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消えてしまったものと再会する奇跡――「君の名は。」感想文と少しの考察

 

「【感想文】「君の名は。」について」/「響き」の小説 [pixiv]より転記。

 

◆はじめに

 

 ※本感想文は、2016年8月26日に公開された新海誠監督作品「君の名は。」のネタバレを含みます。まだご覧になっていない方はご注意ください。

 

 

 2016年8月26日に公開された、新海誠監督の最新作「君の名は。」を見ました。最高でした。映画でこれほどの感動を覚えたのは、いつ以来でしょうか。この「君の名は。」という作品は、私にとって大事な作品の一つになりました。

 この映画は私にとって、何か希望めいたもの、救済めいたもの、福音めいたものであるように思います。これを見る前と、これを見たあとでは、まるで私自身が別人になったかのようです。あるいは違う世界に生きているかのような、別の人生を歩いているかのような、そんな風に思えます。大げさに聞こえるかもしれませんが、いまそう思っています。今後、これに匹敵する感動を覚える作品に会うことができるか、それもまた楽しみであります。

 

 

 

◆感動の三つの層

 私が抱いた「君の名は。」の感動は、三つの層に分けることができると思われます。第一の層は、この作品自体に由来する感動です。「君の名は。」は、新海監督の作品を見たことがない人でも、おそらく小学生でも、面白いと思うことができる映画だと私は考えます。作品自体が良質なエンターテイメントとして完成されています。

 第二の層は、新海監督の作品の集大成としての完成度に由来する感動です。「君の名は。」には、新海監督の過去の映画作品に登場したモチーフや、通底するテーマが反復して登場します。そしてそれらは、「君の名は。」の物語自体に有機的に組み込まれながら、過去作に対する解答であったり、過去作を乗り越えるように描かれているのです。

 そして第三の層は、私個人に由来する感動です。簡単に述べると、それは、夢が消えてしまうということへの郷愁と、それが何であるかは分からないけれど自分は何かを失っていてずっとそれを追い求めているという感覚との二つに分けることができます。映画冒頭の瀧のモノローグで語られていた部分(映画パンフレットの冒頭に書かれている文がそれに相当すると記憶しています)です。これらは私にとって、幼少期から切実なものでした。

 ですが、その切実さを人に伝えることができるのか、人と共有することができるのか、私には分かりません。映画は、三葉と瀧それぞれの名を、それぞれの存在を忘れてしまうことの郷愁と、相手を探すことの、切実さとしてうまく演出されていました。私にとっては、「君の名は。」を見るずっと前から、この切実さは親密なものでした。魂の深部にあるようにさえ思言われます。この切実さそのものが、他の人に理解される類のものなのか、自信がないのです。でもこの第三の層に由来する感動をこそ、ここで言葉にする必要があるように、私には思われるのです。

 この感想文では、まず全体の雑感を述べてから、主に第二の層と第三の層に由来する感動を述べてゆくことにするつもりです。

 

 

 

◆雑感

 

◇全体の所感(箇条書き)

・背景美術は相変わらずの美しさ。新海さんの描く東京はいつも新宿近辺で、どうして新宿なんでしょうね。私は新宿が好きなので新宿が描かれるのは嬉しいです。

田中将賀さんのキャラデザが良いです。田中さんだと知らずに映画を見始めた頃、何となく「心が叫びたがっているんだ」を思い出していたら(坊主のてっしーのせいかも)田中将賀さんで驚きました。田中さんのキャラデザは、人物がとても魅力的で好きだったので、これも嬉しかったところですね。

・キャラデザも良いですし、表情の変化に豊かさがありました。かつて新海監督の登場人物はわりと記号的であまり表情がコロコロ変わるという風ではなかったように思うのですが、瀧と三葉は表情豊かでとても魅力的です。(男女の入れ替わりの表現のため?)

・モノローグが少なく、出来事と会話で物語が展開していきます。展開にドライヴ感がありました。

・神木くんの演技は大変素晴らしかったです。

・三葉の声が明里の声に似ています。監督の好みの声なのかもしれませんね。

・あと新海監督、おそらく井上和彦さんも好きですよね。(「雲の向こう」「星を追う子ども」)

・ユキちゃん先生!

・口噛み酒!

・口噛み酒!!

・入れ替わったポニーテールの三葉に惚れます。美術の授業中にキレたところが良かったです。

・音楽も悪くないです。天門さんじゃないということでけっこう残念に思っていたし、どうしてRADWIMPSなんだろうと思っていましたけど、映画を見ていて全く気になることはありませんでした。

 

 

◇事前に考えていたこと、印象、噂

・「君の名は。」を見る直前の新海監督作品への印象

 「雲の向こう、約束の場所」を高校3年生のころに見て以来新海誠監督作品の(おそらくわりと熱心な)ファンです。「雲の向こう」と「秒速」からは多大な影響を受けました。

 「秒速5センチメートル」に熱中した時期を越えてからは、少し気持ちが離れていました。公開作は全て見ていますが、「君の名は。」公開前には、けっこう熱は冷めていたと思います。「秒速」を見返すのが少し気恥ずかしいという感情さえ抱くようになっていました。

 

・事前の印象

 「君の名は。」公開前の予告はほとんど見ていません。事前に仕入れた情報は、夢の中で入れ替わって、互いに相手が誰かを知ろうとするということ。非常に新海監督らしいな、と思ったのを覚えています。

 一方、公開直前に、山手線内の広告が「君の名は。」一色になった車両があり、それで初めてキャラクターを見て思ったのは、新海監督らしくなくキャラクターがいまどきのアニメっぽくてかわいいなと。

 

・聞いていた噂

 RADWIMPSが音楽を担当したというのもあるのか、広告を大きくうっているからなのか、劇場には10代が多いという噂を耳にしていました。「10代の若者たちの中に、昔からのファンのオタクがいるよ」とか、「オタクたちの長文ツイートが読めるよ」とか、「新海ファンの男って地雷だよね」とか。

 前述のとおり、気持ちが少し離れていたので、噂話を語る人たちが何を言わんとしていることは何となく分かっていたものの、どこか悔しさを感じていました。とはいえそれは私が地雷ではないということを意味しません(事実私自身はその地雷の一例だと思う)。

 

 

 

◆感動の第二の層――新海監督の集大成

 

◇過去作から反復する諸要素

 「君の名は。」は新海監督のこれまでの映画の集大成であると言えます。今までの作品に散りばめられていた要素が凝縮し、通底しているテーマが物語の根幹に据えられています。そして今までの作品を、今作は乗り越えていると思われます。

 こちら側から隔絶された向こう側の遠くの場所が登場します。新海監督作品に古くからあるモチーフです。「ほしのこえ」で何光年も離れ宇宙であり、時間の差です。「雲の向こう」では国境の向こうに聳える塔であり、サユリの夢の中です。「秒速」ではまず栃木の岩舟であり、電車が遅延することでその遠さが強調されています。「星を追う子ども」ではアガルタという異世界であり、さらに死者の行く先です。「言の葉の庭」では、15歳の少年の世界(学校)と27歳の大人の世界です。

 「君の名は。」では、これらの要素の多くが反復するように登場し、物語の中に組み込まれています。瀧と三葉は住む場所が東京と糸守(飛騨)と、遠く離れています。住む文化圏もかなり異なります。二人の間には実は3年という時間の差があります。二人は入れ替わって、特殊な交流の仕方をしますが、目覚めるとその記憶をなくしてしまいます。三葉は隕石によって一度死んでしまいます。死んだ三葉たちをもう一度生きさせるために、瀧は幽世とされる場所に足を踏み入れます。これらは、物語に有機的に組み込まれつつ、新海監督の作品に馴染んだ人であれば、親しみを感じるはずだと思われます。

 

 

◇向こう側から連れ戻す

 新海監督の作品では、主人公の相手役の多くは、向こう側の遠くへと消えてしまいます。「ほしのこえ」では何光年もの彼方(電子メールはノイズだらけで読めない)、「雲の向こう」では夢の世界、「秒速」では手紙のやり取りが消え、「星を追う子ども」でシュンは死んでしまう。主人公は向うの世界から彼らを連れ戻そうとしますが(「秒速」は例外かも)、ほとんど成功しません。「雲の向こう」ではサユリは夢の中の記憶を失ってしまうし、「星を追う子ども」では死者の蘇生に失敗する(モリサキ)。

 「君の名は。」を見た後で「言の葉の庭」を見ると、「星を追う子ども」以前ではこちら側に引き戻すことに失敗していたのが少し前進している、というように見えるようになりました。「君の名は。」を見た後のカタルシスを覚えている状態で、「秒速」や「星を追う子ども」を見ようと思うと、少し気持ちが重たく感じられたのですが、「言の葉の庭」はそうは感じられません。

 「君の名は。」もこれら通底するテーマを反復します。向こう側/こちら側という新海監督お得意の世界観を舞台に、三葉が向こう側に落ちてしまい(隕石落下による死)、それをこちら側へ救い出そうとします。「君の名は。」がまず素晴らしいのは、このテーマをエンターテイメント性のある物語へと昇華することに成功している点です(感動の第一の層)。

 さらに加えて、三葉のこちら側への救出に成功しています。この成功は、新海監督作品の系列の中で見ても大きな前進(まるで「秒速」のときに肯定できなかったことを肯定できるようになったかのような)であり、物語のカタルシスの大きさに寄与していると思われます。

 

◇東京で三葉が瀧を見つける場面

 向こう側に落ちた人物の救出に成功する、という前進に加えて、さらに興味深い場面があります。前進というか、まるで新海監督の今までの作品の思いに答えるかのようです。それは東京で三葉が瀧を見つける場面です。

 三年前、三葉は瀧に会いに東京に来ていました。一日中東京を歩き回って、最後代々木駅(おそらく)のホームで、電車に乗った瀧の姿を見つけます。このシーンは、新海監督の作品に反復して現れていたシーンの新たな反復であり、それへの答えでもあると思われます。

 まずは「雲の向こう」のパイロットムービーです。電車に乗ったヒロキが、駅のホームに立つサユリの姿を見つけます。見つけますが、電車は駅を通過して行ってしまいます。このシーンは、本編では採用されていません。

 続いて「秒速」のシーンです。第三話最後のMV部分にそれはあります。電車に乗った貴樹が、通過する駅のホームに、ある女性が立っている影を見つけるというシーンです。こちらも電車は駅を通過して行ってしまいます。(ところで、この女性は映画の物語上、明里であるかどうかは明言されていません。おそらくその女性は、明里であると断定しない方がよいと思われます。)

 以上の二シーンは、どちらも電車の中から駅のホームに立つ女性を見つけるというシーンです。しかも「秒速」の方は駅にいる女性はこちらに気づいていないように見えます。(「雲の向こう」のパイロット版では、サユリは電車の中のヒロキに気づいているように見えます。ヒロキがホームにいるサユリに気づいたとき、「ねえ気づいて」というサユリのセリフが重なっていて、次のカットでは草原に立つサユリがこちらを向いています。)

 以上の二場面に対して、「君の名は。」では立場が逆転しています。ホームにいる三葉の方が、電車の中にいる瀧を見つけ出すのです。ヒロキも貴樹も、駅のホームに立つ女性を見つけていながら、会うことはできませんでした。三葉は、駅に停車した電車に飛び乗り、瀧に声をかけるのです。この場面を見たとき、私は心の中で「やっと見つけてくれたんだ!」と感動の声を上げて、声を殺して涙していました。

 そしてこの場面について、指摘したい点がもう一つあります。電車の中にいる瀧は、自分が探されているということを知らないのです。「秒速」では、駅の女性はこちらに気づいていませんでしたので、立場が逆転した瀧が知らないのも当然かもしれません。ですが、瀧はこの後、三葉を知るようになります。瀧がまだ三葉を知らないときに、実は瀧は三葉に会っていた。そしてそのときに瀧は組紐を譲り受けています。

 ここから先は、私の考えすぎかもしれません。私は「君の名は。」のこの場面を、この世に生まれてくることの隠喩だと思いました。生まれてくるとき、親は子を一方的に認識していますが、子はそれを知りません。出生の暗示、とは考えすぎにも思えますが、三葉が東京に行くのは隕石落下の前日です。しかもこの場面が挿入されるのは、すでに隕石落下によって三葉を含む糸守の人たちが犠牲になったことを知った後でした。この電車での組紐の伝達の前後に、生死があります。

 口噛み酒を飲んで頭を打ってから、瀧は三葉の出生からの走馬灯を見ます。そして最後の入れ替わりが生じる。ここで糸守のひとたちを、三葉を救うために入れ替わった瀧は奮闘します。もう一度生きさせるために。もう一度生まれ直すために。

 三葉が電車の中で瀧を見つけた場面、そして瀧と三葉が奮闘し、結果それが実って後から糸守の人たちが救われたことが判明したこと。これらを見ることができただけで、私の中では大満足でした。

 

◇エンディング

 ですが、「君の名は。」はそれでは終わりません。ラストに最大のクライマックスがあります。瀧と三葉の入れ替わりによって世界が書き換わり、それらの記憶も遠くなった頃、二人はまた代々木駅(おそらく)で、電車に乗った互いの姿を見つけ、ハッとします。二人は電車を降りて互いを探しに走ります。

 クライマックス、印象的な階段で、二人はとうとう互いを見つけます。二人とも何かを言いたげだけれども、二人は無言ですれ違います。

 この場面は新海監督作品のファンなら誰もが気づくように、「秒速」のラストの反復です。「君の名は。」を見ていた私は、無言ですれ違ったとき、「三葉の命も助かったわけだし、二人とも記憶を失っているみたいだし、無言ですれ違っても、ここでこうして会えたというだけで満足だ」と思っていました。

 が、瀧が三葉に声をかけたのです。「どこかで会ったことがある」。三葉が「私も」と答える。「君の名は――」これで閉幕です。私はこの最後のやりとりにむせび泣きました。繰り返しますが、隕石衝突の被害を回避することができたというところが、物語の一つのクライマックスだったので、「秒速」を反復するならここで声をかけなくても十分に満足だったんです。

 でも今作はそれを越えてくれた。記憶を失っても、三葉も探していてくれていた。瀧が声をかけてくれた。三葉がそれに答えた。この最大のクライマックスが、私にとっては希望のようなものであり、福音のようであり、救済のように思えたのです。

 探しものが何であるのかも分からずに探していて、でもその探しているものもこちらを探してくれていて、それを見つけることができて、しかも出会うことができた。新海監督の過去作の主人公たちだけでなく、この私の今までのあらゆることが報われたかのようなきがして、そしてこれからのあらゆるものが輝くような、そんな風な気持ちになることができたのです。

 このクライマックスの場面の感動に、第三の層の感動が凝縮されています。

 

 

 

◆感動の第三の層――消えてしまったものと再会する奇跡

 

◇夢が消えてしまうということの郷愁

 夢は、それを見ているときはまさに現実にほかならないのに、いったん目が覚めると急速に背後に退いて行って、その現実味を失ってしまいます。そしてしばらく経てばその内容は記憶から失われてしまいます。この消えてしまう(消えてしまった)夢に対して、何か強い郷愁のようなもの、あるいは夢が消えてしまう(消えてしまった)ことへの焦りのようなものを感じたことがあるでしょうか。

 物心ついたころから、私にはこの郷愁と言うか焦りのようなものがありました。朝、夢から目を覚まして、布団の中にいる自分の身体感覚や、視界に映るものや、思考が再びはっきりとしだすにつれて、ついさっきまで現実としてありありとあったものたちが急速に消えていくのを、私は不思議だとも思い、寂しくも思っていました。ついさっきまで、確かに現実だったのに。このついさっきという時間と、目覚めた後の今の時間との間の、不可逆で絶対的な隔絶に、私はどうしようもない無力感や寂しさや郷愁のようなものを感じるのです。

 そして目が覚めた後は、夢の内容を忘れてしまう。確かに夢を見ていた。夢の中でいろいろなものを見、いろいろなものと会い、いろいろなことを体験した。そうであるはずなのに、それらは忘れられてしまう。忘れられてしまえば、それらは始めからなかったことになる。ついさっきまで、確かに体験していたことなのに、覚醒という絶対的な隔絶の後では、それらはなかったことになってしまう。ひどいときには、夢を見たということさえ忘れてしまう。

 確かにそこに存在したのに、覚醒の後ではまるで最初からなかったことになってしまう。ここに不可逆さ、絶対的な隔絶を感じ、手を伸ばしてももう届かないという無力感、でも手を伸ばして思い出したいという郷愁のようなものを抱くのです。夢を忘れてしまう、ということの郷愁の切実さはこういうものです。

 このように書いて、分かってもらえたでしょうか。映画パンフレットの冒頭には、「見ていたはずの夢は、思い出せない。ただ、なにかが消えてしまったという感覚だけが、目覚めてからも長く残る」と書かれています。これは映画冒頭の瀧のモノローグの言葉であったと記憶しています。私はこの言葉を、まさに私自身の言葉として聞いたのです。

 

 

◇探しものをしている

・夢の中に置き忘れてしまったもの

 探しものの一つは、夢の中に置き忘れたものです。夢の中で何かを見、何かに出会い、何かの体験をすると、もちろん心を動かされます。ですが、夢から目を覚ましてしまえば、夢の中で何を見たのか、何と出会ったのか、何を体験したのかは急速に消えてしまいます。

 ですが、夢の中のそれらによって動かされた気持ちだけが、夢から覚めても残ることがあります。その例として、一つは恐怖。怖い夢を見たときの怖さは、目が覚めた後にも持続することがあります。内容は覚えていないが、怖い夢を見たことだけは覚えている、というような。

 あるいは、恋です。夢の中で恋をするということがあります。片思いをしている相手が夢の中に出てくることがあります。これは私の個人的な特性なのかは分かりませんが、片想いをしている相手は、顔が思い出せなくなります。顔が思い出せないのに、夢の中にその相手が出てくるのです。夢の中で、その好きな人だと分かるのは不思議です。そして夢から醒めると、その相手の顔は消えてしまい、夢の中でどんなやり取りをしたかもほとんど忘れてしまいます。

 さらに、恐怖や恋のように明言できる感情ではないが、何か必死な思いのようなものだけを残して夢から覚めることがあります。そしてそのとき夢の内容を忘れてしまうと、夢の中でなぜか必死だった、という記憶だけが残ります。そういうとき、自分はどうしてあんなにも夢の中で必死だったんだろう、と一日中気にかかります。それで夢の内容を思い出したいと考えても、思い出すことはできません。なぜそんなに必死だったのか、それは夢の中に置き忘れてきてしまったのです。

 まるで自分自身の一部を夢の中に置き忘れてきたような、そういう気持ちに浸されるのです。この気持ちを分かってもらえるでしょうか。

 

・入れ替わりについて――夢世界と、死あるいは生まれてくる前

 私は、物心ついたころから、自分がこの性別に生まれてきたということを悲しんでいました。もう一つの性別に生まれたかった、と幼少期から考えていました。そうは言っても私は性同一性障害ではありません。小学校低学年くらいの頃、初めて性同一性障害のことを知ったときのことを覚えています。ひょっとして私はそれなんじゃないか、と一瞬思いましたが、いや違うとすぐに結論づけることができました。

 もう一つの性別に「なりたい」と思うのではなく、「始めからそう生まれてきたかった」と思ったからであり、私が恋する相手は異性(ヘテロセクシュアル異性愛)だと思ったからです。ヘテロであることと性同一性障害ではないことは、必ずしも一致しませんが、子ども心に私は自分の身体の性と性自認は一致すると結論づけました。以来、今のところ私はシスジェンダー(生まれてきたときに診断された身体的性別と性自認が一致している)かつヘテロセクシュアルです。

 とはいえ、別の性別に生まれたかったという願いが消えたわけではありません。私は自分の鏡に映る自己像が嫌いです。それを見たくないのです。私はいつも自分の理想の自己像を探している。私が持つことができなかったものを持っている人を探している。ロマンチックに言えば、私の半身のようなものを探しているのです。

 そう願う者にとって、他者の身体と入れ替わるというのは夢のような出来事です。「ドラえもん」の入れ替わりロープを、何度願ったことでしょうか。

 そういう私には、恋愛をするときに悪い癖があります。恋する異性に、自分が生まれてきたかった理想を見出してしまうのです。私がそうであるような特性を持つ人が、皆こういう恋愛をするとはかぎりません。少なくとも私がそうだ、ということです。

 恋をする相手に自分の理想(像)を見てしまう、ということは、相手を単なる像とみなしていることです。しかもその像は、私の自己像です。つまり、ここには人間が二人いるのではなく、人間が一人しかいないことになります。恋する相手を理想の自己像として愛するのですから、それは正確な意味でのナルシシズム(自己愛)にほかなりません。

 ナルシシズムそのものは悪いことではないと思われます。自己愛のない人はほとんどいないでしょうから。ですが、恋愛場面において、その相手を理想の自己像として扱ってしまうとすれば、それは二人の人間の関係としてはかなり問題であると思われます。相手を一人の独立した人間として扱っていないということを意味するのですから。

 「君の名は。」では、瀧と三葉は互いに入れ替わり、日記を通して交流します。日記における交流では、二人は他者どうしですが、相手の姿は入れ替わった先で自分の姿として認識されます。瀧と三葉が互いに恋をするとすれば、そのときその恋の相手は、半分は自分自身だと言うことができると思われます。最後の入れ替わりのきっかけとなったのは、三葉の半分である口噛み酒を飲んだからでした。ゆえに瀧と三葉の二人は、二人であり、一人でもあるような関係であると言えます。

 夢の中というのは、生まれてくる前に似ているとは言えないでしょうか。夢の中では、起きていることは全て現実ですが、目を覚ましてからは「夢」という枠組みを与えられることになります。目が覚めた後で振り返る夢の内部の現実味というのは、まだ夢とか現実とかそういった区別がなかった状態の現実味だった、と言えます。

 生まれてくる前は、まだ性別が決まっていません。もちろん出生前に性別を調べることはできます。が、問題は自認です。生まれてくる前(物心つく前)には、自分が男であるか女であるかはまだ分かっていません。自分の中でまだ区別がなかったはずです。

 夢の中で男女が互いに入れ替わる、という物語は、この両者の類比を強調してくれるように思えます。ですから、世界を書き換えて死を回避する(もう一度生まれ直させる)ためには、幽世(あの世)へ行き、もう一度入れ替わりを実現する必要があったのです。

 三葉の死を回避するということは、夢世界=幽世=未分化の世界から三葉を連れ戻すということだと考えられます。夢の中に置き忘れたものを、夢世界に取りに行くのです。

 

 

◇奇跡――エンディングについてもう一度

 三葉を死=夢世界から連れ戻すことに成功するのは物語終盤の重要な山場ですが、最大のクライマックスはその後の最後の場面にあります。三葉の救出に比べれば、ずっとささやかな出来事ですが、感動の第二層的だけでなく、第三層的にも最重要の意味を持つのはこの最後の場面です。私にとってクライマックスの感動の最大の理由は、第三層にあると思います。

 三葉の救出のために世界を書き換えた後、瀧と三葉は入れ替わりに関する記憶を失ってしまいます。瀧と三葉の経験した入れ替わりと、世界の書き換えは、消えてしまいました。まさに夢のように忘れられてしまったのです。完全に忘れられてしまったとすれば、瀧にとって三葉は、三葉にとって瀧は、全く初めから存在しなかったことになります。

 が、瀧も三葉も、何か探している人物がいるような感覚だけは残していました。映画のラスト、代々木駅で互いの姿を認めたとき、二人はお互いに出会おうと奔走します。最後の印象的な階段の場面で、二人はやっと再会します。が、声をかけることができません。

 「秒速」の反復であるこの場面において、互いに声をかけずに閉幕ということもありえたはずです。「秒速」では踏切が開くのを待っていたのは貴樹だけでしたし、「君の名は。」では世界の書き換えという山場を越えているので、物語としては十分でした。

 ですが、「君の名は。」は違ったのです。瀧が声をかける。そして三葉が「私も」と答える。これが私にとっては、とてつもなく、感動的なのです。

 瀧も三葉も、互いのことをすっかり忘れています。夢のように消えてしまっています。が、二人とも互いをそうとは知らず探していた。出会うことができた。瀧からすれば、それは夢の中に置き忘れた人物が、こちらを探してくれていた、そして見つけてくれた、ということを意味します。

 三葉の死を回避したときは、瀧が覚えていて、瀧の方が夢の中に手を伸ばしました。ラストの階段の場面は、二人が二人とも夢の中に手を伸ばしたのです。あるいは瀧か三葉それぞれの視点に立つならば、夢の中に置き忘れた人物が、夢の中からこちらに手を伸ばして、こちらの世界に出てきてくれたのです。これほどの奇跡があるでしょうか。

 「クロノクロス」というRPGがあります。私が最も愛するゲームですが、このゲームの物語もまた、世界の書き換えを行います。世界の書き換えに成功して迎えるエンディングでは、主人公は記憶を残したまま、物語の始まりの地へ帰ります。そばにいる幼なじみに、書き換える前の世界の出来事を話しますが、全く理解しません。世界を書き換えて、主人公が経験した物語は、夢のように消え去ってしまったのです。ただ主人公は記憶を残して。

 このエンディングでさらに印象的なのは、本作のヒロインが、書き換えた後の世界で何かを探している様子が描かれていることです。「でも、いつかきっとまた会える、あなたと、わたしは。別の場所、別の時間で。互いにそうと気づくことはないかも知れないけれど」「会いに行くからさ/世界中さがしても/いつかきっと/きっと」という言葉が添えられています。エンディングテーマも「さがしつづけてきたよ/名前さえ知らないけれど」と歌っています。ヒロインは、書き換えた後の世界で、主人公を探しているのです。

 「クロノクロス」のエンディングでは、書き換わった後の世界で主人公とヒロインが出会うところは描かれません。ヒロインが主人公を探している描写があるのみです。「君の名は。」では、なんと二人は出会うことができた! 消えてしまった夢世界から飛び出して、互いに出会うことができた! 入れ替わっていたことの記憶はもうないかもしれないけれど、運命的な二人が再会することができた! これほどの奇跡、これほど感動的なことがあるでしょうか。

 確かに一度存在したのにその後に初めから存在しなかったかのように消えてしまったものと、夢の中に置き忘れたものと、自分にとっての半身と、再会することができたのです。こういう出会いが、フィクションにおいてであるとはいえ可能なのだということを、私は初めて実感することができました。

 私自身にとって、夢の中に置き忘れてしまったものが、私にとっての半身が、私を探しているのかもしれない。そういう存在が、この世のどこかで息をしているのかもしれない。そう考えたとき、私は私が息をするこの世界が、違った風に見えてきたのです。夢の世界に置き忘れたものはもう消えてしまって二度と会うことはない、そう思っていたけれど、ひょっとしたら、もう一度会うことができるかもしれない。しかも私を探してくれているのかもしれない。「君の名は。」を見終えて、世界や、私の人生が違った風に感じられるのです。

 

 

 

◆おわりに

 私の感想文は以上です。もしここまで読んでくださった方がいたとすれば、その方には感謝の言葉を申しあげさせてください。感想文の面を被った自分語りのようなものになってしまいましたから、読むのがさぞ大変だったのではないかと思います。

 ですがこれを語らないわけにはいかなかった。私にとって極めて重要な意味を持つ出来事ですから、それを言葉にしておきたかったんです。言葉にしなければ、私の感動は何か私秘的なものだというだけで終わってしまう気がして。

 一方で言葉にしてみれば私の感動何て陳腐なものでしかないことが判明するかもしれないというのもまた恐怖でした。うまく語れる気がしませんでしたから。今でもうまく言葉にできたか自信がありません。

 とはいえ、私秘的なものとして守るよりは、たとえ陳腐なものだったとしても言葉にしておきたかった。私の感動がどういうものだったのか、私も知りたかった。そしてそれを誰かに読んでほしかった。それらに成功したかどうかは分かりません。ですが、ここまで読んでくださって、私は感謝しています。

 「クロノクロス」は、長らく私にとって最も親密な物語でした。これからそこに「君の名は。」が加わります。「君の名は。」という作品が生まれてくれたことは、私にとってはこの上ない幸福です。

 

(2016年9月3日)