デレステで「草」が使用された日――「淫夢語録」の使用はなぜダメなのか

◇はじめに

 この記事は、デレステこと「アイドルマスターシンデレラガールズスターライトステージ」というゲーム内にて、「淫夢語録」である「草」という言葉が使用されたことの問題をその背景から記述し論じたものです。

 前半部がアイドルマスターシンデレラガールズ内において起きた出来事の記述で、後半部が「淫夢語録」の使用がなぜ問題であるのかを私にできる限り論じたものです。「淫夢語録」の使用の問題に関心のある方は後半部だけお読みください。「おわりに」にも書きましたが、私は差別の問題については専門ではありませんので、より詳しく分かる方に正確に論じてほしいと思っています。

 

 

 

◇目次

 

はじめに

新アイドルとなんJ

デレステのデレぽで「草」が使用された日

淫夢語録」の使用はなぜダメなのか

淫夢語録」の使用がなぜ差別になるのか

おわりに

 

 

 

◇新アイドルとなんJ

 

 2018年12月、モバゲーのアイドルマスターシンデレラガールズに約4年ぶりに登場した新アイドルの辻野あかりは、登場して間もなくこう言った、「あかりんご、歌うんご」。

 文末に「ンゴ」を付けて話すのは、インターネット掲示板2chの、なんJ(なんでも実況)での話し方である。過去日本の球団に所属していた外国人野球選手のドミンゴを笑いものにするところからきている。なんJは、主に野球(「やきう」)を話題とする場所であるが、たとえば犬を「イッヌ」と書くなどのように言葉の上での符丁が多く用いられ、それらは「なんJ語」と呼ばれている。それゆえ登場間もなく「んご」と喋った辻野あかりは、Twitter上の一部で(主になんJ語を面白がる人たちの間で)「新アイドルはなんJ民だった」として歓迎されるに至っている。

 

 ただし、ここにはいくつかの留保をする必要がある。また多くの人にすでに気づかれているように、辻野あかりはなんJ民ではない。

 まず一つ目は、辻野あかりが使用するのは「んご」とひらがなであって、なんJにおけるカタカナの「ンゴ」ではないということ。辻野あかりが「んご」を使用するのは、出身地である山形のりんごをPRするためにキャッチーなキャラ付けを求めたからである。ただし、辻野あかりがインターネットで検索してなんJ語の「ンゴ」を見て参考にした可能性は否定できないのだが、辻野あかりはインターネットに疎いようでもあるので、辻野あかりをなんJ民ということはできないだろう。

 そしてもう一つは、藤原肇の声優である鈴木みのりの存在である。鈴木みのりは「みのりんご」と呼ばれており、辻野あかりのモデルの一人だと言っても過言ではないと思われる。(ただし、この「んご」について鈴木みのり本人は「これ(みのりんごと呼ばれるの)はドミンゴ前」だと言っており、由来は異なるとはいえ、なんJ語の「ンゴ」を認知してはいるということがここから分かる。)

 

 辻野あかりは、山形県産りんごをPRしたいという目的でアイドルを目指した少女であり、話を聞くところ都会やインターネットに疎く、信じ込みやすい性格をしてはいるものの、両親想いの素直な子である。辻野あかりはなんJ民ではない。だが、Twitter上ではいまだに辻野あかりをなんJの名とともに紹介しているものが多く見受けられるし、なんJ民だと断定するものも少なくない。

 文末に「んご」とつけるキャラ付けをシンデレラガールズ運営が選択したということは、辻野あかりをなんJ民にしようという意図があったかどうかにかかわらず、こういう結果をもたらしたのである。シンデレラガールズ運営は、ここで慎重にならなくてはならない。その意図があろうとなかろうと、「なんJ民だ」と歓迎されてしまうようなところに種を撒くことは避けられるべきである。

 なぜか。それは、なんJと、同性愛差別を背景にした「淫夢語録」とは、切っても切れない関係にあるからだ。

 

 「淫夢語録」は、「真夏の夜の淫夢」というゲイポルノを笑いものにする中で生まれたスラング、符丁である。笑いを意味する「草」や、文末に「ゾ」を付けるもの、「不幸にも黒塗りの高級車に追突してしまう」「あっ(察し)」「ん? いま何でもって言ったよね」「(小並感)」「(迫真)」など多岐にわたるもので、主にニコニコ動画で使用されていたが、残念ながらいまではTwitterをはじめインターネットで見かけない日はない。

 なんJは、野球(「やきう」)を主な話題とするのだが、なんJと「淫夢語録」が切り離せない関係にあるのは、過去、プロ野球選手に「真夏の夜の淫夢」に出演した人がおり、そのことをなんJ上で笑いものにしているからである。

 したがってなんJ語を使用するということは、「淫夢語録」の使用までほとんど距離がないということを意味する。それゆえ、なんJ語の使用は避けられるべきだ。辻野あかりをなんJ民だという風潮にしないために、究極的には「淫夢語録」を使ってしまうようなアイドルにしないために。だから、辻野あかりが登場したその日、私はモバゲーのシンデレラガールズにその旨の「お問い合わせ」を行った。その返信は芳しいものではなかった。辻野あかりはなんJ民ではないのだから、今後の舵取りをうまくやってもらいたいと願うほかない。

 

 

 

デレステのデレぽで「草」が使用された日

 

 辻野あかりが登場してから約1か月が経ってから、その日は訪れた。デレステ内の短文投稿SNS機能であるデレぽにて、荒木比奈が「草」と書いて投稿したのである。

 荒木比奈は、思わず書いてしまったという風で、それに対して鷺沢文香が勘違いの反応を示したのだが、荒木比奈によれば「草」はネットスラングだけど辞書にも乗ったんだよ、ということであった。「ネットスラング」である「草」が辞書に載ったというのは、確かに事実である。

 

 だが、「草」は単なる「ネットスラング」ではない。これは「淫夢語録」である。もともと笑いを意味する言葉としては、本や雑誌などで「(笑)」とつける書き方が古くから用いられてきた。インターネット上のチャットや掲示板などでは、素早く記述できることが求められ、それは「(藁)」「ワラ」などとなった歴史があるが、その中で多く普及したのが「w」だろう。笑いをローマ字で入力するときの頭文字であるwの一文字で表せる簡便さや、「wwww」のように重ねて用いることで笑いの大きさをしめすこともできる。

 「草」という言葉は、この「w」を芝生の草のようなものに見立てているものであるが、おもに「真夏の夜の淫夢」を始めとしたゲイポルノを笑いものにするニコニコ動画で用いられ始めた言葉だった。「草不可避」「草を生やすな」(wを用いるな)「それはさすがに草」などのように使用する。

 「草」を始めとした「淫夢語録」は、ニコニコ動画やその界隈を飛び出して、それを知らぬ大勢の人たちにまで使用されるに至った。その結果が辞書への記載である。

 

 辻野あかりが登場したとき、警戒していたのは2つのことだった。ひとつは、アイドルがなんJを始め淫夢などのキャラ付けを伴って語られたり二次創作される風潮ができあがってしまうこと。もうひとつは、ゲーム内部で「淫夢語録」が使用されることである。一つ目の懸念を飛び越えて、たった1か月で二つ目のことが実現してしまった。

 デレぽでは過去に、これまた荒木比奈が「それはさすがに笑うっス」と投稿している。このとき、「さすがに草と書こうとしてやめたのではないか?」とTwitter上では言われていた。そのときからすでに「淫夢語録」の使用への警戒は始まっていたのだが、この場合は一応は言葉を書き換えている(と思われる)のであって、それを書き換えるというくらいには、デレぽの管理運営している人たちに一定の良識があるものだと私は思っていたのである。それは覆されてしまったのだろうか。

 

 実は外堀は埋まっていたのである。

 例えばラジオのデレパで青木瑠璃子が「ん? いま何でもって」と言ったり、何かのニコ生で原紗友里が「実家のような安心感」と言ったり、立花理香Twitterのフォロワー数が「114514」人になったとスクショを投稿したり、ニコ生で放送されているあみあみのラジオの運営コメントで「黒塗りの高級車」などの「淫夢語録」が使用されたり…… 過去にさまざまなところから「淫夢語録」は漏れ出ていたから、声優を始めとしてスタッフなど裏方では日常的に「淫夢語録」が使用されていることは想像に難くない。

 アイマスを離れても、杉田智和をはじめとした声優たちが淫夢語録を使用していたり、佃煮のりおなど有名な漫画家が「淫夢語録」を使用していたり、アニメ「ポプテピピック」で淫夢ネタが差し挟まれ「露骨な淫夢営業」として視聴者に歓迎されたりしている事実がある以上、常に警戒しないわけにはいかなかった。

 それでも、デレぽにて書き換えられた(と思われる)例があったために、ゲーム内部で使用されることはないんじゃないか、と思っていた。でもそれはただの私の希望的観測だったのだろうか。

 抗議として問題を「お問い合わせ」もしたが、伝わっていることを願うしかない。

 

 奇しくもこの日(2019年1月10日)は、2人目の新アイドルがモバゲーの方に登場した日であった。2人目の新アイドルである砂塚あきらは動画配信をしている子で、インターネットに慣れている。そのためか、新アイドルどうしという繋がりもあり、砂塚あきらと辻野あかりは並べて記述されることが多かったが、そのとき辻野あかりをなんJ民と記述しているものも少なくなかった。またさらに、次に来るであろう3人目の新アイドルは「淫夢厨」ではないかという声もあるのである。それだけはどうか避けてもらいたいと祈るよりほかない。

 

 

 

◇「淫夢語録」の使用はなぜダメなのか

 

 「淫夢語録」の使用がダメなのは、端的にそれが差別行為だからである。

 荒木比奈が「草」を用いて投稿した際に、「解釈違いだ」という声があったが、その理由は、「荒木比奈が公共の場でネットスラングを使うはずがない」というものだった。私が「淫夢語録」の使用を問題視するのは、このような理由ではない。その使用が差別行為だからだ。

 

 

・「淫夢語録」の使用がダメなのは、ネットスラングだからではない

 2ch以来、ネット上のスラングをネット以外の日常の場で使用するのは避けられるべきである、という傾向が見られることがある。これは、2chスラングを使用するということがオタクであるということを示すことであり、それは恥ずかしいことだからだ、という考えに基づいていると思われる。

 「淫夢語録」の使用がダメなのは、こうした理由ではない。その使用が差別行為だからである。日常であろうと、ネット上であろうと、その使用は避けられるべきである。

 

 

・「淫夢語録」の使用がダメなのは、それが同性愛に関係したスラングだからではない

 「淫夢語録」は同性愛に関係したスラングだから、公共の場で用いるのは不適切だ、と考えられているかもしれない。だがもしそう考えているのだとすれば、それ自体がまた同性愛への差別であると言える。同性愛に関係していることそれ自体が不適切であるはずはなく、その理由も何もない。「淫夢語録」の使用について、「汚い」(からその使用は不適切だ)という反応を見かけるが、これも同様である。

 「淫夢語録」の使用がダメなのは、それが同性愛に関係したスラングだからではないし、「汚い」からでもない。その使用が、差別行為だからである。

 

 

・「淫夢語録」の使用がダメなのは、それがポルノに関係したスラングだからではない

 確かに、セクシャルな言葉を公共で使用するには注意が必要である。セクハラになるかもしれないし、セクシャルなこと自体を脅威に感じる人もいる。そういう人を傷つけないために、セクシャルな言葉の使用には注意しなければならない。

 だが、私がここで「淫夢語録」の使用がダメだと考えているのは、このこととは独立である。「淫夢語録」の使用がダメなのは、まずはその使用が差別行為だからである。「淫夢語録」の使用が避けられるべきだという話は、セクシャルな言葉の使用の注意の話とは別に考えることのできる問題であり、両方同時に考える必要のある問題である。

 

 
・「淫夢語録」の使用がダメなのは、内輪ノリだからではない

 「淫夢語録」を多用する人達が「淫夢厨」と呼ばれることがある。こうした「淫夢厨」を嫌う人たちも存在する。「淫夢厨」が嫌われる理由の一つに、「淫夢厨は所かまわず語録を使用する」というものがある。つまりTPOをわきまえていない、内輪ノリをどこでも出してしまうやつだ、とみなされているのである。

 「淫夢語録」の使用がダメなのは、内輪ノリだからでも、TPOをわきまえていないからでもない。「淫夢語録」の使用にTPOなどない。その使用は差別行為だからである。差別行為に適切な場面などない。そもそも端的に差別をしてはならない。

 

 

 

◇「淫夢語録」の使用がなぜ差別になるのか

 

 「淫夢語録」の使用は差別に相当するので、それを使用してはならない、とここまで繰り返し述べてきたが、むしろ逆に「淫夢語録の使用は差別ではない」という反論があると思う。最後に、想定されるいくつかの反論に対してここで答えておきたい。

 

 

・「「淫夢語録」の使用はむしろ同性愛の理解に貢献している」

 「淫夢語録」の使用は差別であるどころか、むしろ同性愛を身近にしたのであり、また理解に貢献しているのだから、差別ではない、と言われることがある。それははたして本当だろうか。

 ここで考えなければならないポイントは2つある。(1)なぜ「淫夢語録」が面白がられるのか、(2)同性愛の理解への貢献の仕方はほかにもあるのではないか、の2つである。

 

 (1)なぜ「淫夢語録」が面白がられるのか。その理由として挙げられているものに、棒演技が面白い、演技が下手で何を言ってるのか分からなくて面白い、というものがある。「淫夢語録」の多くは、ゲイポルノの作品上のセリフを抜き出したものである。過去に例えば「仮面ライダー剣」の登場人物たちのセリフを笑いものにしたスラング(「オンドゥルルラギッタンディスカー!」)が流行ったことがあったし、諸外国語に吹き替えされた「るろうに剣心」のセリフを空耳にして笑いものにしたスラング(「フタエノキワミ、アッー!」)もあった。

 ちなみに「フタエノキワミ、アッー!」の「アッー!」の記述の仕方(「アーッ!」ではないところ)もまた、「淫夢」より古くから笑いものにされているゲイビデオ(「ガチムチパンツレスリング」と呼ばれる)を由来としている。

 過去にこのような例はたくさんあり、数え始めたらキリがないが、「淫夢語録」ほど長く笑いものにされ続けているわけではないし、「語録」というほどにスラングとなってしまうほどに、人口に膾炙したものは、「淫夢語録」を除いてほかに例がない。

 他に笑いものにされた過去の例と、「淫夢」との間で何が違っていたのかといえば、やはり「淫夢」がゲイポルノだったということである。ゲイポルノでなくても、たとえば男女がセックスするポルノでも、棒演技や何を言ってるのか分からないものがあるはずだと思うが、それらが笑いものにされるのではなく、なぜかゲイポルノなのである。

 「淫夢語録」が面白がられる背景には、ゲイポルノをとりわけ笑いものにするような、同性愛への蔑視があることが分かる。

 

 (2)では、このような背景を持つ「淫夢語録」の使用が、果たして同性愛の理解に貢献しているのだろうか。

 「淫夢語録」の背景には同性愛への蔑視がある。蔑視を背後に隠した行為が、果たして理解への貢献などと言えるのだろうか。

 あるいは、差別心を持たずに使用している人も中にはいるかもしれないが、「淫夢語録」はポルノ(を笑いものにすること)に由来した言葉である。ポルノ(を笑いものにすること)に由来した言葉が、実際に生活している同性愛者の理解に繋がるだろうか。

 ポルノは、(a)セックスを行う、(b)視聴者の性的満足を促す映像作品である。まず、現実に生活している同性愛者を、セックスに関係する点のみによって理解することができるだろうか。同性愛者は、異性愛者と同じように日常生活を送っている人たちである。同性愛のセックスをとりわけ注目して取り出すということは、同性愛者が異性愛者と同様に生活しているという点を見落とすことになるし、むしろいかに異性愛者と異なるかということばかりをあげつらうようなものであって、理解からほど遠いと言わないわけにいかない。

 またさらに、同性愛者が、異性愛者と同様に生活しつつも、社会の中で差別に直面しているということに目を向けることを抜きにしては、同性愛者の理解に貢献するとは言えない。「淫夢語録」の使用そのものが差別を背景にしている以上、その使用が理解に貢献していると言うことはできない。

 また、ポルノは視聴者の性的満足を促す映像作品であるのだから、そこで描かれていることは満足を促すための一種の幻想であって、現実そのもののトレースではない。もし同性愛者の現実の生活を理解したいのであれば、そうしたポルノ以外に、映画や小説やドキュメンタリーなどが、いくらでもあるはずである。

 同性愛者の実際の生活を理解するためにわれわれが利用することができるものは、「淫夢」を始めとしたゲイポルノ以外にもたくさんある。それでもなぜか「淫夢」を始めとしたゲイポルノばかりが俎上に上げられている現実がある。それではたして同性愛の理解に貢献していると言えるのだろうか。まして「淫夢語録」の使用などが。

 

 「ホモソーシャル」という言葉がある。セジウィックが男性同士の共同体の特徴を示すために用いた言葉であるが、ホモソーシャルには2つの要件がある。ひとつはミソジニー女性嫌悪女性差別)であり、もうひとつはホモフォビア(同性愛嫌悪、同性愛差別)である。「淫夢語録」が符丁として人口に膾炙するとき、その背景には明らかにこうしたホモソーシャルがあるだろう。「淫夢語録」を面白がって利用することで、互いに「自分は同性愛者ではありませんよ」と陰に陽に示しあっているのである。果たしてここに同性愛への理解などあるのだろうか。

 同性愛の理解に貢献したいというのなら、「淫夢」などのゲイポルノを笑いものにしたり「淫夢語録」を面白がったりする前に、現実の同性愛者の実情について勉強したり、同性愛者の権利獲得(例えば同性婚の合法化など)に向けて具体的に行動するべきだろう。なぜそうしないのだろうか。

 

 

・「「草」などのように「淫夢語録」であっても由来を知られていない言葉は問題ない」

 

 「淫夢語録」の使用は同性愛差別である、という指摘に対する反論としてもう一つ想定されるものは、次のようなものだ。「淫夢語録といっても「草」みたいに多くの人に使用されて辞書にまで載った言葉もあるのだから、その使用全てが差別に相当するわけではない」「あまりにみんな使用しているのだから淫夢語録が由来だと知らない人も多いはずだし、そうした使用は差別ではない」「ネットスラングとして普及したいま、差別の意味はもはやない」

 

 これらの反論は2つの点に集約できる。(1)もはや「淫夢語録」の由来を失った言葉もあるのではないか、(2)「淫夢語録」だと知らずに使用しているならば(むしろその方が多いではないか)差別ではないのではないか、の2つである。

 たしかに、「草」や「~ゾ」「(小並感)」などは、テレビなどでネットスラングとして取り上げられたり、高校生など子どもでも使用されたりしていることは、以前から知られていた。その多くの人たちは、これらの言葉が「淫夢語録」であることを知らないだろう。由来が失われていると言えるかもしれない。「淫夢語録」を符丁として意図的に使用する人たちの間では、「知らないくせに使用するな」というようなことが言われたりしていた。

 

 (1)では、由来から切れていれば、その使用は問題ないのだろうか。だが前提に反して、言葉はその由来から簡単に切り離せるものなのだろうか、という疑問が思い浮かぶ。たしかに由来が不明な言葉や名前はいくらでもあるのだが、2000年以上の前の中国やギリシアなどの言葉がその当時の由来とともにいまだに残っていることを考えれば、由来はどこまでも残り続けることもある。

 辞書に載っているということは由来から切れたということを意味するわけではないし、使用の正当性を保証するものでもない。辞書に載っている差別的な言葉はいくらでもあるし、差別的な言葉だと記述されていないものも多くある。

 それに、「淫夢語録」が用いられ始めたのはほんの数年前からであり、インターネットで検索すればすぐにその「元ネタ」が判明する。そのような状態で、「草」を始めとした言葉たちが由来から切り離されたとはとうてい言えるはずがない。

 

 (2)また、由来を知らずに、差別的意図を持たずに、それを使用しているのだとすればそれは差別ではないと言えるのだろうか。その問いにはノーと答えなければならない。差別の問題はその意図の有無ではないし、そもそも言葉というものは発話者の意図を越えて作用するものである。

 差別は意図の問題ではない。私たちは意図せずして差別をしてしまうことがある。それは言葉(の意味)というものが発話者の意図のみによって決定されるわけではないからだ。

 例えば小さな子どもがその意味をよく知らずに人に向かって「めくら」とか「つんぼ」とか「土人」と言ったとしよう。そのとき大人は、まず間違いなく「そういう言葉を人に向かって使ってはいけない」と教えるだろう。こうした言葉は差別的な言葉であり、人を傷つけるからである。子どもはその意味を正確には知らなかったのだから、そこに差別の意図はないだろう。でも大人は子どもにそうした言葉を使用しないように教えるのである。これは言葉狩りなどではなく、人に暴力をふるってはいけないと教えることと同次元のことである。

 「淫夢語録」もまた同様に、その由来や差別的背景を知らないとしても、その使用は差別になってしまう。だからそれと知らないのだとしても、その使用は避けられるべきである。

 

 

 

◇おわりに

 「淫夢語録」はおそろしいまでにインターネット上にはびこっており、それを見かけない日はもはやないと言える。意図的に使用されているだけでなく、それと知らずに使用される場面を目撃することも多くなっているし、フェミニズムクィア理論についての記事やツイートの中で使用されているのを目撃したこともある。そのくらいインターネット上では広まってしまった。

 いまインターネット上で使用されているスラングのほとんどは「淫夢語録」(あるいはなんJ)に由来していると見てまず間違いない。だからネットスラングを見かけたときや、自分で使用する際には注意が必要である。「淫夢語録」とGoogle検索してみたり、気になるスラングを「元ネタ」という言葉とともに検索してみたりすることで、何が「淫夢語録」であるのかを知ることができ、意図せぬ使用を避けることができる。ニコニコ百科に語録の一覧(これでも「語録」の全てではない)のページがあるのでリンクを貼っておく。

https://dic.nicovideo.jp/a/%E6%B7%AB%E5%A4%A2%E8%AA%9E%E9%8C%B2%28coat%29

このページ自体は「淫夢語録」に親和的なものであるが、こういうページ以外に語録について知る方法がいまのところほとんどまったく存在しない。

 「淫夢語録」の使用は差別行為である、とここで繰り返し書いてきたが、私は差別の問題について専門であるわけではないので、そのことに詳しいどなたかに、より正確にこの問題について書いてほしいと思っている。

 

 私たちは完璧ではない。完璧な存在ではないのだから、あらゆる差別をしないで生きていくということは難しい。だから私たちは誰でも、意図せずに差別をしてしまうことがある。私自身も例外ではない。そのとき、誰かほかの人から「それ差別だよ(だからそれをしないで)」と言われるかもしれない。差別が指摘されたとき、私たちがするべきなのは、「いや差別じゃないよ」と反論するのではなく、「いや必要なことなんだ」と正当化することでもない。「差別だ」ということを受け止め、立ち止まり、自分の言動を反省することだ。そうやって、私たちの行動から差別を一つ一つなくしていこう。差別をやめていこう。