あの日見た夢さえ思い出せない

「あの日見た夢さえ思い出せない」/「響き」の小説 [pixiv]より転記。

 

 あの日見た夢さえ思い出せない。何かぼんやりと夢を見たことだけは覚えている。そのとき夢のなかで見たものを、夢のなかで目の前にしたものを、もう一度この手に掴み直したくて、夢のなかへ遡ろうとしたことも。そしてそれは不幸にも成功しなかったことも。けれど、もうその夢さえ思い出せない。そこに何か大事なものがあったかもしれないのに。だが、本当にそこには何かがあったのだろうか? 本当は何もなかったのではないか? 何もなかったのに、そこに何かがあったかのように私自身が思い込んでしまっているのではないか?
 いや、確かにあったのだ。これほど思い焦がれる夢なのだ。そこに何もなかったという方がおかしいはずなのだ。そこには確かに何かがあった。私の心をひきつけて止まないような何かが。夢のほうこそが現実だと思わせるような何かが。けれど、それはもう忘れてしまった。
 こうやって夢を見てはそれを忘れ、思い出そうともがき、記憶の波に押し寄せられて、意識の砂浜へと打ち上げられる。真っ白で、何ら現実感のない砂浜。水のなかを泳ぐような質量を全身に感じながら、何かを手に掴み取っていたあの夢のなかの方が、よっぽど今よりも現実らしく感じられる。けれど、もうそれは目の前にない。夢から目覚めた瞬間から、それは遠い過去へと押しやられて、記憶から消えてしまったのだ。
 けれど、夢を見たことを覚えているだけ幸運なのだ。忘れてしまったのだということが分かっているならば、失われた部分の空白を埋めることができる。それは事実として可能なのだということではなく、ただ、論理的に可能だということを意味するだけなのだが。
 だがもし、忘れてしまったことすら忘れてしまったら? 夢を見たことさえ忘れてしまったら? もうそれは初めから何も見聞きしなかった、そこには何もなかった、と、こんな風になってしまうしかない。それはとても悲しく、そしてとても恐ろしいことに違いないのだ。埋めるための空白すらも消えてしまったのだから。空白がなければ、何も埋めることができない。
 いや、空白があったことすら、今となってはもう定かではない。だから、きっと私は、空白の印を失ったのだ。ここに空白があったよと指し示す印を。だからもう失ったものさえわからない。それはどこかで涙を流しているかもしれないのに、慰めてやることすらかなわない。
 今もこうして、平然と生活をしながら、そこらじゅうに忘れてしまったものを放り投げて、思い出してもらうことを待っているような、そんなものがたくさんあるかもしれないのだ。それはしかし夢にかぎったことではない。生まれてこの方目にしてきたものを、耳で聞いてきたものを、この手で触れてきたものを、すべて記憶しているわけではない。
 一説では、ただ思い出せないだけで、すべて記憶しているのだという。だがそれでは意味がない。無意味なのだ。思い出せないのでは、それはもはや存在しないも同然なのだから。それを記憶するべき人がひとりしかいないなら、彼が忘れてしまえば、それは存在しないも同義となってしまうのだ。
 同様に、夢は覚えていないだけで誰もが眠っている間に必ず見ているのだ、と言う人もいる。それも無意味だ。記憶していないのに、誰もが見ているだなんて言うことはできない。夢を見ているまさにそのときにのみ、いや、夢は目覚めて初めて夢となるのだから、夢から目が覚めたその瞬間においてのみ、夢を見ていたと言うことができるのだ。しかし夢から目覚めた瞬間に、夢を見ていたことも忘れてしまうならば、そんなことは不可能なのだが。


 きっと、そこらじゅうで、忘れ去られた記憶たちが思い出してもらうことを待っている。忘却に押しやられて過去の地層へと埋められてしまった記憶たちが、そこらじゅうで待っている。電柱の影から何かが飛び出してくるかもしれない。本棚の隙間から、冷蔵庫の中から、枕の下から。忘れ去られた記憶が、顔を出して私を驚かせるかもしれない。そこらじゅうに記憶たちは散らばっている。私の生活のなかのそこかしこが、失われた過去へと繋がっているのだ。
 そこらじゅうに散らばっている記憶たちが、本当に、私が忘れてしまったものたちであるとすれば、それは私自身の断片にほかならないのではないだろうか? そしてそれは同時に、私自身がばらばらになって、そこらじゅうに散らばっていることを意味するのではないか? そこらじゅうに私自身が、私の一部が、頭が、腕が、転がっているのではないか?
 この世に存在し始めてから、この現在までに連なる歴史のすべてが私を形成しているなら、この現在の私自身は、それらすべてを記憶していなければならないはずなのに、私はそのうちの多くのものを忘れてしまっている。今まですべての歴史によって作られている私自身と、現在記憶している私自身とのあいだに同一性はないのだ。この不一致を、埋めなければならないのではないか? ばらばらに散らばってしまった私の断片を、私は拾い集めなければならないのではないか?
 けれど、それが何であったのかさえ、もはや分からない。それが存在するのかどうかすら、私には分からないのだ。存在するのかどうかすら分からず、でもきっと、いや確かにすると思えてならないような私の断片たちを拾い集めて、この手のなかで優しく撫で回して心のうちへと戻してやりたいのだ。彼らのために一片の涙を落としてやりたいのだ。それがきっと、弔いということなのではあるまいか? それが存在したかどうかすら、いまはもう分からなくなってしまった、消滅してしまった何かを思うことが、祈りというものなのではあるまいか?

 これから消えてゆこうとするもの、その消滅を見届けたい。こう願わずにはいられないことがある。道を歩いているときに、ふと、その瞬間に消えてゆこうとしているものが思い浮かぶことがある。その顔も、姿も、声も、何も分からないのに、それでも具体的に、誰かが、何かが、消えてゆこうとしていることを、この身に受け止めたいと思うことがある。これから消えてゆくものの、その消滅を見届けることはできる。それは認識可能なものなのだ。
 だがそれでは、すでに消えてしまったものはどうなのだろうか。確かに存在したはずなのに、消えてなくなってしまったもの。消えてしまったものは、もう、ない。だが消えてしまったという痕跡があれば、その消滅の足跡を追うことが可能である。
 だがもし、その痕跡もなく、綺麗に消えてしまったなら? それが存在したということも、それが消滅したということも、残さずに消えてしまったなら? 何の痕跡も残さずに消えてしまったものは、初めから存在しなかったも同然となってしまうのだ。そうならざるをえないのだ。
 跡形もなく消滅し、初めから存在しなかったも同然とみなされる、そんなものたちのことをよく思う。私自身のかつての記憶だって、私自身の消滅だって、もしかしたらそうかもしれないのだ。いや、きっと、おそらく、まちがいなく、そうなのだ。私自身の過去の多くはそうやって失われ、私自身もそうやって失われるのだ。そうであるよりほかないのだ。
 だが、そんなものたちを思うことこそが、祈りなのではあるまいか? 彼らに祈りを捧げることは可能だろうか? 跡形もなく消滅し、初めから存在しなかったと見なされてしまうような、彼らに向けて、いったい誰が祝福してくれるというのだろうか?

 そしていつともなく、忘れ果て、初めから存在しなかったと見なされてしまったものが、私に向けて復讐しにやって来るかもしれない。忘れ去られた私の断片は、きっと、そこらじゅうに散らばっている。それを拾い集めて弔ってやらないかぎりは、彼らは私に襲い掛かるだろう。拾い集めて弔うことができるのは、この私しかいないのだから。
 でもそれはきっと、失われた過去の記憶が私に刃を向けてきたときに、初めて気づくものなのだ。刃が向けられて、私は初めてその存在に気づくのだ。ああ、あのとき、この場所で、こんなことがあったのだ、と。だがそれは遅すぎるのではあるまいか? いや、そうでもしないかぎり思い出すことはできないのかもしれない。
 だがそれこそが、失った過去を取り戻し、二度と手放さないようにその存在を刻みつけることになるように思えてならない。だからこそ、傷がこれほどまでに愛おしく思えるのかもしれない。そうであるならば、私はその刃に傷つけられ、倒れてしまうことをも厭わぬべきなのだ。それこそが、記憶を確かにこの心のなかに刻みつけることなのだから。忘れてしまった夢のなかのものを、心のなかに留め置くことになるのだから。そしてそれこそが、消えてしまったものへの弔いと、私への罰となるのだから。


 だから、君をこの腕で抱きしめよう。強く、強く。

 

(2013年1月29日)