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目覚めにおける夢と現実の落差

「哲学についてのあれこれ9――目覚めにおける夢と現実の落差」/「響き」の小説 [pixiv]より転記。

 

◆「CHRONO CROSS」からの夢のイメージ

 私の好きなテレビゲームに、スクウェア製作(1999年)の「CHRONO CROSS」というRPGゲームがある。

 このゲームの物語は、パラレル・ワールドを主題としている。物語の冒頭で主人公セルジュはもうひとつの世界へと導かれるのだが、その世界はセルジュが10年前に死んでしまっていたという世界だった。二つの世界を行き来しながら、セルジュはさまざまな人物や出来事と遭遇し、世界を二つに分かつこととなった10年前の真実を知る。そして物語が終幕を迎え、セルジュは初めてパラレル・ワールドへ行ってしまった時点へと帰ってゆくのだが、旅の記憶を持っているのはセルジュだけらしいということが示唆されて終わる。おそらくパラレル・ワールドへの道も閉ざされてしまったに違いない。セルジュたちの旅は、まさにセルジュひとりの夢のようにして、消えてしまうのである。……

 

 今回ここで、私はこの「CHRONO CROSS」のエンディングテーマである「RADICAL DREAMERS~盗めない宝石~」の詞と、その詞を作り歌をうたったみとせのりこさんの寄せた言葉を紹介することにしたい。私の夢への想いは、ほとんど全てみとせのりこさんの詞と言葉にこめられているように思われるのである。

 

 

◇RADICAL DREAMERS~盗めない宝石~

作詞:みとせのりこ

作曲、編曲:光田康典

 

幼いてにつつんだ ふるえてるその光を

ここまでたどってきた 時間のふちをさまよい

 

さがしつづけてきたよ 名前さえ知らないけれど

ただひとつの想いを あなたに手渡したくて

 

歴史(とき)は愛も痛みも 深く抱きとめ

消してゆくけど わたしは おぼえている

ずっと・・・

 

わたしの胸のおくに いつからか響いていた・・・

夜露のしずくよりも かすかなささやきだけど

 

凍てつく星の闇へ 紡ぐ祈りが

遠いあなたのそらに 届くように・・・

 

 

みとせのりこさんの言葉

クロノ・クロス アルティマニアデジキューブ出版(2000)より引用。

 

「時間(ユメ)を旅する誰かに」

みとせのりこです。時間(ユメ)の旅はいかがですか? 夢というのは視ているあいだは、よろこびも痛みもすべて自分にとっては現実(リアル)なのに、醒めると一瞬で遠ざかってしまって、心だけそこに取り残されて戸惑ったりすることがあります。はじめて「クロノ、クロス」のことをきいたとき、そういう感じがしたんです。通りすぎて戻らないかもしれないものを想うときのせつなさと痛み。でもそれを超えても想い続けることの強さ。そういうものがきれいだなと、悲しくてでもつよくてきれいだなと、そんなふうに思ったのでした。

        みとせのりこ

 

 

 

◆夢はどう考えられているか

 心理学(精神分析含む)では、夢は意識(あるいは無意識)が作り出したものと考えるだろう。夢は眠っている間に見る一種の幻影にすぎないのだ。夢の素材は意識(あるいは無意識)を探れば発見することができる。

 精神分析においては、夢は錯誤行為や機知や神経症の症状などと並んで「無意識の形成物」の一種とされている。夢も錯誤行為も機知も神経症の症状も、(精神分析的な)無意識を仮定することで説明がつく。無意識の仕事によって、抑圧された願望が象徴的に顔を出すものとされている。神経科学、脳科学では脳波などによって夢を見ているかどうか客観的に(第二次内包的に)決定されている。

 心理学や脳科学の登場によって、すっかり夢は私という一個人の心ないし脳が作り出した幻覚の一種だとされてしまっている。これは一般的な認識と考えてよいだろう。映画「マトリックス」において描かれた電脳世界は、心理学や脳科学で考える夢の形態をそっくりそのまま踏襲している。

 また、「桶のなかの脳」という思考実験をご存知だろうか。一般的に脳のしかるべき箇所に電気刺激を与えれば、その脳の持ち主は視覚や聴覚などの感覚を得ることが知られている。この脳科学的事実をもとにした思考実験が「桶のなかの脳」である。

 これは培養液の入った桶のなかに脳を浮かべ、電極を刺して電気刺激を与えることで、脳に幻覚を見せるという事態を考える。しかし私たちが現実世界としてみているこの世界もまた、実はそうした桶のなかに浮かんでいる脳の見ている幻覚なのではないだろうか。「桶のなかの脳」の思考実験はこうした事態を想定する。

 

 心理学によっても脳科学によっても精神分析によっても、夢そのものを単なる「幻覚」としてしか見なさない。さらに私という一個人の意識のなかにすっぽりおさまる一部分としてしか見ない。夢は現実世界のなかの一部分にすぎないと思われているのだ。

 映画「マトリックス」においても、「桶のなかの脳」の思考実験においても、このような科学的事実と、現実と夢の入れ子構造が当たり前のように用いられている。

 「夢は幻覚である」「夢は私個人の心や脳によって形成される」「夢と現実は入れ子構造をなす」これら三点において、心理学と脳科学精神分析は同じ視点を共有している。これらを科学としてひとまとめにして考えることができるだろう。さらに「桶のなかの脳」の思考実験に見られるように、それらを下敷きにした哲学も同様の視点を持っている。

 それだけではない。科学においては、目覚めた瞬間の喪失感や強い郷愁を説明しない。私には目覚めた瞬間の喪失感や郷愁が問題なのだ。どうして夢からの目覚めはあれほど胸を締め付けるのか。夢を、目覚めの瞬間を中心にして捉え直してみたい。

 

 夢というものがいったいどんなものか、科学では分かっている(と思っている)のだろう。だからその目的や機能や意味に注目するのだと思われる。

 REM睡眠時に夢を見ているというメカニズム(脳科学)も、記憶を整理するという目的(心理学)も、無意識の願望の現われという意味(精神分析)も、夢がいったい何なのかを分かった上で考えているような、付属品に見える。

 しかし夢からの目覚めがどうしてあれほど胸を締め付けるのか。目覚めの圧倒的な力によって遠景へと後退してしまう夢へ、どうしてそれほど郷愁を覚えるのか。目覚めたその先の世界に戸惑いとめまいを覚えるのはなぜなのか。目覚めたその瞬間、心を夢のなかに置き去りにしたように、私は私の同一性の揺らぎを感じずにはいられない。まだ温もりの残る夢の世界のなかにこそ、自分の居場所があるのではないかと、そんなことすら考えてしまうのだ。……

 夢そのものがいったい何なのか、私はそのことを考えたい。夢というものを目覚めの瞬間に注目することで捉え直してみたいのだ。

 

 

◆科学における夢――精神分析を中心に

 まず、精神分析における夢を科学的な夢の代表として考察することで、科学的な夢の見方や扱い方を改めて確認してみたい。

 

 夢は私の意図と関係なく、勝手に現れるものだろう。この「勝手に」というところが精神分析では「無意識」あるいは「無意識の主体」とされる。

 この夢を形成する「無意識」が、ラカン精神分析理論においては言語と異なるものではないために、夢は象徴的に形成されるものだとされる。だから夢の象徴性を読み解けば、夢の意味するところを理解することができるのである。

 無意識が夢を作り出すのなら、それはやはり「私が」夢を作るわけではない、ということだろうか。

 そうではない。無意識だって私の一部であるのだから、無意識のせいだとしても、それは意識していないかたちで「私が」作り出したものにほかならないのだ。だから夢は(無意識の)願望充足である、と言うことができる。意識と無意識の間で、願望が矛盾することはおおいにありうる。意識的にはひどく苦痛な事態が、実は無意識によって望まれていたということが往々にしてあるからだ。

 ある願望が実在するとして、それを意識するのがはばかられるとき、無意識的な力によって、その願望は意識から隠される。これが「抑圧」である。抑圧された願望は消えてしまったわけではなく、無意識にとどまり続け、夢や神経症の症状を作り出すのである。

 精神分析で、夢が「私が」作り出したものであるのを強調するのは、その意味が、夢の意味としての無意識の願望が、「私」のものであることを強調する ためなのだろう。精神分析の治療においては、抑圧された無意識の願望を知ることが重要なのである。そのために、無意識の願望の象徴化された夢を読み解こうとするのである。

 精神分析にとって夢は「幻覚」の一種なので、夢の「映像」もその意味も、無意識を含む「私が」作り出したものにされる。

 精神分析においてはこのように夢を考える。精神分析の治療場面においては、夢を語る語り、その意味を分析することが重視される。精神分析を創始したフロイトは「夢は無意識への王道」と考えていた。精神分析において夢は治療のための対象として扱われている。覚醒した状態の意識にとって、夢というものが、思考の対象物として現れていることを見て取ることができる。夢は現実のなかの一部分にすぎないのであって、現実のなかに夢はすっぽり入り込んでいる。現実と夢との入れ子構造があると言うことができる。

 

 以上、精神分析を代表に科学における夢の見方を改めて確認した。科学において、夢は心や脳によって形成される以上、夢は「私が」作り出したものにほかならないのだが、この「私が」夢を作り出すという見方は、実は夢が幻覚であるという観点、夢と現実の入れ子構造の観点と繋がっている。この三点は密接に関わりあっているのである。

 これは「私」というものが先にあって、その同一性のもとで夢という「幻覚」が見られる、という見方であるとも言うことができる。「私」という現実の直線を想像してほしい。この直線上に夢という幻覚が乗せられる。「私」という現実の直線の上に夢が乗るのだから、夢は「私」が生み出したものにほかならない。また現実の直線に対して夢は中身に当たり、入れ子構造をなす。さらに夢が直線上に乗っても、現実の直線そのものは影響を受けない。夢は単なる幻覚である以上、夢見る者の同一性を脅かすことはない。これが一般的な夢の見方であると言うことができるだろう。

 

 しかし私は夢について異なったように考えてみたい。夢は幻覚などではなく、夢は私が作り出すものではなく、夢は現実のうちにすっぽり入り込んでしまうものでもない。

 あれほど真に迫ってくるものが、単なる幻覚であって、偽物の認識であるとはどうしても思えないし、夢の圧倒性は私が作り出したものとも思えないし、まるで異世界のような夢が現実の内側に収まるものとも思えないのである。夢というものも、ひとつの現実と考えることはできないのだろうか。

 上の三点のどれかひとつないしふたつのみを変更することはできない。三者は密接に連携しており、どれかを変更するならば、全てを変更しなければならない。

 これらの三点を、目覚めの瞬間に注目することで変更することにしたい。そのとき現れてくるのは、消えてしまう別世界としての夢である。

 

 

◆現実としての夢

 夢は幻覚であると言われるとき、夢は現実と激しく対立している。「現実と夢」とは二項対立だとさえ言うことができる。そのとき「夢」という言葉は幻覚や、偽りの体験といった意味を持つ。

 しかし、夢での体験は本当に偽りの体験なのだろうか。夢の体験だって、現実の体験にほかならないのではないだろうか。夢における体験は決して偽物でも幻覚でもない。確かに私はそこで何らかのものを目の前にし、何らかのことを体験し、ある誰かと出会ったはずなのだ。それは決して変えようがない事実なのである。夢の体験も現実なのだ。夢は実は現実なのである。

 こうして夢そのものの現実性を考えることができる。夢は単なる幻覚などではないのだ。

 しかしこのように夢の現実性を考えるとき、夢と現実の対立はもはや意味をなさなくなってしまうのではないだろうか。夢もまた現実である以上、それを夢から覚めた現実から分かつものは何もない。どちらも現実にほかならないのだから、夢という枠組は消えてなくなる。夢と現実は何の境界もなく地続きにひとつになってしまうのである。

 だが私は夢から目覚めるたびに、夢と夢から覚めた現実との落差を感じるのである。やはり夢というものの特殊なあり方があるのではないだろうか。夢からの目覚めの瞬間は、何にも変えがたいものである。そこで夢は現実でありながら、目覚めた世界である現実と強く対立するように思われるのである。

 つまり、現実でありながら現実でないような夢、というものを考えることができるように思われる。そういうものとしてしか現実でありながら現実と対立するものを想定することはできない。夢はまさしくそのようなものとして現れるのではないだろうか。そして、そのように夢が現れる瞬間こそ、目覚めの瞬間にほかならない。

 夢が現実でありながら現実ではない、と言うとき、前者の現実と後者の現実は異なっているはずである。現実としての夢と、そこから目覚めた世界としての現実という二つの現実の対立がある。そしてそれはまた、現実としての夢と、そこから目覚めた後にそれを夢として理解されるという二つの夢の対立でもある。

 

 

◆目覚めの瞬間の夢――落差

 

◇〈夢〉と《夢》の落差

 夢から目覚めた瞬間を想像してほしい。

 ついいましがたまで現実として目の前にあった光景が、目覚めた瞬間に圧倒的な力で遠景として後退してゆく。このとき初めてさっきまで現実に体験していたものが夢であったことを知る。夢の世界を思い出そうと努めても、それはもやにかかったように手が届かなくなり、思い出したとしてもその要素は現実感を失ってゆく。それでも夢の世界への郷愁はおさまらず、夢の世界のなかにこそ自分の居場所はあったのではないか、何かを置き忘れてきたのではないかと戸惑い、めまいを覚える。目覚めた現実世界に対し、どろのなかを泳ぐような違和感を覚えることさえある。

 こうして目覚めたときに初めて、たった今まで見ていたものが夢だったのであると知り、その見ていた光景や体験を夢として理解するのである。現実的に目の前にしていたその瞬間における夢と、目覚めた後に回想される体験としての夢。目覚めには二重の夢の落差がある。前者を現実的な〈夢〉、後者を回想的な《夢》と呼ぶことができるだろう。

 この両者は目覚めにおいて激しく対立するものであるが、両者は互いに依存するものでもある。

 両者が対立するというのは、現実的な〈夢〉は目覚めによってその現実感を失い、私にとって単なる記憶として、回想的な《夢》としてしか存続しなくなってしまうからである。これは夢を見ている状態から目が覚めた後への時系列的な見方であり、ここにおける対立を存在論的な対立と言うことができる。現実的な〈夢〉は、目が醒めて夢だったと分かるまでは依然として夢ではないからである。

 現実的な〈夢〉は、目覚めてそれが夢だったと明らかになるまでは依然として夢ではありえない。〈夢〉はまさにそれが見られ、体験されているときには、本当に現実だったのである。目が覚めて初めてそれらの体験は夢だったと理解される。

 すると、現実的な〈夢〉というものは全て後から想起されるよりほかないということになるのだが、それは回想的な《夢》にほかならないのではないだろうか。現実的な〈夢〉などといったものは存在せず、全て回想される《夢》であるよりほかないのではないだろうか。

 おそらくそれは正しい。夢は目が醒めて夢と認識されるよりほかない。現実的な〈夢〉は回想的な《夢》としてしか想起することはできず、回想的な《夢》という概念を通してのみ現実的な〈夢〉というものを理解することができるようになる。

 しかし、それは半面にすぎない。現実的な〈夢〉の実在がなければ、端的に夢という出来事そのものがありえないからだ。さらに、夢を全て回想的な《夢》と理解してしまっては、夢における現実性を手放してしまうことになるだろう。回想的な《夢》とは、意識的な私の同一性における現実の一部分、という入れ子構造の見方と異なってはいないからである。したがって、夢の現実性を取り戻す必要があるだろう。夢は現実の一部ではない。正確に言えば、夢は目覚めた世界としての現実の一部分ではない。

 

◇現実=夢と現実=覚醒の落差

 現実的な〈夢〉と対立、相互依存するような、回想的な《夢》は、覚醒した状態の現実世界のなかにおさまる一部分でしかない。確かに夢を夢として認識し、それを思考するためにはこの視点は必要不可欠でさえある。しかしこれだけでは不十分であるのも確かである。これは一般的な、科学的な夢の見方を踏襲しているものであり、夢と現実の入れ子構造が現れているからである。

 そこで、目覚めにおける〈夢〉と《夢》の関係と並行して存在する、〈夢〉の現実性と、覚醒した世界の現実との対立に注目することにしたい。前者を現実=夢、後者を現実=覚醒と呼ぶことにする。

 この名づけ方から分かるように、ここには夢と現実の対立があるのではない。先ほどの夢の名づけを用いれば、《夢》と現実の対立があるのではなく、〈夢〉と現実の対立があるのである。また別の観点から言えば、ここには夢と覚醒状態との対立があるのである。つまり二つの現実の対等な対立関係に注目しようとしている。

 したがって目覚めの瞬間において二つの現実は対等に存在するものであり、どちらかが他方を包み込むようなものではない、ということに注意しなければならない。実は〈夢〉から《夢》への落差は、現実=夢を、現実=覚醒が包み込むことを可能にするものなのである。

 

 もう一度、夢からの目覚めの瞬間を想像してみてほしい。

 目覚めの瞬間に、ついいましがたまで目の前にあったものが急速に後退してゆき、遠く隔たってもやの向こう側に行ってしまう。もはや先ほどまでの体験はもう目の前にない。目覚めた世界の後景へと去ってしまう。先ほどまで目の前で体験していた現実=夢と、目覚めた先の現実=覚醒との間で、世界そのものや私自身が一体何なのか分からなくなることがある。現実=夢のなかに何かを忘れていやしないか、あそここそ私の居場所だったのではないか。戸惑い、めまいを覚える。そしてようやく現実=覚醒の世界に馴染んでゆく。

 このとき、確かに先ほどまで体験していたことの現実感は後景に退いてしまうものの、その体験の現実性そのものが失われることはない。目覚めを境にして、二つの現実が存在していると言うことができる。まさに現実にそれを体験していたはずの現実=夢と、それから目覚めた先の現実=覚醒である。

 現実=夢は、〈夢〉と同義であり、〈夢〉は確かに目覚めた後に《夢》として理解されるよりほかないのだが、反面その実在がなければ夢そのものという事象が成り立たない。《夢》という概念、あるいは認識から独立の夢の実在性、夢の現実性が揺らぐことはない。

 夢が単に《夢》として理解されるならば、それは現実=覚醒のなかに落とされて、夢と現実の入れ子構造を形成するだろう。しかし〈夢〉、すなわち現実=夢は、《夢》という概念や認識から独立に実在するものなのだから、現実=覚醒のなかに落とされることができない。現実=夢は、現実=覚醒に包み込まれることがなく、この両者は入れ子構造を形成しないのである。現実=夢と現実=覚醒はどちらが上位に立つかを決定できるようなものではなく、目覚めを境にして相対するだけなのである。

 このように目覚めを境目として中心にすることで、その前後の現実を対等に扱うことができ、その上でその前後の変化を明らかにすることができる。夢は現実であり、かつ現実と対立する。夢は〈夢〉として現実性を持つが、目覚めを境にそれは現実=覚醒と対立する。

 

 しかしその両者はなぜ対立しなければならないのか。実はこの対立は、現実=夢と現実=覚醒の、現実性そのものの対立ではない。現実であるという点において両者は全く異なるものはなく、その点のみに注目すれば両者を区別することはできない。この両者を目覚めにおいて区別するものが存在する。それは現実性そのものではなく、その内容であり、現実=夢を《夢》として理解する、相対的な外的状況、そして何より目覚めの圧倒的な力である。

 目覚めの瞬間に、いままで目の前にしていたものが後景に退いてゆくとき、それらを夢として理解するからといって、それは現実のなかの夢という入れ子構造を即座に意味するわけではない。この観点には、覚醒状態の「私」という同一性を持った入れ物、あるいは直線のようなものが前提とされている。

 目覚めの瞬間に「夢だった」と分かるのはそもそもなぜなのか。夢は現実=覚醒の一部分であるという入れ子構造があるから、それが夢だったと分かるのではない。目覚めの瞬間の、現実=覚醒の世界への違和感や戸惑い、現実=夢の世界への郷愁が、入れ子構造に対して意義を申し立てるだろう。目覚めの前後の二つの現実は、全く対等で、どちらかがどちらかを包含してしまうわけではないのである。

 現実=夢と現実=覚醒が区別される理由として、まずはそれらの内容の違いを挙げることができるだろう。たいていの場合、現実=夢の内容と、現実=覚醒の内容は異なっているはずである。だからこそ、これは外的状況とも関わることだが、目が覚めて「眠っているところから起きた」という内容・状況と、現実=夢の内容と比較することができ、それらは区別されることができるのである。

 だが、現実=夢の内容と、現実=覚醒の内容が同じであるという事態を容易に想像することができる。現実=夢のなかで私はいつもの部屋でいつもの寝床で眠っているということが考えられる。

 しかしそれでも現実=夢と現実=覚醒との間に目覚めが介入することで、両者は区別されるだろう。だがそれは両者の比較によってなされる認識的な区別などではなく、圧倒的にやって来るようなもので、目覚めのその瞬間に、なぜか区別が与えられるのではないだろうか。おそらく、現実=夢と現実=覚醒の区別はこの圧倒的な力によって根源的に区別され、その上で両者の比較を行うことができるのだろう。

 現実=夢と現実=覚醒は、目覚めを境にして、不可避的に区別されるのである。両者の現実性のみに注目すれば、両者はともに現実として一色になってしまい、区別することは不可能であるが、その間に目覚めの圧倒的な力と両者の内容の齟齬を認めることによって区別することができる。

 

 

◆同一性の揺らぎ――「私が」夢を作り出すのか?

 〈夢〉と《夢》の間には、存在論的な夢と概念・認識論的な夢という現実的な差異が存在する。両者の身分は異なっている。だが現実=夢と現実=覚醒の落差は、対等な対立であって具体的な差異はそれらの内容しかない。内容のほかに差異を作るのは目覚めの圧倒的な力であるが、目覚めを中心にして両者を見れば、それらは全く対等なのである。ここに入れ子構造は存在しない。

 そのとき、現実=夢から目覚めた私は、戸惑いを覚える。全く対等な二つの世界を、私は移動したことになるからである。夢と現実は入れ子構造をもはや形成しない。両者は対等なものなのであって、夢と現実は異世界どうしとみなすことができるのである。

 夢から目覚めた瞬間、どうして夢の世界へ郷愁を覚え、目覚めた世界に違和感を覚えるのか。夢の世界こそが昔なじみの、私の居場所のような気さえすることがあるのはどうしてなのか。そのとき私自身が何者であるのか、少なからず見失うのはどうしてなのか。……

 現実=夢の世界と、現実=覚醒の世界を、パラレル・ワールドのように捉えることで、その問いに答えることができると思われる。

 

 たとえば次のような事態を想定してほしい。ある日突然私の記憶が全て変わってしまったという事態である。ある瞬間に今までの記憶を全て失い、新たに全く異なる記憶を何者かによって植えつけられたとする。しかし私はその記憶の変化に関する記憶も知識も持っていない。私は当然のように新しく植えつけられた記憶によって、世界と自分を理解するだろう。その記憶をずっと保持してきたと思うだろう。ところが、その新たな記憶は、実はずっと何も変わらずに存続している世界とは何ひとつ一致しない記憶なのである。

 私は新たに植え付けられた記憶に従って、自分にとって馴染み深いものを探そうとする。しかし私の家族や友人、自分の持ち物は一切見つからない。世界とは何ら関係のない記憶が植えつけられているからである。私は全く知らない人間に、全く知らない名前で親しげに話しかけられるだろう。

 このとき私は何を思うだろうか。私には記憶の変化の記憶も知識も無い。そうであるならば、私は「世界は突然変わってしまった」と考えるはずである。しかし私以外の他者は全て、「私の記憶が変わった」と考えるだろう。両者は渾然一体となっていて、区別することはできないのである。

 これを夢に当てはめて考えてみる。夢から覚めて世界の変化を感ずるとしても、一般的な夢理解にしたがえば、夢は幻覚にすぎないのだから、それは単に私の記憶の問題とされるだろう。しかし、記憶が変化してしまったということと、世界が変化してしまったということを区別することはできない。そうであるとすれば、夢から覚めるたびに、私は世界の変化を、あるいは異世界への移動をしているとも言えるはずなのである。そしてそうとしか考えられないのである。

 目覚めの瞬間において私は、私の持つ現実=夢の記憶と現実=覚醒の世界の事実との間に立たされ、もちろん全く同じ意識の主体であり続けるはずなのだが、私自身が何者なのかを見失うことになるだろう。

 世界に存在する、馴染み深いものが私という人格や記憶を保証してくれているのであって、それらが全て失われてしまえば、私自身の記憶がどんなに残っていようとも、私は全く同じ人物ではありえなくなってしまうのである。夢からの目覚めにおける激しいまでの郷愁や、自らを見失うようなめまいはこれに由来するものと考えることができる。

 一貫性や同一性を持つ「私」というものが存在しないということは、夢を作り出すような「私」が存在しないという意味にほかならない。夢を幻覚として形成するものがあるとすれば、夢を包み込むような、一貫性や同一性を持つものにほかならないが、それは不可能である。現実=夢と現実=覚醒は交互に現れるのみであって、一貫性や同一性を保持した何者かがそれを形成するわけではないのである。

 

 

◆まとめ

 私は夢から目覚めるたびに私を見失い、私を見出し直している。いままでの議論によって、夢は幻覚などではなく、間違いなく現実であって、現実=夢と現実=覚醒は入れ子構造を形成せず、目覚めを境にして対等に対立するものであることが明らかになった。さらに、目覚めにおいて私は私自身の同一性の揺らぎを覚えるのである。

 もし夢と現実の入れ子構造を維持するなら、夢を包み込む現実の側の一貫性や同一性が必要となるのだが、目覚めの度にそれは失われる。夢を包み込むような現実の側の一貫性や同一性は保証されない。そうした一貫したものが存在しない以上、現実=夢と現実=覚醒は交互に現れるだけであって、どちらかがどちらかを包含することはない。

 夢を包含するような現実の一貫性や同一性などなく、現実=夢と現実=覚醒が交互に現れるだけなのだから、夢は現実の何者かが形成するものではありえない。目覚めるたびに私の同一性は揺るがされる。目覚めの際に戸惑い、めまいを覚える私の与り知らぬところから、夢はやってくるのである。

 

(2012年10月14日)