求められ、それは「(藁)」「ワラ」などとなった歴史があるが、その中で多く普及したのが「w」だろう。笑いをローマ字で入力するときの頭文字であるwの一文字で表せる簡便さや、「wwww」のように重ねて用いることで笑いの大きさをしめすこともできる。

 「草」という言葉は、この「w」を芝生の草のようなものに見立てているものであるが、おもに「真夏の夜の淫夢」を始めとしたゲイポルノを笑いものにするニコニコ動画で用いられ始めた言葉だった。「草不可避」「草を生やすな」(wを用いるな)「それはさすがに草」などのように使用する。

 「草」を始めとした「淫夢語録」は、ニコニコ動画やその界隈を飛び出して、それを知らぬ大勢の人たちにまで使用されるに至った。その結果が辞書への記載である。

 

 辻野あかりが登場したとき、警戒していたのは2つのことだった。ひとつは、アイドルがなんJを始め淫夢などのキャラ付けを伴って語られたり二次創作される風潮ができあがってしまうこと。もうひとつは、ゲーム内部で「淫夢語録」が使用されることである。一つ目の懸念を飛び越えて、たった1か月で二つ目のことが実現してしまった。

 デレぽでは過去に、これまた荒木比奈が「それはさすがに笑うっス」と投稿している。このとき、「さすがに草と書こうとしてやめたのではないか?」とTwitter上では言われていた。そのときからすでに「淫夢語録」の使用への警戒は始まっていたのだが、この場合は一応は言葉を書き換えている(と思われる)のであって、それを書き換えるというくらいには、デレぽの管理運営している人たちに一定の良識があるものだと私は思っていたのである。それは覆されてしまったのだろうか。

 

 実は外堀は埋まっていたのである。

 例えばラジオのデレパで青木瑠璃子が「ん? いま何でもって」と言ったり、何かのニコ生で原紗友里が「実家のような安心感」と言ったり、立花理香Twitterのフォロワー数が「114514」人になったとスクショを投稿したり、ニコ生で放送されているあみあみのラジオの運営コメントで「黒塗りの高級車」などの「淫夢語録」が使用されたり…… 過去にさまざまなところから「淫夢語録」は漏れ出ていたから、声優を始めとしてスタッフなど裏方では日常的に「淫夢語録」が使用されていることは想像に難くない。

 アイマスを離れても、杉田智和をはじめとした声優たちが淫夢語録を使用していたり、佃煮のりおなど有名な漫画家が「淫夢語録」を使用していたり、アニメ「ポプテピピック」で淫夢ネタが差し挟まれ「露骨な淫夢営業」として視聴者に歓迎されたりしている事実がある以上、常に警戒しないわけにはいかなかった。

 それでも、デレぽにて書き換えられた(と思われる)例があったために、ゲーム内部で使用されることはないんじゃないか、と思っていた。でもそれはただの私の希望的観測だったのだろうか。

 抗議として問題を「お問い合わせ」もしたが、伝わっていることを願うしかない。

 

 奇しくもこの日(2019年1月10日)は、2人目の新アイドルがモバゲーの方に登場した日であった。2人目の新アイドルである砂塚あきらは動画配信をしている子で、インターネットに慣れている。そのためか、新アイドルどうしという繋がりもあり、砂塚あきらと辻野あかりは並べて記述されることが多かったが、そのとき辻野あかりをなんJ民と記述しているものも少なくなかった。またさらに、次に来るであろう3人目の新アイドルは「淫夢厨」ではないかという声もあるのである。それだけはどうか避けてもらいたいと祈るよりほかない。

 

 

 

◇「淫夢語録」の使用はなぜダメなのか

 

 「淫夢語録」の使用がダメなのは、端的にそれが差別行為だからである。

 荒木比奈が「草」を用いて投稿した際に、「解釈違いだ」という声があったが、その理由は、「荒木比奈が公共の場でネットスラングを使うはずがない」というものだった。私が「淫夢語録」の使用を問題視するのは、このような理由ではない。その使用が差別行為だからだ。

 

 

・「淫夢語録」の使用がダメなのは、ネットスラングだからではない

 2ch以来、ネット上のスラングをネット以外の日常の場で使用するのは避けられるべきである、という傾向が見られることがある。これは、2chスラングを使用するということがオタクであるということを示すことであり、それは恥ずかしいことだからだ、という考えに基づいていると思われる。

 「淫夢語録」の使用がダメなのは、こうした理由ではない。その使用が差別行為だからである。日常であろうと、ネット上であろうと、その使用は避けられるべきである。

 

 

・「淫夢語録」の使用がダメなのは、それが同性愛に関係したスラングだからではない

 「淫夢語録」は同性愛に関係したスラングだから、公共の場で用いるのは不適切だ、と考えられているかもしれない。だがもしそう考えているのだとすれば、それ自体がまた同性愛への差別であると言える。同性愛に関係していることそれ自体が不適切であるはずはなく、その理由も何もない。「淫夢語録」の使用について、「汚い」(からその使用は不適切だ)という反応を見かけるが、これも同様である。

 「淫夢語録」の使用がダメなのは、それが同性愛に関係したスラングだからではないし、「汚い」からでもない。その使用が、差別行為だからである。

 

 

・「淫夢語録」の使用がダメなのは、それがポルノに関係したスラングだからではない

 確かに、セクシャルな言葉を公共で使用するには注意が必要である。セクハラになるかもしれないし、セクシャルなこと自体を脅威に感じる人もいる。そういう人を傷つけないために、セクシャルな言葉の使用には注意しなければならない。

 だが、私がここで「淫夢語録」の使用がダメだと考えているのは、このこととは独立である。「淫夢語録」の使用がダメなのは、まずはその使用が差別行為だからである。「淫夢語録」の使用が避けられるべきだという話は、セクシャルな言葉の使用の注意の話とは別に考えることのできる問題であり、両方同時に考える必要のある問題である。

 

 
・「淫夢語録」の使用がダメなのは、内輪ノリだからではない

 「淫夢語録」を多用する人達が「淫夢厨」と呼ばれることがある。こうした「淫夢厨」を嫌う人たちも存在する。「淫夢厨」が嫌われる理由の一つに、「淫夢厨は所かまわず語録を使用する」というものがある。つまりTPOをわきまえていない、内輪ノリをどこでも出してしまうやつだ、とみなされているのである。

 「淫夢語録」の使用がダメなのは、内輪ノリだからでも、TPOをわきまえていないからでもない。「淫夢語録」の使用にTPOなどない。その使用は差別行為だからである。差別行為に適切な場面などない。そもそも端的に差別をしてはならない。

 

 

 

◇「淫夢語録」の使用がなぜ差別になるのか

 

 「淫夢語録」の使用は差別に相当するので、それを使用してはならない、とここまで繰り返し述べてきたが、むしろ逆に「淫夢語録の使用は差別ではない」という反論があると思う。最後に、想定されるいくつかの反論に対してここで答えておきたい。

 

 

・「「淫夢語録」の使用はむしろ同性愛の理解に貢献している」

 「淫夢語録」の使用は差別であるどころか、むしろ同性愛を身近にしたのであり、また理解に貢献しているのだから、差別ではない、と言われることがある。それははたして本当だろうか。

 ここで考えなければならないポイントは2つある。(1)なぜ「淫夢語録」が面白がられるのか、(2)同性愛の理解への貢献の仕方はほかにもあるのではないか、の2つである。

 

 (1)なぜ「淫夢語録」が面白がられるのか。その理由として挙げられているものに、棒演技が面白い、演技が下手で何を言ってるのか分からなくて面白い、というものがある。「淫夢語録」の多くは、ゲイポルノの作品上のセリフを抜き出したものである。過去に例えば「仮面ライダー剣」の登場人物たちのセリフを笑いものにしたスラング(「オンドゥルルラギッタンディスカー!」)が流行ったことがあったし、諸外国語に吹き替えされた「るろうに剣心」のセリフを空耳にして笑いものにしたスラング(「フタエノキワミ、アッー!」)もあった。

 ちなみに「フタエノキワミ、アッー!」の「アッー!」の記述の仕方(「アーッ!」ではないところ)もまた、「淫夢」より古くから笑いものにされているゲイビデオ(「ガチムチパンツレスリング」と呼ばれる)を由来としている。

 過去にこのような例はたくさんあり、数え始めたらキリがないが、「淫夢語録」ほど長く笑いものにされ続けているわけではないし、「語録」というほどにスラングとなってしまうほどに、人口に膾炙したものは、「淫夢語録」を除いてほかに例がない。

 他に笑いものにされた過去の例と、「淫夢」との間で何が違っていたのかといえば、やはり「淫夢」がゲイポルノだったということである。ゲイポルノでなくても、たとえば男女がセックスするポルノでも、棒演技や何を言ってるのか分からないものがあるはずだと思うが、それらが笑いものにされるのではなく、なぜかゲイポルノなのである。

 「淫夢語録」が面白がられる背景には、ゲイポルノをとりわけ笑いものにするような、同性愛への蔑視があることが分かる。

 

 (2)では、このような背景を持つ「淫夢語録」の使用が、果たして同性愛の理解に貢献しているのだろうか。

 「淫夢語録」の背景には同性愛への蔑視がある。蔑視を背後に隠した行為が、果たして理解への貢献などと言えるのだろうか。

 あるいは、差別心を持たずに使用している人も中にはいるかもしれないが、「淫夢語録」はポルノ(を笑いものにすること)に由来した言葉である。ポルノ(を笑いものにすること)に由来した言葉が、実際に生活している同性愛者の理解に繋がるだろうか。

 ポルノは、(a)セックスを行う、(b)視聴者の性的満足を促す映像作品である。まず、現実に生活している同性愛者を、セックスに関係する点のみによって理解することができるだろうか。同性愛者は、異性愛者と同じように日常生活を送っている人たちである。同性愛のセックスをとりわけ注目して取り出すということは、同性愛者が異性愛者と同様に生活しているという点を見落とすことになるし、むしろいかに異性愛者と異なるかということばかりをあげつらうようなものであって、理解からほど遠いと言わないわけにいかない。

 またさらに、同性愛者が、異性愛者と同様に生活しつつも、社会の中で差別に直面しているということに目を向けることを抜きにしては、同性愛者の理解に貢献するとは言えない。「淫夢語録」の使用そのものが差別を背景にしている以上、その使用が理解に貢献していると言うことはできない。

 また、ポルノは視聴者の性的満足を促す映像作品であるのだから、そこで描かれていることは満足を促すための一種の幻想であって、現実そのもののトレースではない。もし同性愛者の現実の生活を理解したいのであれば、そうしたポルノ以外に、映画や小説やドキュメンタリーなどが、いくらでもあるはずである。

 同性愛者の実際の生活を理解するためにわれわれが利用することができるものは、「淫夢」を始めとしたゲイポルノ以外にもたくさんある。それでもなぜか「淫夢」を始めとしたゲイポルノばかりが俎上に上げられている現実がある。それではたして同性愛の理解に貢献していると言えるのだろうか。まして「淫夢語録」の使用などが。

 

 「ホモソーシャル」という言葉がある。セジウィックが男性同士の共同体の特徴を示すために用いた言葉であるが、ホモソーシャルには2つの要件がある。ひとつはミソジニー女性嫌悪女性差別)であり、もうひとつはホモフォビア(同性愛嫌悪、同性愛差別)である。「淫夢語録」が符丁として人口に膾炙するとき、その背景には明らかにこうしたホモソーシャルがあるだろう。「淫夢語録」を面白がって利用することで、互いに「自分は同性愛者ではありませんよ」と陰に陽に示しあっているのである。果たしてここに同性愛への理解などあるのだろうか。

 同性愛の理解に貢献したいというのなら、「淫夢」などのゲイポルノを笑いものにしたり「淫夢語録」を面白がったりする前に、現実の同性愛者の実情について勉強したり、同性愛者の権利獲得(例えば同性婚の合法化など)に向けて具体的に行動するべきだろう。なぜそうしないのだろうか。

 

 

・「「草」などのように「淫夢語録」であっても由来を知られていない言葉は問題ない」

 

 「淫夢語録」の使用は同性愛差別である、という指摘に対する反論としてもう一つ想定されるものは、次のようなものだ。「淫夢語録といっても「草」みたいに多くの人に使用されて辞書にまで載った言葉もあるのだから、その使用全てが差別に相当するわけではない」「あまりにみんな使用しているのだから淫夢語録が由来だと知らない人も多いはずだし、そうした使用は差別ではない」「ネットスラングとして普及したいま、差別の意味はもはやない」

 

 これらの反論は2つの点に集約できる。(1)もはや「淫夢語録」の由来を失った言葉もあるのではないか、(2)「淫夢語録」だと知らずに使用しているならば(むしろその方が多いではないか)差別ではないのではないか、の2つである。

 たしかに、「草」や「~ゾ」「(小並感)」などは、テレビなどでネットスラングとして取り上げられたり、高校生など子どもでも使用されたりしていることは、以前から知られていた。その多くの人たちは、これらの言葉が「淫夢語録」であることを知らないだろう。由来が失われていると言えるかもしれない。「淫夢語録」を符丁として意図的に使用する人たちの間では、「知らないくせに使用するな」というようなことが言われたりしていた。

 

 (1)では、由来から切れていれば、その使用は問題ないのだろうか。だが前提に反して、言葉はその由来から簡単に切り離せるものなのだろうか、という疑問が思い浮かぶ。たしかに由来が不明な言葉や名前はいくらでもあるのだが、2000年以上の前の中国やギリシアなどの言葉がその当時の由来とともにいまだに残っていることを考えれば、由来はどこまでも残り続けることもある。

 辞書に載っているということは由来から切れたということを意味するわけではないし、使用の正当性を保証するものでもない。辞書に載っている差別的な言葉はいくらでもあるし、差別的な言葉だと記述されていないものも多くある。

 それに、「淫夢語録」が用いられ始めたのはほんの数年前からであり、インターネットで検索すればすぐにその「元ネタ」が判明する。そのような状態で、「草」を始めとした言葉たちが由来から切り離されたとはとうてい言えるはずがない。

 

 (2)また、由来を知らずに、差別的意図を持たずに、それを使用しているのだとすればそれは差別ではないと言えるのだろうか。その問いにはノーと答えなければならない。差別の問題はその意図の有無ではないし、そもそも言葉というものは発話者の意図を越えて作用するものである。

 差別は意図の問題ではない。私たちは意図せずして差別をしてしまうことがある。それは言葉(の意味)というものが発話者の意図のみによって決定されるわけではないからだ。

 例えば小さな子どもがその意味をよく知らずに人に向かって「めくら」とか「つんぼ」とか「土人」と言ったとしよう。そのとき大人は、まず間違いなく「そういう言葉を人に向かって使ってはいけない」と教えるだろう。こうした言葉は差別的な言葉であり、人を傷つけるからである。子どもはその意味を正確には知らなかったのだから、そこに差別の意図はないだろう。でも大人は子どもにそうした言葉を使用しないように教えるのである。これは言葉狩りなどではなく、人に暴力をふるってはいけないと教えることと同次元のことである。

 「淫夢語録」もまた同様に、その由来や差別的背景を知らないとしても、その使用は差別になってしまう。だからそれと知らないのだとしても、その使用は避けられるべきである。

 

 

 

◇おわりに

 「淫夢語録」はおそろしいまでにインターネット上にはびこっており、それを見かけない日はもはやないと言える。意図的に使用されているだけでなく、それと知らずに使用される場面を目撃することも多くなっているし、フェミニズムクィア理論についての記事やツイートの中で使用されているのを目撃したこともある。そのくらいインターネット上では広まってしまった。

 いまインターネット上で使用されているスラングのほとんどは「淫夢語録」(あるいはなんJ)に由来していると見てまず間違いない。だからネットスラングを見かけたときや、自分で使用する際には注意が必要である。「淫夢語録」とGoogle検索してみたり、気になるスラングを「元ネタ」という言葉とともに検索してみたりすることで、何が「淫夢語録」であるのかを知ることができ、意図せぬ使用を避けることができる。ニコニコ百科に語録の一覧(これでも「語録」の全てではない)のページがあるのでリンクを貼っておく。

https://dic.nicovideo.jp/a/%E6%B7%AB%E5%A4%A2%E8%AA%9E%E9%8C%B2%28coat%29

このページ自体は「淫夢語録」に親和的なものであるが、こういうページ以外に語録について知る方法がいまのところほとんどまったく存在しない。

 「淫夢語録」の使用は差別行為である、とここで繰り返し書いてきたが、私は差別の問題について専門であるわけではないので、そのことに詳しいどなたかに、より正確にこの問題について書いてほしいと思っている。

 

 私たちは完璧ではない。完璧な存在ではないのだから、あらゆる差別をしないで生きていくということは難しい。だから私たちは誰でも、意図せずに差別をしてしまうことがある。私自身も例外ではない。そのとき、誰かほかの人から「それ差別だよ(だからそれをしないで)」と言われるかもしれない。差別が指摘されたとき、私たちがするべきなのは、「いや差別じゃないよ」と反論するのではなく、「いや必要なことなんだ」と正当化することでもない。「差別だ」ということを受け止め、立ち止まり、自分の言動を反省することだ。そうやって、私たちの行動から差別を一つ一つなくしていこう。差別をやめていこう。

消えてしまったものと再会する奇跡――「君の名は。」感想文と少しの考察

 

「【感想文】「君の名は。」について」/「響き」の小説 [pixiv]より転記。

 

◆はじめに

 

 ※本感想文は、2016年8月26日に公開された新海誠監督作品「君の名は。」のネタバレを含みます。まだご覧になっていない方はご注意ください。

 

 

 2016年8月26日に公開された、新海誠監督の最新作「君の名は。」を見ました。最高でした。映画でこれほどの感動を覚えたのは、いつ以来でしょうか。この「君の名は。」という作品は、私にとって大事な作品の一つになりました。

 この映画は私にとって、何か希望めいたもの、救済めいたもの、福音めいたものであるように思います。これを見る前と、これを見たあとでは、まるで私自身が別人になったかのようです。あるいは違う世界に生きているかのような、別の人生を歩いているかのような、そんな風に思えます。大げさに聞こえるかもしれませんが、いまそう思っています。今後、これに匹敵する感動を覚える作品に会うことができるか、それもまた楽しみであります。

 

 

 

◆感動の三つの層

 私が抱いた「君の名は。」の感動は、三つの層に分けることができると思われます。第一の層は、この作品自体に由来する感動です。「君の名は。」は、新海監督の作品を見たことがない人でも、おそらく小学生でも、面白いと思うことができる映画だと私は考えます。作品自体が良質なエンターテイメントとして完成されています。

 第二の層は、新海監督の作品の集大成としての完成度に由来する感動です。「君の名は。」には、新海監督の過去の映画作品に登場したモチーフや、通底するテーマが反復して登場します。そしてそれらは、「君の名は。」の物語自体に有機的に組み込まれながら、過去作に対する解答であったり、過去作を乗り越えるように描かれているのです。

 そして第三の層は、私個人に由来する感動です。簡単に述べると、それは、夢が消えてしまうということへの郷愁と、それが何であるかは分からないけれど自分は何かを失っていてずっとそれを追い求めているという感覚との二つに分けることができます。映画冒頭の瀧のモノローグで語られていた部分(映画パンフレットの冒頭に書かれている文がそれに相当すると記憶しています)です。これらは私にとって、幼少期から切実なものでした。

 ですが、その切実さを人に伝えることができるのか、人と共有することができるのか、私には分かりません。映画は、三葉と瀧それぞれの名を、それぞれの存在を忘れてしまうことの郷愁と、相手を探すことの、切実さとしてうまく演出されていました。私にとっては、「君の名は。」を見るずっと前から、この切実さは親密なものでした。魂の深部にあるようにさえ思言われます。この切実さそのものが、他の人に理解される類のものなのか、自信がないのです。でもこの第三の層に由来する感動をこそ、ここで言葉にする必要があるように、私には思われるのです。

 この感想文では、まず全体の雑感を述べてから、主に第二の層と第三の層に由来する感動を述べてゆくことにするつもりです。

 

 

 

◆雑感

 

◇全体の所感(箇条書き)

・背景美術は相変わらずの美しさ。新海さんの描く東京はいつも新宿近辺で、どうして新宿なんでしょうね。私は新宿が好きなので新宿が描かれるのは嬉しいです。

田中将賀さんのキャラデザが良いです。田中さんだと知らずに映画を見始めた頃、何となく「心が叫びたがっているんだ」を思い出していたら(坊主のてっしーのせいかも)田中将賀さんで驚きました。田中さんのキャラデザは、人物がとても魅力的で好きだったので、これも嬉しかったところですね。

・キャラデザも良いですし、表情の変化に豊かさがありました。かつて新海監督の登場人物はわりと記号的であまり表情がコロコロ変わるという風ではなかったように思うのですが、瀧と三葉は表情豊かでとても魅力的です。(男女の入れ替わりの表現のため?)

・モノローグが少なく、出来事と会話で物語が展開していきます。展開にドライヴ感がありました。

・神木くんの演技は大変素晴らしかったです。

・三葉の声が明里の声に似ています。監督の好みの声なのかもしれませんね。

・あと新海監督、おそらく井上和彦さんも好きですよね。(「雲の向こう」「星を追う子ども」)

・ユキちゃん先生!

・口噛み酒!

・口噛み酒!!

・入れ替わったポニーテールの三葉に惚れます。美術の授業中にキレたところが良かったです。

・音楽も悪くないです。天門さんじゃないということでけっこう残念に思っていたし、どうしてRADWIMPSなんだろうと思っていましたけど、映画を見ていて全く気になることはありませんでした。

 

 

◇事前に考えていたこと、印象、噂

・「君の名は。」を見る直前の新海監督作品への印象

 「雲の向こう、約束の場所」を高校3年生のころに見て以来新海誠監督作品の(おそらくわりと熱心な)ファンです。「雲の向こう」と「秒速」からは多大な影響を受けました。

 「秒速5センチメートル」に熱中した時期を越えてからは、少し気持ちが離れていました。公開作は全て見ていますが、「君の名は。」公開前には、けっこう熱は冷めていたと思います。「秒速」を見返すのが少し気恥ずかしいという感情さえ抱くようになっていました。

 

・事前の印象

 「君の名は。」公開前の予告はほとんど見ていません。事前に仕入れた情報は、夢の中で入れ替わって、互いに相手が誰かを知ろうとするということ。非常に新海監督らしいな、と思ったのを覚えています。

 一方、公開直前に、山手線内の広告が「君の名は。」一色になった車両があり、それで初めてキャラクターを見て思ったのは、新海監督らしくなくキャラクターがいまどきのアニメっぽくてかわいいなと。

 

・聞いていた噂

 RADWIMPSが音楽を担当したというのもあるのか、広告を大きくうっているからなのか、劇場には10代が多いという噂を耳にしていました。「10代の若者たちの中に、昔からのファンのオタクがいるよ」とか、「オタクたちの長文ツイートが読めるよ」とか、「新海ファンの男って地雷だよね」とか。

 前述のとおり、気持ちが少し離れていたので、噂話を語る人たちが何を言わんとしていることは何となく分かっていたものの、どこか悔しさを感じていました。とはいえそれは私が地雷ではないということを意味しません(事実私自身はその地雷の一例だと思う)。

 

 

 

◆感動の第二の層――新海監督の集大成

 

◇過去作から反復する諸要素

 「君の名は。」は新海監督のこれまでの映画の集大成であると言えます。今までの作品に散りばめられていた要素が凝縮し、通底しているテーマが物語の根幹に据えられています。そして今までの作品を、今作は乗り越えていると思われます。

 こちら側から隔絶された向こう側の遠くの場所が登場します。新海監督作品に古くからあるモチーフです。「ほしのこえ」で何光年も離れ宇宙であり、時間の差です。「雲の向こう」では国境の向こうに聳える塔であり、サユリの夢の中です。「秒速」ではまず栃木の岩舟であり、電車が遅延することでその遠さが強調されています。「星を追う子ども」ではアガルタという異世界であり、さらに死者の行く先です。「言の葉の庭」では、15歳の少年の世界(学校)と27歳の大人の世界です。

 「君の名は。」では、これらの要素の多くが反復するように登場し、物語の中に組み込まれています。瀧と三葉は住む場所が東京と糸守(飛騨)と、遠く離れています。住む文化圏もかなり異なります。二人の間には実は3年という時間の差があります。二人は入れ替わって、特殊な交流の仕方をしますが、目覚めるとその記憶をなくしてしまいます。三葉は隕石によって一度死んでしまいます。死んだ三葉たちをもう一度生きさせるために、瀧は幽世とされる場所に足を踏み入れます。これらは、物語に有機的に組み込まれつつ、新海監督の作品に馴染んだ人であれば、親しみを感じるはずだと思われます。

 

 

◇向こう側から連れ戻す

 新海監督の作品では、主人公の相手役の多くは、向こう側の遠くへと消えてしまいます。「ほしのこえ」では何光年もの彼方(電子メールはノイズだらけで読めない)、「雲の向こう」では夢の世界、「秒速」では手紙のやり取りが消え、「星を追う子ども」でシュンは死んでしまう。主人公は向うの世界から彼らを連れ戻そうとしますが(「秒速」は例外かも)、ほとんど成功しません。「雲の向こう」ではサユリは夢の中の記憶を失ってしまうし、「星を追う子ども」では死者の蘇生に失敗する(モリサキ)。

 「君の名は。」を見た後で「言の葉の庭」を見ると、「星を追う子ども」以前ではこちら側に引き戻すことに失敗していたのが少し前進している、というように見えるようになりました。「君の名は。」を見た後のカタルシスを覚えている状態で、「秒速」や「星を追う子ども」を見ようと思うと、少し気持ちが重たく感じられたのですが、「言の葉の庭」はそうは感じられません。

 「君の名は。」もこれら通底するテーマを反復します。向こう側/こちら側という新海監督お得意の世界観を舞台に、三葉が向こう側に落ちてしまい(隕石落下による死)、それをこちら側へ救い出そうとします。「君の名は。」がまず素晴らしいのは、このテーマをエンターテイメント性のある物語へと昇華することに成功している点です(感動の第一の層)。

 さらに加えて、三葉のこちら側への救出に成功しています。この成功は、新海監督作品の系列の中で見ても大きな前進(まるで「秒速」のときに肯定できなかったことを肯定できるようになったかのような)であり、物語のカタルシスの大きさに寄与していると思われます。

 

◇東京で三葉が瀧を見つける場面

 向こう側に落ちた人物の救出に成功する、という前進に加えて、さらに興味深い場面があります。前進というか、まるで新海監督の今までの作品の思いに答えるかのようです。それは東京で三葉が瀧を見つける場面です。

 三年前、三葉は瀧に会いに東京に来ていました。一日中東京を歩き回って、最後代々木駅(おそらく)のホームで、電車に乗った瀧の姿を見つけます。このシーンは、新海監督の作品に反復して現れていたシーンの新たな反復であり、それへの答えでもあると思われます。

 まずは「雲の向こう」のパイロットムービーです。電車に乗ったヒロキが、駅のホームに立つサユリの姿を見つけます。見つけますが、電車は駅を通過して行ってしまいます。このシーンは、本編では採用されていません。

 続いて「秒速」のシーンです。第三話最後のMV部分にそれはあります。電車に乗った貴樹が、通過する駅のホームに、ある女性が立っている影を見つけるというシーンです。こちらも電車は駅を通過して行ってしまいます。(ところで、この女性は映画の物語上、明里であるかどうかは明言されていません。おそらくその女性は、明里であると断定しない方がよいと思われます。)

 以上の二シーンは、どちらも電車の中から駅のホームに立つ女性を見つけるというシーンです。しかも「秒速」の方は駅にいる女性はこちらに気づいていないように見えます。(「雲の向こう」のパイロット版では、サユリは電車の中のヒロキに気づいているように見えます。ヒロキがホームにいるサユリに気づいたとき、「ねえ気づいて」というサユリのセリフが重なっていて、次のカットでは草原に立つサユリがこちらを向いています。)

 以上の二場面に対して、「君の名は。」では立場が逆転しています。ホームにいる三葉の方が、電車の中にいる瀧を見つけ出すのです。ヒロキも貴樹も、駅のホームに立つ女性を見つけていながら、会うことはできませんでした。三葉は、駅に停車した電車に飛び乗り、瀧に声をかけるのです。この場面を見たとき、私は心の中で「やっと見つけてくれたんだ!」と感動の声を上げて、声を殺して涙していました。

 そしてこの場面について、指摘したい点がもう一つあります。電車の中にいる瀧は、自分が探されているということを知らないのです。「秒速」では、駅の女性はこちらに気づいていませんでしたので、立場が逆転した瀧が知らないのも当然かもしれません。ですが、瀧はこの後、三葉を知るようになります。瀧がまだ三葉を知らないときに、実は瀧は三葉に会っていた。そしてそのときに瀧は組紐を譲り受けています。

 ここから先は、私の考えすぎかもしれません。私は「君の名は。」のこの場面を、この世に生まれてくることの隠喩だと思いました。生まれてくるとき、親は子を一方的に認識していますが、子はそれを知りません。出生の暗示、とは考えすぎにも思えますが、三葉が東京に行くのは隕石落下の前日です。しかもこの場面が挿入されるのは、すでに隕石落下によって三葉を含む糸守の人たちが犠牲になったことを知った後でした。この電車での組紐の伝達の前後に、生死があります。

 口噛み酒を飲んで頭を打ってから、瀧は三葉の出生からの走馬灯を見ます。そして最後の入れ替わりが生じる。ここで糸守のひとたちを、三葉を救うために入れ替わった瀧は奮闘します。もう一度生きさせるために。もう一度生まれ直すために。

 三葉が電車の中で瀧を見つけた場面、そして瀧と三葉が奮闘し、結果それが実って後から糸守の人たちが救われたことが判明したこと。これらを見ることができただけで、私の中では大満足でした。

 

◇エンディング

 ですが、「君の名は。」はそれでは終わりません。ラストに最大のクライマックスがあります。瀧と三葉の入れ替わりによって世界が書き換わり、それらの記憶も遠くなった頃、二人はまた代々木駅(おそらく)で、電車に乗った互いの姿を見つけ、ハッとします。二人は電車を降りて互いを探しに走ります。

 クライマックス、印象的な階段で、二人はとうとう互いを見つけます。二人とも何かを言いたげだけれども、二人は無言ですれ違います。

 この場面は新海監督作品のファンなら誰もが気づくように、「秒速」のラストの反復です。「君の名は。」を見ていた私は、無言ですれ違ったとき、「三葉の命も助かったわけだし、二人とも記憶を失っているみたいだし、無言ですれ違っても、ここでこうして会えたというだけで満足だ」と思っていました。

 が、瀧が三葉に声をかけたのです。「どこかで会ったことがある」。三葉が「私も」と答える。「君の名は――」これで閉幕です。私はこの最後のやりとりにむせび泣きました。繰り返しますが、隕石衝突の被害を回避することができたというところが、物語の一つのクライマックスだったので、「秒速」を反復するならここで声をかけなくても十分に満足だったんです。

 でも今作はそれを越えてくれた。記憶を失っても、三葉も探していてくれていた。瀧が声をかけてくれた。三葉がそれに答えた。この最大のクライマックスが、私にとっては希望のようなものであり、福音のようであり、救済のように思えたのです。

 探しものが何であるのかも分からずに探していて、でもその探しているものもこちらを探してくれていて、それを見つけることができて、しかも出会うことができた。新海監督の過去作の主人公たちだけでなく、この私の今までのあらゆることが報われたかのようなきがして、そしてこれからのあらゆるものが輝くような、そんな風な気持ちになることができたのです。

 このクライマックスの場面の感動に、第三の層の感動が凝縮されています。

 

 

 

◆感動の第三の層――消えてしまったものと再会する奇跡

 

◇夢が消えてしまうということの郷愁

 夢は、それを見ているときはまさに現実にほかならないのに、いったん目が覚めると急速に背後に退いて行って、その現実味を失ってしまいます。そしてしばらく経てばその内容は記憶から失われてしまいます。この消えてしまう(消えてしまった)夢に対して、何か強い郷愁のようなもの、あるいは夢が消えてしまう(消えてしまった)ことへの焦りのようなものを感じたことがあるでしょうか。

 物心ついたころから、私にはこの郷愁と言うか焦りのようなものがありました。朝、夢から目を覚まして、布団の中にいる自分の身体感覚や、視界に映るものや、思考が再びはっきりとしだすにつれて、ついさっきまで現実としてありありとあったものたちが急速に消えていくのを、私は不思議だとも思い、寂しくも思っていました。ついさっきまで、確かに現実だったのに。このついさっきという時間と、目覚めた後の今の時間との間の、不可逆で絶対的な隔絶に、私はどうしようもない無力感や寂しさや郷愁のようなものを感じるのです。

 そして目が覚めた後は、夢の内容を忘れてしまう。確かに夢を見ていた。夢の中でいろいろなものを見、いろいろなものと会い、いろいろなことを体験した。そうであるはずなのに、それらは忘れられてしまう。忘れられてしまえば、それらは始めからなかったことになる。ついさっきまで、確かに体験していたことなのに、覚醒という絶対的な隔絶の後では、それらはなかったことになってしまう。ひどいときには、夢を見たということさえ忘れてしまう。

 確かにそこに存在したのに、覚醒の後ではまるで最初からなかったことになってしまう。ここに不可逆さ、絶対的な隔絶を感じ、手を伸ばしてももう届かないという無力感、でも手を伸ばして思い出したいという郷愁のようなものを抱くのです。夢を忘れてしまう、ということの郷愁の切実さはこういうものです。

 このように書いて、分かってもらえたでしょうか。映画パンフレットの冒頭には、「見ていたはずの夢は、思い出せない。ただ、なにかが消えてしまったという感覚だけが、目覚めてからも長く残る」と書かれています。これは映画冒頭の瀧のモノローグの言葉であったと記憶しています。私はこの言葉を、まさに私自身の言葉として聞いたのです。

 

 

◇探しものをしている

・夢の中に置き忘れてしまったもの

 探しものの一つは、夢の中に置き忘れたものです。夢の中で何かを見、何かに出会い、何かの体験をすると、もちろん心を動かされます。ですが、夢から目を覚ましてしまえば、夢の中で何を見たのか、何と出会ったのか、何を体験したのかは急速に消えてしまいます。

 ですが、夢の中のそれらによって動かされた気持ちだけが、夢から覚めても残ることがあります。その例として、一つは恐怖。怖い夢を見たときの怖さは、目が覚めた後にも持続することがあります。内容は覚えていないが、怖い夢を見たことだけは覚えている、というような。

 あるいは、恋です。夢の中で恋をするということがあります。片思いをしている相手が夢の中に出てくることがあります。これは私の個人的な特性なのかは分かりませんが、片想いをしている相手は、顔が思い出せなくなります。顔が思い出せないのに、夢の中にその相手が出てくるのです。夢の中で、その好きな人だと分かるのは不思議です。そして夢から醒めると、その相手の顔は消えてしまい、夢の中でどんなやり取りをしたかもほとんど忘れてしまいます。

 さらに、恐怖や恋のように明言できる感情ではないが、何か必死な思いのようなものだけを残して夢から覚めることがあります。そしてそのとき夢の内容を忘れてしまうと、夢の中でなぜか必死だった、という記憶だけが残ります。そういうとき、自分はどうしてあんなにも夢の中で必死だったんだろう、と一日中気にかかります。それで夢の内容を思い出したいと考えても、思い出すことはできません。なぜそんなに必死だったのか、それは夢の中に置き忘れてきてしまったのです。

 まるで自分自身の一部を夢の中に置き忘れてきたような、そういう気持ちに浸されるのです。この気持ちを分かってもらえるでしょうか。

 

・入れ替わりについて――夢世界と、死あるいは生まれてくる前

 私は、物心ついたころから、自分がこの性別に生まれてきたということを悲しんでいました。もう一つの性別に生まれたかった、と幼少期から考えていました。そうは言っても私は性同一性障害ではありません。小学校低学年くらいの頃、初めて性同一性障害のことを知ったときのことを覚えています。ひょっとして私はそれなんじゃないか、と一瞬思いましたが、いや違うとすぐに結論づけることができました。

 もう一つの性別に「なりたい」と思うのではなく、「始めからそう生まれてきたかった」と思ったからであり、私が恋する相手は異性(ヘテロセクシュアル異性愛)だと思ったからです。ヘテロであることと性同一性障害ではないことは、必ずしも一致しませんが、子ども心に私は自分の身体の性と性自認は一致すると結論づけました。以来、今のところ私はシスジェンダー(生まれてきたときに診断された身体的性別と性自認が一致している)かつヘテロセクシュアルです。

 とはいえ、別の性別に生まれたかったという願いが消えたわけではありません。私は自分の鏡に映る自己像が嫌いです。それを見たくないのです。私はいつも自分の理想の自己像を探している。私が持つことができなかったものを持っている人を探している。ロマンチックに言えば、私の半身のようなものを探しているのです。

 そう願う者にとって、他者の身体と入れ替わるというのは夢のような出来事です。「ドラえもん」の入れ替わりロープを、何度願ったことでしょうか。

 そういう私には、恋愛をするときに悪い癖があります。恋する異性に、自分が生まれてきたかった理想を見出してしまうのです。私がそうであるような特性を持つ人が、皆こういう恋愛をするとはかぎりません。少なくとも私がそうだ、ということです。

 恋をする相手に自分の理想(像)を見てしまう、ということは、相手を単なる像とみなしていることです。しかもその像は、私の自己像です。つまり、ここには人間が二人いるのではなく、人間が一人しかいないことになります。恋する相手を理想の自己像として愛するのですから、それは正確な意味でのナルシシズム(自己愛)にほかなりません。

 ナルシシズムそのものは悪いことではないと思われます。自己愛のない人はほとんどいないでしょうから。ですが、恋愛場面において、その相手を理想の自己像として扱ってしまうとすれば、それは二人の人間の関係としてはかなり問題であると思われます。相手を一人の独立した人間として扱っていないということを意味するのですから。

 「君の名は。」では、瀧と三葉は互いに入れ替わり、日記を通して交流します。日記における交流では、二人は他者どうしですが、相手の姿は入れ替わった先で自分の姿として認識されます。瀧と三葉が互いに恋をするとすれば、そのときその恋の相手は、半分は自分自身だと言うことができると思われます。最後の入れ替わりのきっかけとなったのは、三葉の半分である口噛み酒を飲んだからでした。ゆえに瀧と三葉の二人は、二人であり、一人でもあるような関係であると言えます。

 夢の中というのは、生まれてくる前に似ているとは言えないでしょうか。夢の中では、起きていることは全て現実ですが、目を覚ましてからは「夢」という枠組みを与えられることになります。目が覚めた後で振り返る夢の内部の現実味というのは、まだ夢とか現実とかそういった区別がなかった状態の現実味だった、と言えます。

 生まれてくる前は、まだ性別が決まっていません。もちろん出生前に性別を調べることはできます。が、問題は自認です。生まれてくる前(物心つく前)には、自分が男であるか女であるかはまだ分かっていません。自分の中でまだ区別がなかったはずです。

 夢の中で男女が互いに入れ替わる、という物語は、この両者の類比を強調してくれるように思えます。ですから、世界を書き換えて死を回避する(もう一度生まれ直させる)ためには、幽世(あの世)へ行き、もう一度入れ替わりを実現する必要があったのです。

 三葉の死を回避するということは、夢世界=幽世=未分化の世界から三葉を連れ戻すということだと考えられます。夢の中に置き忘れたものを、夢世界に取りに行くのです。

 

 

◇奇跡――エンディングについてもう一度

 三葉を死=夢世界から連れ戻すことに成功するのは物語終盤の重要な山場ですが、最大のクライマックスはその後の最後の場面にあります。三葉の救出に比べれば、ずっとささやかな出来事ですが、感動の第二層的だけでなく、第三層的にも最重要の意味を持つのはこの最後の場面です。私にとってクライマックスの感動の最大の理由は、第三層にあると思います。

 三葉の救出のために世界を書き換えた後、瀧と三葉は入れ替わりに関する記憶を失ってしまいます。瀧と三葉の経験した入れ替わりと、世界の書き換えは、消えてしまいました。まさに夢のように忘れられてしまったのです。完全に忘れられてしまったとすれば、瀧にとって三葉は、三葉にとって瀧は、全く初めから存在しなかったことになります。

 が、瀧も三葉も、何か探している人物がいるような感覚だけは残していました。映画のラスト、代々木駅で互いの姿を認めたとき、二人はお互いに出会おうと奔走します。最後の印象的な階段の場面で、二人はやっと再会します。が、声をかけることができません。

 「秒速」の反復であるこの場面において、互いに声をかけずに閉幕ということもありえたはずです。「秒速」では踏切が開くのを待っていたのは貴樹だけでしたし、「君の名は。」では世界の書き換えという山場を越えているので、物語としては十分でした。

 ですが、「君の名は。」は違ったのです。瀧が声をかける。そして三葉が「私も」と答える。これが私にとっては、とてつもなく、感動的なのです。

 瀧も三葉も、互いのことをすっかり忘れています。夢のように消えてしまっています。が、二人とも互いをそうとは知らず探していた。出会うことができた。瀧からすれば、それは夢の中に置き忘れた人物が、こちらを探してくれていた、そして見つけてくれた、ということを意味します。

 三葉の死を回避したときは、瀧が覚えていて、瀧の方が夢の中に手を伸ばしました。ラストの階段の場面は、二人が二人とも夢の中に手を伸ばしたのです。あるいは瀧か三葉それぞれの視点に立つならば、夢の中に置き忘れた人物が、夢の中からこちらに手を伸ばして、こちらの世界に出てきてくれたのです。これほどの奇跡があるでしょうか。

 「クロノクロス」というRPGがあります。私が最も愛するゲームですが、このゲームの物語もまた、世界の書き換えを行います。世界の書き換えに成功して迎えるエンディングでは、主人公は記憶を残したまま、物語の始まりの地へ帰ります。そばにいる幼なじみに、書き換える前の世界の出来事を話しますが、全く理解しません。世界を書き換えて、主人公が経験した物語は、夢のように消え去ってしまったのです。ただ主人公は記憶を残して。

 このエンディングでさらに印象的なのは、本作のヒロインが、書き換えた後の世界で何かを探している様子が描かれていることです。「でも、いつかきっとまた会える、あなたと、わたしは。別の場所、別の時間で。互いにそうと気づくことはないかも知れないけれど」「会いに行くからさ/世界中さがしても/いつかきっと/きっと」という言葉が添えられています。エンディングテーマも「さがしつづけてきたよ/名前さえ知らないけれど」と歌っています。ヒロインは、書き換えた後の世界で、主人公を探しているのです。

 「クロノクロス」のエンディングでは、書き換わった後の世界で主人公とヒロインが出会うところは描かれません。ヒロインが主人公を探している描写があるのみです。「君の名は。」では、なんと二人は出会うことができた! 消えてしまった夢世界から飛び出して、互いに出会うことができた! 入れ替わっていたことの記憶はもうないかもしれないけれど、運命的な二人が再会することができた! これほどの奇跡、これほど感動的なことがあるでしょうか。

 確かに一度存在したのにその後に初めから存在しなかったかのように消えてしまったものと、夢の中に置き忘れたものと、自分にとっての半身と、再会することができたのです。こういう出会いが、フィクションにおいてであるとはいえ可能なのだということを、私は初めて実感することができました。

 私自身にとって、夢の中に置き忘れてしまったものが、私にとっての半身が、私を探しているのかもしれない。そういう存在が、この世のどこかで息をしているのかもしれない。そう考えたとき、私は私が息をするこの世界が、違った風に見えてきたのです。夢の世界に置き忘れたものはもう消えてしまって二度と会うことはない、そう思っていたけれど、ひょっとしたら、もう一度会うことができるかもしれない。しかも私を探してくれているのかもしれない。「君の名は。」を見終えて、世界や、私の人生が違った風に感じられるのです。

 

 

 

◆おわりに

 私の感想文は以上です。もしここまで読んでくださった方がいたとすれば、その方には感謝の言葉を申しあげさせてください。感想文の面を被った自分語りのようなものになってしまいましたから、読むのがさぞ大変だったのではないかと思います。

 ですがこれを語らないわけにはいかなかった。私にとって極めて重要な意味を持つ出来事ですから、それを言葉にしておきたかったんです。言葉にしなければ、私の感動は何か私秘的なものだというだけで終わってしまう気がして。

 一方で言葉にしてみれば私の感動何て陳腐なものでしかないことが判明するかもしれないというのもまた恐怖でした。うまく語れる気がしませんでしたから。今でもうまく言葉にできたか自信がありません。

 とはいえ、私秘的なものとして守るよりは、たとえ陳腐なものだったとしても言葉にしておきたかった。私の感動がどういうものだったのか、私も知りたかった。そしてそれを誰かに読んでほしかった。それらに成功したかどうかは分かりません。ですが、ここまで読んでくださって、私は感謝しています。

 「クロノクロス」は、長らく私にとって最も親密な物語でした。これからそこに「君の名は。」が加わります。「君の名は。」という作品が生まれてくれたことは、私にとってはこの上ない幸福です。

 

(2016年9月3日)

目覚めにおける夢と現実の落差

「哲学についてのあれこれ9――目覚めにおける夢と現実の落差」/「響き」の小説 [pixiv]より転記。

 

◆「CHRONO CROSS」からの夢のイメージ

 私の好きなテレビゲームに、スクウェア製作(1999年)の「CHRONO CROSS」というRPGゲームがある。

 このゲームの物語は、パラレル・ワールドを主題としている。物語の冒頭で主人公セルジュはもうひとつの世界へと導かれるのだが、その世界はセルジュが10年前に死んでしまっていたという世界だった。二つの世界を行き来しながら、セルジュはさまざまな人物や出来事と遭遇し、世界を二つに分かつこととなった10年前の真実を知る。そして物語が終幕を迎え、セルジュは初めてパラレル・ワールドへ行ってしまった時点へと帰ってゆくのだが、旅の記憶を持っているのはセルジュだけらしいということが示唆されて終わる。おそらくパラレル・ワールドへの道も閉ざされてしまったに違いない。セルジュたちの旅は、まさにセルジュひとりの夢のようにして、消えてしまうのである。……

 

 今回ここで、私はこの「CHRONO CROSS」のエンディングテーマである「RADICAL DREAMERS~盗めない宝石~」の詞と、その詞を作り歌をうたったみとせのりこさんの寄せた言葉を紹介することにしたい。私の夢への想いは、ほとんど全てみとせのりこさんの詞と言葉にこめられているように思われるのである。

 

 

◇RADICAL DREAMERS~盗めない宝石~

作詞:みとせのりこ

作曲、編曲:光田康典

 

幼いてにつつんだ ふるえてるその光を

ここまでたどってきた 時間のふちをさまよい

 

さがしつづけてきたよ 名前さえ知らないけれど

ただひとつの想いを あなたに手渡したくて

 

歴史(とき)は愛も痛みも 深く抱きとめ

消してゆくけど わたしは おぼえている

ずっと・・・

 

わたしの胸のおくに いつからか響いていた・・・

夜露のしずくよりも かすかなささやきだけど

 

凍てつく星の闇へ 紡ぐ祈りが

遠いあなたのそらに 届くように・・・

 

 

みとせのりこさんの言葉

クロノ・クロス アルティマニアデジキューブ出版(2000)より引用。

 

「時間(ユメ)を旅する誰かに」

みとせのりこです。時間(ユメ)の旅はいかがですか? 夢というのは視ているあいだは、よろこびも痛みもすべて自分にとっては現実(リアル)なのに、醒めると一瞬で遠ざかってしまって、心だけそこに取り残されて戸惑ったりすることがあります。はじめて「クロノ、クロス」のことをきいたとき、そういう感じがしたんです。通りすぎて戻らないかもしれないものを想うときのせつなさと痛み。でもそれを超えても想い続けることの強さ。そういうものがきれいだなと、悲しくてでもつよくてきれいだなと、そんなふうに思ったのでした。

        みとせのりこ

 

 

 

◆夢はどう考えられているか

 心理学(精神分析含む)では、夢は意識(あるいは無意識)が作り出したものと考えるだろう。夢は眠っている間に見る一種の幻影にすぎないのだ。夢の素材は意識(あるいは無意識)を探れば発見することができる。

 精神分析においては、夢は錯誤行為や機知や神経症の症状などと並んで「無意識の形成物」の一種とされている。夢も錯誤行為も機知も神経症の症状も、(精神分析的な)無意識を仮定することで説明がつく。無意識の仕事によって、抑圧された願望が象徴的に顔を出すものとされている。神経科学、脳科学では脳波などによって夢を見ているかどうか客観的に(第二次内包的に)決定されている。

 心理学や脳科学の登場によって、すっかり夢は私という一個人の心ないし脳が作り出した幻覚の一種だとされてしまっている。これは一般的な認識と考えてよいだろう。映画「マトリックス」において描かれた電脳世界は、心理学や脳科学で考える夢の形態をそっくりそのまま踏襲している。

 また、「桶のなかの脳」という思考実験をご存知だろうか。一般的に脳のしかるべき箇所に電気刺激を与えれば、その脳の持ち主は視覚や聴覚などの感覚を得ることが知られている。この脳科学的事実をもとにした思考実験が「桶のなかの脳」である。

 これは培養液の入った桶のなかに脳を浮かべ、電極を刺して電気刺激を与えることで、脳に幻覚を見せるという事態を考える。しかし私たちが現実世界としてみているこの世界もまた、実はそうした桶のなかに浮かんでいる脳の見ている幻覚なのではないだろうか。「桶のなかの脳」の思考実験はこうした事態を想定する。

 

 心理学によっても脳科学によっても精神分析によっても、夢そのものを単なる「幻覚」としてしか見なさない。さらに私という一個人の意識のなかにすっぽりおさまる一部分としてしか見ない。夢は現実世界のなかの一部分にすぎないと思われているのだ。

 映画「マトリックス」においても、「桶のなかの脳」の思考実験においても、このような科学的事実と、現実と夢の入れ子構造が当たり前のように用いられている。

 「夢は幻覚である」「夢は私個人の心や脳によって形成される」「夢と現実は入れ子構造をなす」これら三点において、心理学と脳科学精神分析は同じ視点を共有している。これらを科学としてひとまとめにして考えることができるだろう。さらに「桶のなかの脳」の思考実験に見られるように、それらを下敷きにした哲学も同様の視点を持っている。

 それだけではない。科学においては、目覚めた瞬間の喪失感や強い郷愁を説明しない。私には目覚めた瞬間の喪失感や郷愁が問題なのだ。どうして夢からの目覚めはあれほど胸を締め付けるのか。夢を、目覚めの瞬間を中心にして捉え直してみたい。

 

 夢というものがいったいどんなものか、科学では分かっている(と思っている)のだろう。だからその目的や機能や意味に注目するのだと思われる。

 REM睡眠時に夢を見ているというメカニズム(脳科学)も、記憶を整理するという目的(心理学)も、無意識の願望の現われという意味(精神分析)も、夢がいったい何なのかを分かった上で考えているような、付属品に見える。

 しかし夢からの目覚めがどうしてあれほど胸を締め付けるのか。目覚めの圧倒的な力によって遠景へと後退してしまう夢へ、どうしてそれほど郷愁を覚えるのか。目覚めたその先の世界に戸惑いとめまいを覚えるのはなぜなのか。目覚めたその瞬間、心を夢のなかに置き去りにしたように、私は私の同一性の揺らぎを感じずにはいられない。まだ温もりの残る夢の世界のなかにこそ、自分の居場所があるのではないかと、そんなことすら考えてしまうのだ。……

 夢そのものがいったい何なのか、私はそのことを考えたい。夢というものを目覚めの瞬間に注目することで捉え直してみたいのだ。

 

 

◆科学における夢――精神分析を中心に

 まず、精神分析における夢を科学的な夢の代表として考察することで、科学的な夢の見方や扱い方を改めて確認してみたい。

 

 夢は私の意図と関係なく、勝手に現れるものだろう。この「勝手に」というところが精神分析では「無意識」あるいは「無意識の主体」とされる。

 この夢を形成する「無意識」が、ラカン精神分析理論においては言語と異なるものではないために、夢は象徴的に形成されるものだとされる。だから夢の象徴性を読み解けば、夢の意味するところを理解することができるのである。

 無意識が夢を作り出すのなら、それはやはり「私が」夢を作るわけではない、ということだろうか。

 そうではない。無意識だって私の一部であるのだから、無意識のせいだとしても、それは意識していないかたちで「私が」作り出したものにほかならないのだ。だから夢は(無意識の)願望充足である、と言うことができる。意識と無意識の間で、願望が矛盾することはおおいにありうる。意識的にはひどく苦痛な事態が、実は無意識によって望まれていたということが往々にしてあるからだ。

 ある願望が実在するとして、それを意識するのがはばかられるとき、無意識的な力によって、その願望は意識から隠される。これが「抑圧」である。抑圧された願望は消えてしまったわけではなく、無意識にとどまり続け、夢や神経症の症状を作り出すのである。

 精神分析で、夢が「私が」作り出したものであるのを強調するのは、その意味が、夢の意味としての無意識の願望が、「私」のものであることを強調する ためなのだろう。精神分析の治療においては、抑圧された無意識の願望を知ることが重要なのである。そのために、無意識の願望の象徴化された夢を読み解こうとするのである。

 精神分析にとって夢は「幻覚」の一種なので、夢の「映像」もその意味も、無意識を含む「私が」作り出したものにされる。

 精神分析においてはこのように夢を考える。精神分析の治療場面においては、夢を語る語り、その意味を分析することが重視される。精神分析を創始したフロイトは「夢は無意識への王道」と考えていた。精神分析において夢は治療のための対象として扱われている。覚醒した状態の意識にとって、夢というものが、思考の対象物として現れていることを見て取ることができる。夢は現実のなかの一部分にすぎないのであって、現実のなかに夢はすっぽり入り込んでいる。現実と夢との入れ子構造があると言うことができる。

 

 以上、精神分析を代表に科学における夢の見方を改めて確認した。科学において、夢は心や脳によって形成される以上、夢は「私が」作り出したものにほかならないのだが、この「私が」夢を作り出すという見方は、実は夢が幻覚であるという観点、夢と現実の入れ子構造の観点と繋がっている。この三点は密接に関わりあっているのである。

 これは「私」というものが先にあって、その同一性のもとで夢という「幻覚」が見られる、という見方であるとも言うことができる。「私」という現実の直線を想像してほしい。この直線上に夢という幻覚が乗せられる。「私」という現実の直線の上に夢が乗るのだから、夢は「私」が生み出したものにほかならない。また現実の直線に対して夢は中身に当たり、入れ子構造をなす。さらに夢が直線上に乗っても、現実の直線そのものは影響を受けない。夢は単なる幻覚である以上、夢見る者の同一性を脅かすことはない。これが一般的な夢の見方であると言うことができるだろう。

 

 しかし私は夢について異なったように考えてみたい。夢は幻覚などではなく、夢は私が作り出すものではなく、夢は現実のうちにすっぽり入り込んでしまうものでもない。

 あれほど真に迫ってくるものが、単なる幻覚であって、偽物の認識であるとはどうしても思えないし、夢の圧倒性は私が作り出したものとも思えないし、まるで異世界のような夢が現実の内側に収まるものとも思えないのである。夢というものも、ひとつの現実と考えることはできないのだろうか。

 上の三点のどれかひとつないしふたつのみを変更することはできない。三者は密接に連携しており、どれかを変更するならば、全てを変更しなければならない。

 これらの三点を、目覚めの瞬間に注目することで変更することにしたい。そのとき現れてくるのは、消えてしまう別世界としての夢である。

 

 

◆現実としての夢

 夢は幻覚であると言われるとき、夢は現実と激しく対立している。「現実と夢」とは二項対立だとさえ言うことができる。そのとき「夢」という言葉は幻覚や、偽りの体験といった意味を持つ。

 しかし、夢での体験は本当に偽りの体験なのだろうか。夢の体験だって、現実の体験にほかならないのではないだろうか。夢における体験は決して偽物でも幻覚でもない。確かに私はそこで何らかのものを目の前にし、何らかのことを体験し、ある誰かと出会ったはずなのだ。それは決して変えようがない事実なのである。夢の体験も現実なのだ。夢は実は現実なのである。

 こうして夢そのものの現実性を考えることができる。夢は単なる幻覚などではないのだ。

 しかしこのように夢の現実性を考えるとき、夢と現実の対立はもはや意味をなさなくなってしまうのではないだろうか。夢もまた現実である以上、それを夢から覚めた現実から分かつものは何もない。どちらも現実にほかならないのだから、夢という枠組は消えてなくなる。夢と現実は何の境界もなく地続きにひとつになってしまうのである。

 だが私は夢から目覚めるたびに、夢と夢から覚めた現実との落差を感じるのである。やはり夢というものの特殊なあり方があるのではないだろうか。夢からの目覚めの瞬間は、何にも変えがたいものである。そこで夢は現実でありながら、目覚めた世界である現実と強く対立するように思われるのである。

 つまり、現実でありながら現実でないような夢、というものを考えることができるように思われる。そういうものとしてしか現実でありながら現実と対立するものを想定することはできない。夢はまさしくそのようなものとして現れるのではないだろうか。そして、そのように夢が現れる瞬間こそ、目覚めの瞬間にほかならない。

 夢が現実でありながら現実ではない、と言うとき、前者の現実と後者の現実は異なっているはずである。現実としての夢と、そこから目覚めた世界としての現実という二つの現実の対立がある。そしてそれはまた、現実としての夢と、そこから目覚めた後にそれを夢として理解されるという二つの夢の対立でもある。

 

 

◆目覚めの瞬間の夢――落差

 

◇〈夢〉と《夢》の落差

 夢から目覚めた瞬間を想像してほしい。

 ついいましがたまで現実として目の前にあった光景が、目覚めた瞬間に圧倒的な力で遠景として後退してゆく。このとき初めてさっきまで現実に体験していたものが夢であったことを知る。夢の世界を思い出そうと努めても、それはもやにかかったように手が届かなくなり、思い出したとしてもその要素は現実感を失ってゆく。それでも夢の世界への郷愁はおさまらず、夢の世界のなかにこそ自分の居場所はあったのではないか、何かを置き忘れてきたのではないかと戸惑い、めまいを覚える。目覚めた現実世界に対し、どろのなかを泳ぐような違和感を覚えることさえある。

 こうして目覚めたときに初めて、たった今まで見ていたものが夢だったのであると知り、その見ていた光景や体験を夢として理解するのである。現実的に目の前にしていたその瞬間における夢と、目覚めた後に回想される体験としての夢。目覚めには二重の夢の落差がある。前者を現実的な〈夢〉、後者を回想的な《夢》と呼ぶことができるだろう。

 この両者は目覚めにおいて激しく対立するものであるが、両者は互いに依存するものでもある。

 両者が対立するというのは、現実的な〈夢〉は目覚めによってその現実感を失い、私にとって単なる記憶として、回想的な《夢》としてしか存続しなくなってしまうからである。これは夢を見ている状態から目が覚めた後への時系列的な見方であり、ここにおける対立を存在論的な対立と言うことができる。現実的な〈夢〉は、目が醒めて夢だったと分かるまでは依然として夢ではないからである。

 現実的な〈夢〉は、目覚めてそれが夢だったと明らかになるまでは依然として夢ではありえない。〈夢〉はまさにそれが見られ、体験されているときには、本当に現実だったのである。目が覚めて初めてそれらの体験は夢だったと理解される。

 すると、現実的な〈夢〉というものは全て後から想起されるよりほかないということになるのだが、それは回想的な《夢》にほかならないのではないだろうか。現実的な〈夢〉などといったものは存在せず、全て回想される《夢》であるよりほかないのではないだろうか。

 おそらくそれは正しい。夢は目が醒めて夢と認識されるよりほかない。現実的な〈夢〉は回想的な《夢》としてしか想起することはできず、回想的な《夢》という概念を通してのみ現実的な〈夢〉というものを理解することができるようになる。

 しかし、それは半面にすぎない。現実的な〈夢〉の実在がなければ、端的に夢という出来事そのものがありえないからだ。さらに、夢を全て回想的な《夢》と理解してしまっては、夢における現実性を手放してしまうことになるだろう。回想的な《夢》とは、意識的な私の同一性における現実の一部分、という入れ子構造の見方と異なってはいないからである。したがって、夢の現実性を取り戻す必要があるだろう。夢は現実の一部ではない。正確に言えば、夢は目覚めた世界としての現実の一部分ではない。

 

◇現実=夢と現実=覚醒の落差

 現実的な〈夢〉と対立、相互依存するような、回想的な《夢》は、覚醒した状態の現実世界のなかにおさまる一部分でしかない。確かに夢を夢として認識し、それを思考するためにはこの視点は必要不可欠でさえある。しかしこれだけでは不十分であるのも確かである。これは一般的な、科学的な夢の見方を踏襲しているものであり、夢と現実の入れ子構造が現れているからである。

 そこで、目覚めにおける〈夢〉と《夢》の関係と並行して存在する、〈夢〉の現実性と、覚醒した世界の現実との対立に注目することにしたい。前者を現実=夢、後者を現実=覚醒と呼ぶことにする。

 この名づけ方から分かるように、ここには夢と現実の対立があるのではない。先ほどの夢の名づけを用いれば、《夢》と現実の対立があるのではなく、〈夢〉と現実の対立があるのである。また別の観点から言えば、ここには夢と覚醒状態との対立があるのである。つまり二つの現実の対等な対立関係に注目しようとしている。

 したがって目覚めの瞬間において二つの現実は対等に存在するものであり、どちらかが他方を包み込むようなものではない、ということに注意しなければならない。実は〈夢〉から《夢》への落差は、現実=夢を、現実=覚醒が包み込むことを可能にするものなのである。

 

 もう一度、夢からの目覚めの瞬間を想像してみてほしい。

 目覚めの瞬間に、ついいましがたまで目の前にあったものが急速に後退してゆき、遠く隔たってもやの向こう側に行ってしまう。もはや先ほどまでの体験はもう目の前にない。目覚めた世界の後景へと去ってしまう。先ほどまで目の前で体験していた現実=夢と、目覚めた先の現実=覚醒との間で、世界そのものや私自身が一体何なのか分からなくなることがある。現実=夢のなかに何かを忘れていやしないか、あそここそ私の居場所だったのではないか。戸惑い、めまいを覚える。そしてようやく現実=覚醒の世界に馴染んでゆく。

 このとき、確かに先ほどまで体験していたことの現実感は後景に退いてしまうものの、その体験の現実性そのものが失われることはない。目覚めを境にして、二つの現実が存在していると言うことができる。まさに現実にそれを体験していたはずの現実=夢と、それから目覚めた先の現実=覚醒である。

 現実=夢は、〈夢〉と同義であり、〈夢〉は確かに目覚めた後に《夢》として理解されるよりほかないのだが、反面その実在がなければ夢そのものという事象が成り立たない。《夢》という概念、あるいは認識から独立の夢の実在性、夢の現実性が揺らぐことはない。

 夢が単に《夢》として理解されるならば、それは現実=覚醒のなかに落とされて、夢と現実の入れ子構造を形成するだろう。しかし〈夢〉、すなわち現実=夢は、《夢》という概念や認識から独立に実在するものなのだから、現実=覚醒のなかに落とされることができない。現実=夢は、現実=覚醒に包み込まれることがなく、この両者は入れ子構造を形成しないのである。現実=夢と現実=覚醒はどちらが上位に立つかを決定できるようなものではなく、目覚めを境にして相対するだけなのである。

 このように目覚めを境目として中心にすることで、その前後の現実を対等に扱うことができ、その上でその前後の変化を明らかにすることができる。夢は現実であり、かつ現実と対立する。夢は〈夢〉として現実性を持つが、目覚めを境にそれは現実=覚醒と対立する。

 

 しかしその両者はなぜ対立しなければならないのか。実はこの対立は、現実=夢と現実=覚醒の、現実性そのものの対立ではない。現実であるという点において両者は全く異なるものはなく、その点のみに注目すれば両者を区別することはできない。この両者を目覚めにおいて区別するものが存在する。それは現実性そのものではなく、その内容であり、現実=夢を《夢》として理解する、相対的な外的状況、そして何より目覚めの圧倒的な力である。

 目覚めの瞬間に、いままで目の前にしていたものが後景に退いてゆくとき、それらを夢として理解するからといって、それは現実のなかの夢という入れ子構造を即座に意味するわけではない。この観点には、覚醒状態の「私」という同一性を持った入れ物、あるいは直線のようなものが前提とされている。

 目覚めの瞬間に「夢だった」と分かるのはそもそもなぜなのか。夢は現実=覚醒の一部分であるという入れ子構造があるから、それが夢だったと分かるのではない。目覚めの瞬間の、現実=覚醒の世界への違和感や戸惑い、現実=夢の世界への郷愁が、入れ子構造に対して意義を申し立てるだろう。目覚めの前後の二つの現実は、全く対等で、どちらかがどちらかを包含してしまうわけではないのである。

 現実=夢と現実=覚醒が区別される理由として、まずはそれらの内容の違いを挙げることができるだろう。たいていの場合、現実=夢の内容と、現実=覚醒の内容は異なっているはずである。だからこそ、これは外的状況とも関わることだが、目が覚めて「眠っているところから起きた」という内容・状況と、現実=夢の内容と比較することができ、それらは区別されることができるのである。

 だが、現実=夢の内容と、現実=覚醒の内容が同じであるという事態を容易に想像することができる。現実=夢のなかで私はいつもの部屋でいつもの寝床で眠っているということが考えられる。

 しかしそれでも現実=夢と現実=覚醒との間に目覚めが介入することで、両者は区別されるだろう。だがそれは両者の比較によってなされる認識的な区別などではなく、圧倒的にやって来るようなもので、目覚めのその瞬間に、なぜか区別が与えられるのではないだろうか。おそらく、現実=夢と現実=覚醒の区別はこの圧倒的な力によって根源的に区別され、その上で両者の比較を行うことができるのだろう。

 現実=夢と現実=覚醒は、目覚めを境にして、不可避的に区別されるのである。両者の現実性のみに注目すれば、両者はともに現実として一色になってしまい、区別することは不可能であるが、その間に目覚めの圧倒的な力と両者の内容の齟齬を認めることによって区別することができる。

 

 

◆同一性の揺らぎ――「私が」夢を作り出すのか?

 〈夢〉と《夢》の間には、存在論的な夢と概念・認識論的な夢という現実的な差異が存在する。両者の身分は異なっている。だが現実=夢と現実=覚醒の落差は、対等な対立であって具体的な差異はそれらの内容しかない。内容のほかに差異を作るのは目覚めの圧倒的な力であるが、目覚めを中心にして両者を見れば、それらは全く対等なのである。ここに入れ子構造は存在しない。

 そのとき、現実=夢から目覚めた私は、戸惑いを覚える。全く対等な二つの世界を、私は移動したことになるからである。夢と現実は入れ子構造をもはや形成しない。両者は対等なものなのであって、夢と現実は異世界どうしとみなすことができるのである。

 夢から目覚めた瞬間、どうして夢の世界へ郷愁を覚え、目覚めた世界に違和感を覚えるのか。夢の世界こそが昔なじみの、私の居場所のような気さえすることがあるのはどうしてなのか。そのとき私自身が何者であるのか、少なからず見失うのはどうしてなのか。……

 現実=夢の世界と、現実=覚醒の世界を、パラレル・ワールドのように捉えることで、その問いに答えることができると思われる。

 

 たとえば次のような事態を想定してほしい。ある日突然私の記憶が全て変わってしまったという事態である。ある瞬間に今までの記憶を全て失い、新たに全く異なる記憶を何者かによって植えつけられたとする。しかし私はその記憶の変化に関する記憶も知識も持っていない。私は当然のように新しく植えつけられた記憶によって、世界と自分を理解するだろう。その記憶をずっと保持してきたと思うだろう。ところが、その新たな記憶は、実はずっと何も変わらずに存続している世界とは何ひとつ一致しない記憶なのである。

 私は新たに植え付けられた記憶に従って、自分にとって馴染み深いものを探そうとする。しかし私の家族や友人、自分の持ち物は一切見つからない。世界とは何ら関係のない記憶が植えつけられているからである。私は全く知らない人間に、全く知らない名前で親しげに話しかけられるだろう。

 このとき私は何を思うだろうか。私には記憶の変化の記憶も知識も無い。そうであるならば、私は「世界は突然変わってしまった」と考えるはずである。しかし私以外の他者は全て、「私の記憶が変わった」と考えるだろう。両者は渾然一体となっていて、区別することはできないのである。

 これを夢に当てはめて考えてみる。夢から覚めて世界の変化を感ずるとしても、一般的な夢理解にしたがえば、夢は幻覚にすぎないのだから、それは単に私の記憶の問題とされるだろう。しかし、記憶が変化してしまったということと、世界が変化してしまったということを区別することはできない。そうであるとすれば、夢から覚めるたびに、私は世界の変化を、あるいは異世界への移動をしているとも言えるはずなのである。そしてそうとしか考えられないのである。

 目覚めの瞬間において私は、私の持つ現実=夢の記憶と現実=覚醒の世界の事実との間に立たされ、もちろん全く同じ意識の主体であり続けるはずなのだが、私自身が何者なのかを見失うことになるだろう。

 世界に存在する、馴染み深いものが私という人格や記憶を保証してくれているのであって、それらが全て失われてしまえば、私自身の記憶がどんなに残っていようとも、私は全く同じ人物ではありえなくなってしまうのである。夢からの目覚めにおける激しいまでの郷愁や、自らを見失うようなめまいはこれに由来するものと考えることができる。

 一貫性や同一性を持つ「私」というものが存在しないということは、夢を作り出すような「私」が存在しないという意味にほかならない。夢を幻覚として形成するものがあるとすれば、夢を包み込むような、一貫性や同一性を持つものにほかならないが、それは不可能である。現実=夢と現実=覚醒は交互に現れるのみであって、一貫性や同一性を保持した何者かがそれを形成するわけではないのである。

 

 

◆まとめ

 私は夢から目覚めるたびに私を見失い、私を見出し直している。いままでの議論によって、夢は幻覚などではなく、間違いなく現実であって、現実=夢と現実=覚醒は入れ子構造を形成せず、目覚めを境にして対等に対立するものであることが明らかになった。さらに、目覚めにおいて私は私自身の同一性の揺らぎを覚えるのである。

 もし夢と現実の入れ子構造を維持するなら、夢を包み込む現実の側の一貫性や同一性が必要となるのだが、目覚めの度にそれは失われる。夢を包み込むような現実の側の一貫性や同一性は保証されない。そうした一貫したものが存在しない以上、現実=夢と現実=覚醒は交互に現れるだけであって、どちらかがどちらかを包含することはない。

 夢を包含するような現実の一貫性や同一性などなく、現実=夢と現実=覚醒が交互に現れるだけなのだから、夢は現実の何者かが形成するものではありえない。目覚めるたびに私の同一性は揺るがされる。目覚めの際に戸惑い、めまいを覚える私の与り知らぬところから、夢はやってくるのである。

 

(2012年10月14日)

現実よりも現実らしく、夢よりも夢らしく

「現実よりも現実らしく、夢よりも夢らしく」/「響き」の小説 [pixiv]より転記。

 

 私はこの世界に生きてるのかどうか疑問に思うことがある。もちろん私は生きている。肉体を持ち、心臓は動き、呼吸をし、食べ物を食べ、何事かを意識し、何事かを思考し、睡眠を取り、ときに夢を見る。私はこの意味で確かに生きている。これは単に生物学的に生きているということ以上の意味で、私は生きていると言えるだろう。だが重要なのはそれではない。
 私はこの世界に生きているのか疑問に思うというその疑問は、私はこの世界の中に居場所があるのかどうか疑問に思えるということに等しい。「居場所」という言葉はいささかナイーブな言葉であると思う。他に言いかえるならば、私が世界に歓迎されているのかどうか疑問であると言える。


 私はこの世界に歓迎されていないのではないか、という実感が私にはある。どこに行っても私は余計なのだ。割り切れずに余る余りのようなものだ。グループを作れば余りとして残り、幸運にもグループに入ることができたとしてもその中でオッドとして他の人の顔を引きつらせる。口を開けば他人の顔を凍らせ、場の空気をお通夜に変える。私はどうやらそういう人間であるらしいのだ。
 もっと言えば、「誰でも歓迎」という看板に釣られて行ったところで「こいつも来ちゃったよ、どうしよう」と思われる人間であるのだ。「誰でも歓迎」の「誰でも」の中にそもそも私は入れられていない。そもそも勘定に入れられていないのが私だ。
 そんな私が生きているなどと言えるだろうか? 確かに生物学的にも、それ以上の意味でも、私は生きていると言えるだろう。けれど、誰からも、世界からも歓迎されない私が、世界の中に生きていると言えるだろうか? そもそも世界という土俵に上げてもらえていないのだから。


 だから私は夢を見る。夢の世界は私が開く世界で、私だけが開く世界だ。夢の世界を、人は非現実的であると言う。夢は現実ではないということだが、夢はしかし私にとってはまぎれもない現実だ。それをなぜ他人は「非現実的だ」などと言えるのだろう。
 私にとっては、私を歓迎しない世界の方が、よっぽど夢であると言えるような気がしている。いや、もちろん私は日々の生活の中で、世界にうまく馴染めるように努力している。電車の中ではおとなしくしているし、レポートを期日までに提出したり、労働者として働くこともできている。そしてそうした生活が大事だと思っているし、それを積み重ねることなしには私の未来は確かなものとしてはありえないだろうとも思っている。世界は夢のようだとさっき言ったけれども、同時に世界こそが現実だとも思って私はそこに生きているのだ。
 ああ、やっぱり私は世界に生きているのか? 私を歓迎しない世界の中で、私は息を潜めてその成員にうまく成りすまそうとしている。「誰でも歓迎」の「誰でも」に入れてもらえなかったのに、呼ばれてもいない会合にのこのこと出て行ってその場の人たちの顔をゆがませないように私はうかがっているかのようだ。呼ばれてもいない会合にのこのこと出向いてその場の人たちの顔色を青ざめさせることほど恥ずかしいことはない。私にとってはある意味で毎日がそうなのだ。


 夢と現実と、どっちが現実であるというのだろう。いや、そのように問うている時点で、夢と現実はもう区別されている。その区別に乗っかった上で、もう一度問うてみよう。夢と現実と、どっちが現実なのか。私が思うに、どっちも十分現実らしく、どっちも十分夢らしい。
 夢はもちろん夢であるからには現実ではない。それは夢だ。けれど、それはやはり私に現れる現実なのだ。だからそれは私にはかけがえのない大事なものが詰まっている。では現実の方はどうか。現実は確かに現実だ。そこで私は暮らし、ものを食べ、労働者として賃金を稼ぎ、自らの仕事を果たして成果を挙げようとしている。そこで私は生活しているのだから、それはそれで私はそれを大事な場所であると思っている。けれど、その現実世界は、私を歓迎しているわけではない。私はどうやら世界に求められずにそこに生まれた。誰が望んだのか知らないが、私はそこに生まれた。
 私は生まれてしまった。世界に歓迎されていない。私に居場所はない。さてどうしたものか、私はこの世界を愛することがうまくできない。もちろんできるならば世界に歓迎されたいと私は思う。けれど事実世界は私を歓迎していない。だから私はそんな世界に生きていたいと、そんなに熱心には思っていない。できれば別の風に生まれたかったと思うし、もし可能ならばその願いが叶ってほしいと思う。けれど生まれ直すなんてことは誰にもできやしない。だから私が願う別の生へと可能な限りで変化してみたいと夢想することもある。
 夢想。私はこの現実に生きているけれども、他の生を夢想している。その夢想の中では、この現実は無数に存在しうる可能性の中の一つにすぎないのだ。だからこの現実は、私は確かにそこで生活していて、そこでのルールや約束事を守ってはいるけれども、やはりこの現実は、どこか少しは夢みたいなものなのだ。逃れることはできないし、そこから覚めることもありえないだろうけれども、この現実世界は夢みたいなものなのだ。


 だから私は遠くへ行きたいと願う。ここではないどこか遠くへ。実際にそこへ行ってしまうんじゃない。ただ願うだけだ。旅行に行ったとして、空想していたのとは感じが違うと思うことがある。空想しているときの方が、その行き先は輝いて見えるものだ。それは小説を読むということも同じで、実際に映像化されてしまえば、その映像についてなんて陳腐なんだと感じることは少なくない。想像力は偉大なのである。
 遠くへ行きたいと願うということは、想像力を駆使して、今ここではないどこかへ一瞬にして身を移してしまうことだ。空想の世界の中に、他の生を得る。そのとき現実は、現実としての身分を失い、無数の可能性の一つへと転落する。だから現実は夢みたいなものだ。空想の中の世界は、そのときもっともっと現実感を獲得して私に迫る。そうして私は遠くへ行きたいと願う。


 夜。夏の夜は空気が重く、水分を含んだ風がじっとりと汗ばんだ肌にまとわりつく。湿気の多い空気は揺らぎ、星はあまりよく見えない。冬の夜は空気が鋭く、冷えた刃のような風が首筋を掠める。大気は張りつめ、透き通った黒い水晶のような夜空に星が瞬く。
 星空を眺めるとき、遠い世界を思う。星が何光年という遠くにあり、それが何年も時間をかけてここへ届くことを思うとき、その想像の中の時間は私が生きている時間を優に超え出る大きさとなって私に迫ってくる。私がここに生きているということが、もっと大きな世界の、もっと大きな時間の中の、ほんの一部、誰も省みないようなちっぽけなものとなる。それが、私には寂しくもあれど、心地よく感じられるのだ。私が生きる世界がまるで夢のように思われることと、この世界が無数にも思われる大きさの中のほんの小さな一部でしかないということが、重なるように思われるのだ。


 星空だけではない。屋上に立つとき、ベランダに立つとき、雲が見える。向こうの副都心が見える。雲は上空数千メートルから何万メートルの高さを浮かぶ。それと比べれば地上の私など小さなものだ。そしてその行程を私は知らない。私の知らない遠くで雲は生まれ、私の知らない遠くへと雲は行くのだ。その遠くを、私は思う。
 遠くのビル群は、手が届くように見えるところに聳えているが、今すぐにそこへ行くことはできない。そしてそこへ行ったところで、私が見たビル群という表象は消えてしまうのだ。ビル群という塊は、遠くから見ることによってしか現れない。遠くに立つことで、それはビル群として現れる。ビル群があるということは、すでに私はそこにいないという距離が発生しているのだ。その遠くの場所を、私は思う。
 宇宙の星々、雲、ビル群…… 遠くの場所を思うとき、浮き彫りになるその遠さを、私は埋めることができない。その遠さは、埋められるようなものではない。そこへ行くことはできないのだ。行くことができない遠くの場所が、しかし目の前に見えている。ここと、遠くの向こうという二か所が、断絶した遠さによって連接している。
 その遠さを埋めることができるのは、唯一想像力だけだ。私は想像力によって、空想の中でその遠さを埋める。遠くのその場所へと、空想の中で赴く。今のここという場所は、空想によって薄められ、逆に夢のように揺らぐ。遠くの場所へと向かう空想の方がよっぽど現実として迫ってくる……


 これは死のイメージである。遠くの向こう側の場所と、今ここという場所。この二つは断絶していて、繋がりようがない。未来にいつかやってくるべき死の瞬間を私は知らない。私はいまここで確かに生きているのだから、今死んでいるわけではない。だが、私の死はいつかやってくるだろう。そのように想像することはできる。私が死んだとしたら、誰が何を思うだろうかと想像することもできる。想像によって私は死へと到達する。想像によって、今と未来の死の瞬間を結びつけるのだ。
 けれど、いますぐその二点を結びつけることはできない。向こう側の場所へと今すぐ行くことはできないし、何より行ってみたところでそこは「遠くの向こうの場所」としての表象を失う。死の瞬間に、私は「死」の表象を得ることはできない。私は死んで意識を失ってしまっているだろうから。
 宇宙の星々、雲、ビル群。これらはいつか私に訪れる死の場所にほかならない。私は今ここに確かに生きているけれども、私はいつも空想によって遠くの場所を思い、今生きている場所を夢のように揺らがせている。空想の中で私は今ここの場所と、死の場所とを連接させている。私はこの世界に歓迎されていない。私はこの世界の中に居場所がない。私はだからこの世界の中で生きているのかどうか分からない。まるで死んだように生きているか、生きたまま死んでいるかのどちらかのようだ。
 私は毎日、死へと向かって生きているようである。この現実からたった一人で抜け出して、死へと静かに向かう銀河鉄道に乗っているかのようだ。毎日乗る電車から見える風景は、だから死の世界へと一人で向かう最後の風景のようでもある。
 そのくらいには、現実に対して現実感を覚えていないのである。

 

(2014年12月8日)