「天気の子」の感想文

「天気の子」の感想

 

 2019年7月19日に公開された新海誠監督の最新作「天気の子」の感想文です。

(2019年7月26日に追記。)

 

 公開初日に見に行くつもりだったのだけれども、個人的な都合のため数日遅れて23日に見てきた。公開初日、ずっと雨が続いていた東京に久しぶりの晴れ間が訪れたのは、偶然以上の何かを感じてしまう。そのくらいに、私は新海誠監督のファンで、信者だと言っていい。

 

 さて、「天気の子」はネタバレを受ける前にまっさらな気持ちで見に行こうと思っていたのだけれども、それはかなわなかった。「世界を変えてしまった」という公開前の予告と、公開初日のテレビでの新海監督のコメントのほか、ぽろぽろとツイッター上で感想を見かけていた。

 新海監督のコメントでは、「これは道徳の教科書には乗らない」「批判される」というもの。ツイッターで見かけた感想の中でとりわけ重要そうだなと感じたのが、「ゼロ年代セカイ系っぽい」っていうのと、「雲の向こうっぽい」という話。

 それらを総合して、なるほどこれはきっとそういうストーリーだな、と頭の中で予想をしていた。個人的にはおおむね予想通りだと思ったのだけれども、ツイッター上の感想を見ると内容を意外に感じている人が多いみたいで、何か重要なものを見落としてしまっているのではないかと不安になる。

 ここでは、事前にどんな予想をしていたのかということを中心に感想を書いていきたい。

 

 

セカイ系

 セカイ系といえば、「君と僕と世界」と以前から評されているけれども、新海監督の作品の中でそれを一言で言い表しているセリフがあるとずっと思っていた。それは「雲の向こう」終盤で、タクヤがヒロキに向かって言う「世界を救うのか、サユリを救うのかだ」というセリフだ。

 「雲の向こう」では、パラレルワールドの実在が実証されており、人間が見る夢は宇宙の見る夢=パラレルワールドなのではないか、という研究が行われている。蝦夷には印象的な塔が建てられており、その塔は世界をパラレルワールドに書き換える力を持っていた。けれど、そのパラレルワールドの情報が眠り続けているサユリの夢となっていることで、世界は書き換えられずに済んでいる。塔の設計者はサユリの祖父だった。世界が書き換えられてしまう代わりにサユリは眠り続けているのだ。世界とヒロインが、天秤にかけられているのである。

 ヒロキ(とタクヤ)はサユリを目覚めさせたいと思っており、サユリが眠る前に約束した、「あの塔まで飛ぶ」という約束を果たそうとする。そこでタクヤがヒロキに向かって言うのだ、「世界を救うのか、サユリを救うのかだ」と。サユリは世界が書き換えられるのと引き換えに眠り続けている。サユリが目覚めれば世界は書き換えられてしまう。だから眠らせておいた方がいい、そう考える人もいるということだ。

 結局、タクヤもヒロキに賛同して、サユリを目覚めさせることを選ぶ。目覚めたら、すぐに塔を破壊しようと言う計画だった。眠ったままのサユリを、ヒロキとタクヤが作った飛行機に乗せて塔の元へと飛んでいく。塔に近づくとサユリは目覚めるが、サユリは何か大事な記憶を失っている。夢の中で確認したサユリの大事な気持ちが何だったのか、忘れてしまっている。サユリが目覚めると同時に、塔の世界の書き換えが再開するが、ヒロキの飛行機に乗せた爆弾が塔を破壊し、書き換えは途中でストップする。これで終幕。

 

 ちょっと長く「雲の向こう」の終盤のストーリーをおさらいしたが、世界を救うかヒロインを救うか、という二者択一がここにあることを確認しておきたい。世界とヒロインが天秤にかけられている。

 「天気の子」が「雲の向こうっぽい」と言われていたのと、「道徳の教科書には乗らない」「批判される」という新海監督の話を総合して予想したのはこういうことだった。ヒロイン陽菜の天気にする力を使って、主人公たちは何らかの意味で世界を変えてしまった。世界を救うことと引き換えに陽菜の存在が失われるが、主人公は世界を救うことではなく、陽菜を救うことの方を選ぶ、と。こういうことを予想していた。これはおおむね当たりだったと思う。だから内容に関しては、私が見た限りでは、うんうんそうだよねそういう風になるよね、という感じが強い。

 

 「向こう側」に行ってしまったヒロインをこちら側へ救い出すということも、新海監督がずっと描こうとしてきたことだった。「ほしのこえ」以来、ヒロインは繰り返し向こう側へと行ってしまう。ハッピーエンドとして救出に成功したのは「君の名は。」が初めてだった。(「雲の向こう」では大事な記憶が失われている。)

 だから、最後雨が降り続けて東京はほとんど水没してしまったけれど、ちゃんと陽菜と再会することができた。これで良かったんです。ハッピーエンド。

 「批判される」と監督が言っていたのは、世界を救う方を選ばなかったから、なんだろうか。だとすれば私個人的にはあまりそちらの方はピンとこない。世界とヒロインだったらヒロインを救う方を選びたい!と声高に言えればいいのだけれども、雨が降り続いて3年かけて東京が水没、というのは世界の崩壊というのはちょっと弱い気もする。徐々に水没していったと思うんだけど、それなら隕石被害に比べて死者もそんなに多くないと思いたい。「雲の向こう」の世界の書き換えの方がおそろしい。

 「君の名は。」ではヒロインも糸守の人たちも、全員守ったところにくらべて、「天気の子」はヒロインのことしか考えてないってことが問題なんだろうか。そのあたりについて「天気の子」に対して批判的な感想はまだ見てないのでよく分からない。

 私個人としては、「天気の子」があのような展開になったのは、新海誠監督の世界観的にも、個人的感覚に照らし合わせても、よく分かるものだった。

 

 

◆世界から外れたものたち

 新海監督の世界観は、「ほしのこえ」や「雲の向こう」などはSF的であったけれども、完全にSFというよりは、少しオカルト的な要素が入っていると思う。「君の名は。」に引き続き、「天気の子」でも『月刊ムー』が出てくる。

 このオカルト、というのが重要で、これは科学的な世界観や、大人が生きる常識的な世界にうまく位置づけられないものだ。新海監督はずっとこの科学的世界観や大人の常識的世界観にうまく位置づけられないものを描き続けてきた。パラレルワールドや夢を始めとして、主人公とヒロインが体験することや大事にしていることは、普通の人たちに話せばどれもたわごとに聞こえたり、どうでもいいと価値を認められなかったりするようなものばかりだ。

 夢の中で入れ替わりを体験したとか、その夢を通して隕石が落ちてくるとか。夢の中でサユリと再会したとか。こんなことはふつうの意味での「体験」とは呼ばれないに違いない。「単なる夢でしょ」と言われるのがふうつだろう。

 はやく大人になって靴職人になりたいとか。子どもが考える自分自身の能力についてのあれこれなんてものも、大人から見れば「青い」だけに違いない。須賀さんも「はやく大人になれよ」と言ってくる。

 こうしたものは、科学的な世界観、大人の常識的な世界観にはそぐわない。うまく位置づけられない。いずれ消えてしまうもの、意味のないものだったりする。けれどこういうものに新海監督は視線を送っており、そういうものを大事にする人を描き続けている、と思う。

 そうした、ふつうの世界の中では出来事として位置づけられないようなこと、出来事の説明として通用しないようなことが、世界よりも大きな枠組みにおいて、あるいは世界の外側において起きている、というのが新海誠の世界観なんだとずっと感じている。

 

 「天気の子」もそうで、帆高は地元と家族に息苦しさを感じて東京に家出をしてきており、陽菜と凪のきょうだいは親がいない。(東京の)大人の世界の中にうまく位置づけられていない。そういう世界の中から外れてしまった存在が、世界自体をその世界の穴からひっくり返してしまう。その「ひっくり返し」も、世界の中の論理では説明できない。陽菜は人柱で空の上には空の世界があって等々と説明したところで、ほとんどの人は耳を貸さないだろう。

 終幕間際、雨が降り続いたままの東京で、須賀さんは帆高の話を真に受けていないし、立花さんは何も変わってないと言う。実はそうなのかもしれない。ふつうの、常識的な大人たちの世界観では、帆高が見た空の上の光景は夢みたいなもので、ありえないことに違いない。帆高もそう思おうとした。

 けれど最後3年ぶりに陽菜に会いに行ったとき、帆高の目に飛び込んできたのは陽菜が祈っている姿だった。それを見た帆高は思いなおす。2人は自分たちで世界を変えてしまったのだと。たぶんふつうの大人はそんな話を誰も信じないだろう。それでも、帆高はそれを信じようとする。

 世界の外側に、世界よりも大きな枠組みで、世界の中の説明が通用しないような何かがあり、それがむしろ世界を動かしている。地球上で日常生活を送る私たちの世界の外側に宇宙があるということ、私たち人間に性別がなぜかあるということ、私たちは日常的に現実とよく似た夢を見るということ。こうしたものはその代表例として新海監督の作品に登場してくる。私は世界の中のあれこれ以上に、こういうものにこそ興味がある。そういう世界観を、新海監督は見せてくれる。私にはそれがたまらなく嬉しい。

 

(2019年7月24日)

 

 

◆以下追記

 朝のテレ朝の番組で気象予報士の依田さんと新海誠監督がトークしていて、それが面白くて、それでさらに考えたことです。以下は響きハレがふせったーで投稿した内容の転載です。https://fusetter.com/tw/j4S80#all

 また、新海監督が依田さんと話した内容とほとんど同じ内容が、ウェーザーニュース社のインタビューで読むことができます。

『天気の子』新海誠監督単独インタビュー 「僕たちの心は空につながっている」 - ウェザーニュース

 

◇天気について

 新海監督は、天気について、「人間ではないものが、あんなに遠くにあるものが、人間の心をこんなにも動かしてしまう」ということを言っていて、それそれ!と。
 雲の上の世界についても、「雲の上は(地上からは)見えないので、そういうところに人間の知らない世界があったら面白いなと思った」のように言っていた。やはり新海監督の世界観では、人間の日常的な生活の外側にある、それよりももっと大きなものが、人間の生活する世界の方に影響を与えている、のだと思う。

 

◇異常気象について

 それから異常気象について。話を要約すると次のような感じ。
 「昔から異常気象が起こると言われてきたけれど、人間ならそれをどうにかできるんじゃないかと思ってた。けれどそれは違っていて、本当に気候変動が起きてしまった。それに絶望している。けれどいまの子どもは、これから生まれる子どもは、これを「異常気象」とは思わないかもしれない。英題のweatherには「乗り越える」という意味があって、「君となら乗り越えられる」という風に、子どもたちにはこの暗い世界を軽々と乗り越えていってほしい」
 「暗い世界」とはっきり言ったかどうかは私の記憶は定かじゃないんだけど、こんな風なことを確かに言ったと思う。そしてそれは、おそらく映画結末の雨が降り続いているということであり、水没した東京のことだ。そういう風になってしまっても、乗り越えていける、と。
 これは「秒速5センチメートル」の、「人生には劇的なことは起こらないかもしれないけれど、それでも生きるに値する」というコンセプトに通じてると思う。
 「天気の子」の新宿(歌舞伎町)の描写について、かなり暗い面が切り取られている、ダークである、という話があって、私はそれはぜんぜん気づかなかった。「天気の子」で描かれるような新宿の光景を私も知っているので、リアルな新宿を見てるかのように思ってしまった。けれど言われてみればあれはかなりダークだ。
 「雲の向こう」で描かれる新宿も、思い返せばけっこう暗かったと思う。ヒロキが下宿していたあのアパートがあるのが新宿の端っこだった。「秒速」では、第3話に、クリスマスの夜に残業で終電を逃して中野坂上の家まで新宿から歩いて帰るところが描かれる。(新宿がダークであること、それに比して代々木が何か神聖で特別な場所であること、これらが重要なのかもしれない。)
 世界はかなり暗くて、ダークであるかもしれない、けれどそんな世界の中でも生きていくに値するんだと、それだけの中かがあるんだと、新海監督の作品は伝えてくれている、という風にも感じられる。これも一貫してるんじゃないかと思う。

 

◇晴れるということについて

 気象予報士の依田さんは、「天気の子」の雨の描写をかなり褒めていて、その上で、作中で晴れ間が訪れたときのカラッとした爽快感を話していた。
ネタバレ配慮のためそれ以上は掘り下げられていなかったけれども、「天気の子」に感動してしまった場合、見終わった後に迎える晴れた青空には複雑な気持ちが感じられるのではないかと思う。
 人柱となった陽菜が、異常気象の中で帆高に「こんな雨、止んでほしいと思う?」と聞く場面がある。陽菜の事情を知らない帆高は、あっけらかんと「うん」と答える。その残酷さ。
 たぶんだけど、私たちの中の多くには、晴れた青空は良いものだという前提的な感覚がある。物語の描写としても、「雨」というのは悲しみや困難を示すものであることが多い。そうした雨の後に訪れる晴れ間は、困難の解消、悲しみの乗り越えなのだろう。
 けれど「天気の子」はそのような展開にならない。そうした乗り越えは描かない。他の人の感想で、陽菜がいなくなった後に晴れた東京はどこか不気味だと言っていた。そんな晴れは、一番大事なものじゃない。須賀さんが、「大事なものの順番を変えられなくなる」と言っていたのが印象的だ。
 雨という困難や悲しみそのものを消して乗り越えるのではなく、その中でそれを乗り越えることを目指す。
 でも今回は陽菜と引き換えの晴れ間だったので、それなら陽菜を選ぶ、雨だって構わない(陽菜がいるのだから)という風にも読めてしまう。陽菜が帰ってきて、それでも晴れにする方法があったとしたら、それを帆高たちは選んだだろうか。「君の名は。」はそうした方法を見つけ出せた話なのかもしれない。
 あるいは、この映画のメッセージを「帆高は陽菜みたいな子がいたから「乗り越え」られるのかもしれないけど、そういう存在がいない人はどうしたらいいの」と受け取るかもしれない。
 英題の「Weathering with you」について、新海監督は「君となら乗り越えられる」という風に言っていた。なぜ「君と」なのだろう。しかもなぜそれは異性(多くは女性)なのだろう。私にはまだその理由が分からないけれども、そこに必然的があることは分かる。そうでなければならないと、私も思う。

 

◇「天気の子」を見たあとで晴れ間を迎えるということ

 最後にもう一つ。
 見終わってすぐ書いた感想文で、公開初日のことを書いたのだけれども、あれは間違いだったなと今では思ってる。
 公開初日、東京は長く続いていた雨が止み、久しぶりの晴れ間が訪れていた。映画をまだ見ていなかった私は、「天気の子」すげーなと素直に思ってしまったのだけれども、その日に映画を見た人はあの晴れ間をどう思ったのだろう。私があの日を振り返って思うのは、「晴れてもな……」というものだった。
 「天気の子」のCMでは、「これから晴れるよ!」という陽菜のセリフが劇的に使われている。晴れた方がいいという前提的な感覚も私は持ち合わせていた。だからこそ、公開初日のあの晴れ間をすごいことだと思ってしまったのだけれども、それは映画を見た後の視点では素直に肯定することができない。
 CMでの「これから晴れるよ!」のあの劇的な感じ、あれはやっぱり晴れた方がいいという前提的な感覚に訴えかけるものだと思う。「晴れ」というのをそのレベルで捉えると、あの結末の雨が降り続く東京というのは、そういう素朴に良いと思えるものが決定的に失われた世界だということを意味するように思う。そして「天気の子」が伝えるのは、そういう世界も乗り越えられるということ、そういう世界でも生きるに値するということ、なのではないかと思う。

 

 (2019年7月26日)