シャニマスPにおすすめしたい哲学書の話をするよ――哲学入門編

◆はじめに

 こんにちは。初めましての方は初めましてです。響きハレと申します。今回は、シャニマスPにぜひ哲学書をおすすめしたいと思ってこの文章を書き始めています。

 まずは経緯からお話させてください。先日ツイッターで下のようなツイートを先頭に、ツリー状で哲学書の紹介と哲学とシャニマスの話をしました。

https://twitter.com/mokamokamas/status/1254107843159969795?s=20

https://twitter.com/mokamokamas/status/1254107843159969795?s=20

https://twit

 

 

https://twitter.com/mokamokamas/status/1254108362586812419?s=2

https://twitter.cyom/mokamokamas/status/1254108362586812419?s=20

そうしましたら予想以上に反応をいただいて、この話に関心のある方はひょっとしたらけっこういるのかもしれないと思ってこれを書き始めています。反応をくださったみなさんありがとうございました。

 

 今回、哲学入門編として、哲学というのはどういうことなのかということのお話と、哲学の入門書の紹介をしていきたいと思っております。

 私の文章力的にそれができるのかは分からないのですが、できるかぎり哲学についての予備知識がなくても理解していただけるよう書くつもりでおります。よろしければどうぞお付き合いください。

 

 

 

 

 

シャニマスと哲学

◇【我・思・君・思】の衝撃

 シャニマスは、特に幽谷霧子のシナリオは、哲学と関連付けて語られることが多いように思います。私も幽谷霧子は特に哲学との相性が良いと思います。それが最も顕著なのは、間違いなくデカルトの夢の懐疑を引用したsSR【我・思・君・思】のコミュ「かなかな」だと思います。

 

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このコミュはカードイラストも含めて多くの人に衝撃を与えたことと思います。私も衝撃を受けた一人です。デカルトの名前を取り上げつつ夢の懐疑の話をしているという点にまず私は驚きました。そして、霧子自身が独特な夢に対する態度を見せたことで、私はさらに驚いたのです。

 デカルトといった哲学者の名前を出しながら哲学の話題をすること、これ自体アイマスではあまり例のないことだと思うので、これは非常に驚くべきことです。ですが、私個人的にはそれ以上に、霧子が見せた独特の夢に対する態度の方がさらに驚くべきことでした(最初混乱してそれらの違いについてちゃんと書けていませんでした)。これらのことについて詳しくは、デカルトの『省察』を取り上げる回でお話できたらいいなと思っております。

 ここでまず理解してくださったら嬉しいなと私が思うのは、霧子やシャニマスに感じる哲学的なセンスというのは、哲学の話題を取り上げているということ以上に、霧子たちが見せる独特な態度や言動などの方にあるということです。哲学というのは、単に哲学者の考えたことや哲学者の概念を知ったり用いたりするというようなことではないからです。

 今回はその点に絞って、まず哲学のことをお話していくつもりでおります。シャニマスに見られる哲学的センスについては、幽谷霧子のシナリオを取り上げつつ次回の記事でお話できたらいいなと思っております。

 

 

◇私のこと

 今回の本題に入る前に、そもそもこんな話をするお前は誰なんだと思う方もいらっしゃると思いますので、ここで自己紹介を差し挟ませてください。興味ないよという方は読み飛ばしてくださって大丈夫です

 私は哲学を専門にする大学院生(博士課程)です(この記事執筆時の身分です)。哲学研究科に所属してるわけでも哲学科卒業というわけでもないので、メインストリームの哲学の研究というわけではないのですが、学部時代に哲学の先生のもとで哲学の卒論を書きましたし、修論も哲学で書いています。

 私の専門なんですが、これがまた注釈が必要で、フランスの精神分析家のラカンの思想と哲学(主に現代の英米哲学)との二本柱になっていて、人間にとっての現実(とされるものごと)とは何であるかということを考えています。ですので、夢の懐疑という哲学の問題には私自身も強い関心があります。精神分析についての研究も含むので哲学研究科ではないところに所属している、という事情があります(精神分析は哲学とは違うので)。

 

 今回は私のことはこのくらいにして、今回の本題に足を踏み入れていきましょう。(私個人の思考については、幽谷霧子の【我・思・君・思】を取り上げるときにお話ししたいと思っています。)

 それではどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

◆哲学のお話

◇どうして哲学書

 さてまずは、どうして哲学書をおすすめしたいと思ったのか、というお話からまいりたいと思います。

 まずは哲学(的なこと)にそれほど関心のない人に向けた理由になるのですが、これはいくつかあります(これは私の個人的な考えであるということをここで注記させてください)。ざっと箇条書きにしますと……

 

  • シャニマスについて哲学と絡めて語るときにもっと入り込んだ話ができるようになる
  • そもそも哲学の議論を知るとものごとを見るときの解像度が上がる

 

……と哲学のことを知ることによって良いことはたくさんあるはずだと思っています。

 また、シャニマスのシナリオで登場する話題や場面に哲学的な問題を感じていて、さらにその問題について考えたい(あるいは知りたい)のだが哲学は詳しくなくて何を読んだらいいのか分からない、という方のための読書案内にもなったらいいなと思っております。

 

 今後シャニマスPのみなさんに向けて哲学書をいくつか紹介していきたいと考えているのですが、そこでは、その哲学書の議論を知っているとシャニマスのコミュがこういう観点から読める(と思う)とか、シャニマスのこのコミュのこの場面からこうした哲学の問題が読み取れるといった、私自身の読みの経験も合わせて提示できたら、と考えています。……というより私の読み方から紹介するしかないのですが……(これはそもそも私に哲学のセンスがどれほどあるのかという問題でもあります……)

 今回は、哲学ということでどういうことを私が考えていて、どういう風なものとして哲学のことを知ってもらいたいか、ということをお話ししていきます。それがこの記事全体の前半部の内容になります。後半部では哲学の入門書の紹介をしていきます。

 

 

◇哲学?

 もしかしたら、哲学のことなんて知ってるよ、という方もおられるかもしれません。高校の倫理で習ったとか、大学の授業を受けたことがあるとか、ご自身の興味で哲学書を読んだとか、そういう方がいらっしゃることと思います。

 それでは哲学と聞いてどのようなイメージを持たれているでしょうか? 哲学なんてただの思い込みだとか、非科学的な妄想だとか、独りよがりな思想だとか、そういう風に思われている人もおられるかもしれません。そう思われている方にも哲学のことをもう少し理解していただけたらと思うのですが、そういう方たちにも哲学のことをもっとよく知ってもらうために哲学のことをお話していきたいと思うのですが、そのための文章力や説得力が私にあるのかは分かりません。

 あるいは、ソクラテスプラトンアリストテレスデカルトやカントやヘーゲルニーチェハイデガーウィトゲンシュタインといった人たちが何て考えたかを知るのが哲学だ、というイメージをお持ちの方もおられるかもしれません。高校の倫理の授業を私は受けたことはないのですが、倫理の授業の場合は歴史上の哲学者が考えたことを知ることが重要なことであるはずです。大学での哲学の授業もそういうものであったかもしれません。今回ここで哲学のことを知ってもらいたいと私が想定しているのは、いま挙げたようなイメージを持たれているような方です。哲学というのは、歴史上の哲学者が考えたことを知ったり、理解したりすることだけではないのです

 歴史上の哲学者のことをよく知っていて、いろんな哲学者の議論や概念のことを知っていても、ちっとも哲学的でないということがありえるのです。「哲学的である」ということは、歴史上の哲学者のことを知っているということとは別のところに由来しています。それは、哲学の問題そのものの問題性に絡めとられる、ということです

 

 

◇哲学の問題

 では、哲学の問題とは何でしょうか? 「哲学は驚きから始まる」という言葉があります。「実にその驚異の情こそ智を愛し求める者の情なのだからね」とソクラテスは言っています(プラトン『テアイテトス』田中美知太郎訳,岩波文庫,155D)。「智を愛し求める」ということは、フィロソフィー(フィロ=愛する,ソフィー=知)=哲学のことにほかなりません。「驚異」(驚き)から哲学が始まるわけです。

 では何に驚くのでしょうか。それは誰かに驚かされてびっくりするということでもなければ、手品のような不思議な現象に出くわしてびっくりするということとはかなり違います。もっと身近で、常識的には当たり前だとされていることに驚くということです。常識的に当たり前だとされていることに対して驚いて、「それは一体どういうことなのか」「それはいったいどうしてなのか」という問いにとらわれること、これが哲学の始まるポイントです

 実際に哲学の問題をいくつか列挙してみましょう。

 

 無数に存在している人間の中で自分という特殊な人間がいるのはなぜなのか

 宇宙なんて無くてもいいはずなのにどうして存在しているのか

 言葉が何かを意味することができるというのはどういうことなのか

 言葉というものを用いて他人とコミュニケーションがとれるのはどうしてなのか

 自分の意志で自分の身体を動かすことができるのはどういうことなのか

 心と体(脳)の間はどのように関係しているのか

 世界を認識することができるということはどういうことなのか

 現実を夢から区別することは本当にできるのか

 時間が流れているということはいったい何なのか

 善とか悪とかっていったいどうやって決まっているのか

 死ぬとはいったいどういうことなのか

 

……とまだまだ問題はいくつもいくつもあるのですが、とりあえず例としてこのような問題を挙げることができます(これらは哲学の問題の例であって、哲学の問題の全てではありません)。このようなことを(全てとは言わずともいくつかは)、たとえば子供のころなどに疑問に思われたことがある方は、実はかなりいらっしゃるんじゃないかと思います

 ですが、こうした疑問に絡めとられたままとか、こうしたことが気になって仕方がないとか、こうした疑問のことについてずっと考えてしまうとか、そういう方となるとかなり少なくなるのではないか、とも思います。自分と他人がいるとか、宇宙があるとか、言葉で何かが言い表せるとか、言葉でコミュニケーションが取れるとか、自分の体を動かすとか、何かを認識するとか、時間が流れてるとか、こういうことは私たち人間が日常生活を営む前提として当然視されていて、場合によっては当たり前すぎて見向きもされないようなことばかりです。それほど当たり前なものについて、「それは一体何?」「それは一体なぜ?」と疑問に思うこと、こういうところに哲学の問題の特徴があります

 ソクラテスプラトンアリストテレスデカルトもカントもヘーゲルニーチェハイデガーウィトゲンシュタインも、こうした問題に独自に絡めとられ、独自にその問題について思考を巡らせた人たちです。ですので、こうした問題の問題性を感じること抜きには、誰それが何を考えたかとか誰それの概念はどういう意味だとかそういうことを知っていても、それはちっとも哲学的ではないということになるのです。

 

 

◇哲学の問題はどこから来る?

 さらに言うと、哲学の問題は全てをリストアップするということは不可能です。というのも、哲学の問題というのは、いままで誰も問題にしたことがないような全く新しい問題というのが現れうるからです。それはいつもその人個人の中から生まれてきます。ですので、哲学の問題に絡めとられるということは、上に例示したようなすでに哲学の公認の問題を自分の課題として引き受ける、ということとも違うのです。自分が独自に感じていた問題が、哲学の公認の問題と同じだった、ということはありえます。でもその場合でも、問題は公認の問題を引き受けることではなく、自分自身の中から生まれています

 アメリカの哲学者のトマス・ネーゲルは、「哲学のネタは、世界から、そして世界と私たちの関係から直接生まれるのであって、過去の著作から生まれるのではありません」と言っています(ネーゲル『哲学ってどんなこと?』岡本裕一朗・若松良樹訳,p.4)。さらに永井均の次の文章も参考になります。

 

 「哲学は、他にだれもその存在を感知しない新たな問題をひとりで感知し、だれも知らない対立の一方の側にひとりで立ってひとりで闘うことだからである」(永井均『マンガは哲学する』,p.221)

 

 哲学の問題がどういうものなのか、どういうところから哲学という営みが生まれているのか、少しでもイメージしていただけたでしょうか。もし伝わっていましたら嬉しいです。

 哲学の問題を自分の中から生み出すなんて、そんなこと難しいことに思われるかもしれません。ですが先ほども述べたように、上で例示したみたいな哲学の問題のような問題を、みなさんも子供のころなどに疑問に(あるいは不思議に)思ったことがあるのではないかと思います。可能ならば、そのときの疑問に(あるいは不思議に)思ったことを少しでも思い出してみてもらえたら、と思います。

 

 

 

 

◆哲学の入門書

 ここではもう少し具体的に哲学のことを知ってもらうために、哲学の入門として適していると思われる5冊の哲学書を紹介してまいりたいと思います。これは今回の企画の「シャニマスPにおすすめしたい哲学書」というよりも、もっと普遍的な意味での哲学の入門書です。

 ここでは5冊の本を紹介しますが、それらに順序はなく、興味を持ったものから手に取っていただけたら、と思います。どの本も、興味のある章をいきなり読み始めることができると思います。より自分の関心に近いところから読み始めることができれば、それだけより哲学の中に入っていきやすくなるはずだと思います。

 

 

永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』ちくま学芸文庫

 

 

 翔太という中学生の少年と、なぜか喋る猫のインサイトが、哲学の問題について考えて議論をする哲学書です。2人の会話によって議論が進んで行き、小説のように読むことができます。著者も、「中学生・高校生向き」だと言っています。哲学書といえば、文章が長くて固くて、概念も分かりづらくて何言ってるのか分からないみたいなイメージを持っている方にぜひおすすめです。本の体裁としてまずとっつきやすいというのは入門として最適だと思います。

 この本は、会話主体で議論が進む小説のような本であるという特徴のほかに、哲学者の議論の紹介ではなく哲学の問題そのものを議論しているという特徴があります。そして、哲学者の名前はほとんど出てきません。ですので、哲学についての予備知識がなくても、この本を読み進めることができます。そういう点でも入門としておすすめすることができます。

 この本のもう一つの特徴は、議論される問題に対して一つの答えを提示したり、一つの学説を強く主張したりはしないということです。この本は、哲学の問題について、そもそも何が問題になっているのかをよりよく理解しようとしたり、問題に対する答えになりそうなものがどうして答えにならないかを考えたりします。問題に対して答えが与えられないというのはもやもやするかもしれません。ですが、このそもそもの問題をよりよく理解することや、答えになりそうなものが答えになりえるかどうか検討するということが、哲学においてはとても重要なのです

 哲学はクイズのように問題に対して答えを当てはめるような営みではありません。そもそも何が問題になっているのかよく分からないこともあるので、その場合には問題になっているのはどういうことなのか考えることが必要になります。そして何が問題になっているのか分からなければ、どういうことが答えになるのかも分からないので、答えになりそうなものが答えになりうるかどうかも考えます。そういう議論の営み自体が哲学の営みです。『翔太と猫のインサイトの夏休み』は、そういう哲学の営みそのものを読むことができる本でもあります

 

 本書について、著者は「中学生・高校生向き」と言っているのですが、だからといってしかし内容がちゃちというわけではありません。翔太と猫のインサイトの2人(1人と1匹)とともに、読者も考えながら読んでいく必要があります。その点では、子供だけでなくても大人にとっても歯ごたえがある本だと思います。

 著者の永井均は、私が最も尊敬する哲学者の一人です。かなり多くの哲学者が認める、現代日本を代表する哲学者に違いありません。永井均は独自の哲学的問題を哲学史上初めて問題にした人であり、哲学の議論については他の追随を許さないほどの精緻さとセンスを誇る人物です。本書は中学生と猫の会話だからといって侮ることはできないほどレベルの高い議論が展開されていて、敷居はかなり低い本ですが哲学的にかなり高度なところまで連れて行ってくれる本でもあります。その点でもとても良い本として強くおすすめできます。

 

 『翔太と猫のインサイトの夏休み』の中で行われている哲学の議論は、4つの問題に分かれています。

 

 第一章 いまが夢じゃないって証拠はあるか

 第二章 たくさんの人間の中に自分という特別なものがいるとはどういうことか

 第三章 さまざまな可能性の中でこれが正しいといえる根拠はあるか

 第四章 自分がいまここに存在していることに意味はあるか

 

 たとえば第一章では、培養液の中の脳の話から始まって、夢と現実を区別することはできるのか、ほんとうということはどういうことか、といった問題が議論されていきます。猫のインサイトが提示している問いを、少しだけ引用してみましょう。

 

 「問題はね、こういうことなんだよ。ぼくらが培養器の中の脳だとしても、そんなことはないとしても、どちらにしても、ぼくらにそのことを知ることができるか、あるいは証明することができるか? ってこと。これが、第一の問題だ。そしてね、たとえぼくらがそれを知ったり証明したりはできなくても、ひょっとしたら、ほんとうはぼくらは培養器の中の脳だった、なんてことがそもそもありうるか? ってこと。これが第二の問題だ。この二つは分けて考える必要があるな」(『翔太と猫のインサイトの夏休み』ちくま学芸文庫,p.23)。

 

ここではこの問題についての議論を展開することはしませんが、この問題が気になる方は、ぜひ『翔太と猫のインサイトの夏休み』を手に取って考えてみてください!

 

 

永井均『マンガは哲学する』岩波現代文庫

 

マンガは哲学する (岩波現代文庫)

マンガは哲学する (岩波現代文庫)

  • 作者:永井 均
  • 発売日: 2009/04/16
  • メディア: 文庫
 

 

 1冊目と同じ著者からもう1冊です。

 この『マンガは哲学する』は、いくつもの漫画を取り上げながら、そこに哲学のセンスを見いだしたり、漫画で展開されている場面や物語を哲学的に読解したりするというちょっと変わった本です。『翔太と猫のインサイトの夏休み』は小説風に読めるという点で哲学に入り込みやすくなっている本ですが、この『マンガは哲学する』は扱われているのが漫画という点で哲学に入り込みやすい本になっています

 永井均は、漫画を次のように読んでいます(私は文庫版を持っていないので引用は単行本からです)。

 

 「二十世紀後半の日本のマンガは、世界史的に見て、新しい芸術表現を生み出しているのではないだろうか。世の中の内部で公認された問題とはちがう、世の中の成り立ちそのものにひそむ問題が、きわめて鋭い感覚で提起されているように思われる。だれもが自明と思い、その自明性のうえに通常の世の中的な対立が形づくられているような、もとのもとの部分がそこで問題かされている。哲学という形で私が言いたかったこと、言いたいことの多くが、萌芽的な形態において、マンガ作品のうちに存在している。

 いや、それどころか、ひょっとすると、マンガという形でしか表現できない哲学的問題があるのではないか、と私は感じている」(永井均『マンガは哲学する』講談社,pp1-2)。

 

「世の中の成り立ちそのものにひそむ問題」を扱うという点で、漫画は哲学と共通している、というのが永井均が漫画に感じていることだというわけです。それゆえ永井均はまた次のように言います。

 

 「この本は二兎を追っている。マンガ愛好者には、マンガによる哲学入門書として役立つと同時に、哲学愛好者には、哲学によるマンガ入門書として役立つ、という二兎である。マンガ好きの方々には、君たちはそれとは知らずにじつは哲学に興味を持っていたのだよ、とぜひとも言ってみたかったし、哲学好きの方々には、その問題ははるかにポピュラーな形でもうマンガに表現されているのだよ、と言ってみたかった」(同上,p.3)。

 

 『翔太と猫のインサイトの夏休み』のように、本書も問題のテーマごとに章が分かれています。私という存在の問題や、夢と現実の問題もあります。『翔太と猫のインサイトの夏休み』では扱われていなかったテーマも含まれており、そこでは言語と言葉の意味の問題や、時間の問題、子供と大人の対立の問題、人生の意味の問題などが取り上げられています。

 取り上げられている漫画は多岐に渡ります。藤子・F・不二雄手塚治虫萩尾望都諸星大二郎、謀図かずおなどの作品ほか、吉田戦車の『伝染るんです。』、中川いさみクマのプー太郎』といったギャグマンガも取り上げられています。『カイジ』や『寄生獣』『攻殻機動隊』『鉄コン筋クリート』など比較的最近(といっても20年以上前ですが)の作品も扱われています。身近な漫画を題材にして哲学の問題の方へと入っていくことができる本として、本書もおすすめすることができます。

 

 

入不二基義『哲学の誤読』ちくま新書

 

 

 こちらも一風変わった哲学書です。

 この本を簡単に紹介すると、大学入試の現代文の問題に出題された哲学の文章を、プロの哲学者が読解するという本です。日本の高校には哲学という科目はありません(フランスのリセにはある)。ですが現代文では、授業においても入試においても哲学者の文章が取り上げられることがけっこうあります。大学入試で取り上げられるようなものは、哲学の専門的知識がなくても現代文の読解能力を駆使すれば読むことができるものです。ならばそうした文章を読むということは哲学の入門にもなりうるはずです。そこで著者の入不二は「この本は、「現代文の受験参考書」と「哲学の入門書」とを「橋渡しする」かのような一冊」だと言っています(入不二基義『哲学の誤読』,p.10)。

 著者の入不二基義は、永井均と同様に現代の日本を代表する哲学者です。私が最も尊敬する哲学者の一人でもあります。入不二は大学の教授で哲学者ですが、かつて駿台予備校で受験生に英語を教えていた講師でもありました。この『哲学の誤読』では、そうした哲学者としての面と、予備校講師としての面の両方を垣間見ることができるという点でも面白い本になっています。入不二(の本)に特徴的な図解も多用されていて、授業を受けているリアルタイムな感じもそこから感じられます。

 

 この本で取り上げられているのは4つの哲学の文章で、それぞれ野矢茂樹永井均中島義道大森荘蔵現代日本を代表する哲学者のものばかりです。専門的知識がなくても読解力をもってすれば読める文章であるとはいえ、これらは必ずしもちゃんと読まれているわけではありません。哲学の文章は、哲学的な知識が予断としてはたらいたり、人生論的なものとしてとらえられたりして、適切に読んでもらえないことがあります。問題作成者自身がこのような誤読をしていることもあれば、いわゆる赤本などの、出版社が作成する過去問の解説者がこのような誤読をしていることもあるのです。

 また、哲学的に有意義な、新たな読みの可能性を開く誤読もあると入不二は言います。入不二が注目するのは、これらの「誤読」を取り上げることで哲学的な文章を哲学的に読むという哲学の営みを浮かび上がらせることができる、ということです。入不二の文章を引用しましょう。

 

 「もちろん、「誤読」には、初歩的なミスもあれば、見逃すことのできない致命的なものもあるし、さらに新たな読みの可能性を開いてくれる生産的な誤読もあるだろう。しかし、「何がどのような誤読なのか」をあらかじめ言うことなどできはしない。各文章に深く入り込んで、その内からそのつど個別的に考えるしかない。しかも、それが「誤読」であるのはなぜなのか、という理由と一緒にしなければ、どのような「誤読」なのかも見えてこない。それぞれの「誤読」の検討から、「哲学の文章を哲学的に読み思考することが、どのようなことか」について、その輪郭を少しでも浮かび上がらせたいと思う。「誤読」に注目することは、そのための補助線として役立つはずである」(同上,p.9)。

  

 「誤読」と言えるということは、読解にはある種の正しさのようなものがあるということを意味します。それは書かれていることを、書かれていることに沿って読むということのはずです(永井均はこうした読み方を「ひたりつく」と呼んでいます)。その読み方が「誤読」なのかどうかは、そうした書かれていることに沿ってそのつど考える必要があるのです。

 入不二自身による中島義道の文章の誤読の例について、入不二は「その誤読は(誤読ではあっても)一定程度の「理」がある」と述べています(同上,p.178)。「中島の文章の中には、異なる二種類の「未来」(の分岐)が含まれている」(同上,pp.178-179)とあるように、文章自体がそういう書き方がなされていて、そういう風に読める、ということが示されています。そしてそこから哲学者としての入不二と中島との、読解における哲学的な議論を追いかけることができます。

 このように『哲学の誤読』は、哲学的な文章を読むということをありがちな誤読から哲学的な誤読までいくつもの層で見ていくことができ、その上で哲学という営みへと深く入り込むことができるという点で、哲学の入門に適していておすすめできる一冊です。

 

 

中島義道『哲学の教科書』講談社学術文庫

 

哲学の教科書 (講談社学術文庫)

哲学の教科書 (講談社学術文庫)

  • 作者:中島 義道
  • 発売日: 2001/04/10
  • メディア: 文庫
 

 

  この本は、哲学とは何であるかをとてもよく教えてくれる本です中島義道は、哲学的センス(がある)とはどういうことかをよく知っている哲学者で、それを的確に文章化してくれています。まず本書の全体の構成を見てみましょう。

 

 第一章 死を忘れるな!(Memento Mori !)

 第二章 哲学とは何でないか

 第三章 哲学の問いとはいかなるものか

 第四章 哲学は何の役にたつか

 第五章 哲学者とはどのような種族か

 第六章 なぜ西洋哲学を学ぶのか

 第七章 なぜ哲学書は難しいのか

 

 第一章は、中島義道が最大の哲学問題とする死の問題が書かれており、そこで(中島の)哲学の世界へと導かれます。第二章はちょっと飛ばして、第三章で哲学の問いが6個紹介されています。「時間という謎」「因果関係という謎」「意志という謎」「「私」という謎」「「他人」という謎」「存在という謎」の6個で、どれも哲学上の大きな問題です。第四章の「哲学は何の役にたつか」という問題は、多くの人が関心を寄せる問題だと思います。

 

 私が思うこの本の最大の魅力は、第二章にあります。第二章は「哲学とは何でないか」と題していて、6つのものから哲学を区別しています。それらを挙げてみましょう。

 

 哲学は思想ではない

 哲学は文学ではない

 哲学は芸術ではない

 哲学は人生論ではない

 哲学は宗教ではない

 哲学は科学ではない

 

哲学が科学とは違うものだというのは、わりかし理解されていることかもしれません(ただしそれは「哲学というのは科学とは違って実証不可能の言葉遊びや思い込みにすぎない」という理解かもしれませんが)。哲学が芸術や文学とは違う、となるとちょっと微妙になるかもしれません。ですが、哲学は人生論や思想ではない、というところまでいくと「そうなの?」と思われるのではないでしょうか。これらは厳密には哲学とは違うものです。

 一番最初の「哲学は思想ではない」の節では、中島義道が1965年頃に政治思想史の大御所である丸山眞男と会って話したエピソードが紹介されています。大御所の学者である丸山に「個人はさらに分解されないのですか」と質問したところ、丸山は「そういう哲学的な質問なら私なんかに聞かずに、プラトンの『国家』を読みなさい」と言うだけで肩すかしという感じだった、というのです(中島義道『哲学の教科書』p.46)。

 丸山眞男くらいの学者なら哲学の古典に対する知識は膨大にあるはずだと中島は言います。「古典的な哲学的問題はことごとく「知っていた」と思いますが、それらに痛めつけられ引き回されることはない。むしろ、こうしたことにこだわらなかったからこそ、天皇ファシズムの構造について、あのような立派な仕事をすることができた」(同上,p.47)と。哲学の問題を「知っている」ということ以上に、哲学の問題に「痛めつけられ引き回される」というところに力点があります。中島は思想と哲学との違いについて、次のようにまとめています。

 

 「哲学の大きな特徴は、足元にころがっている単純なこと――そのテーマはおのずから決まってくるのですが――に対して、誰でもどの時代でも真剣に考え抜けば同じ疑問に行きつくという信念のもとに、徹底的な懐疑を遂行することです。思想はこの一つの信念を捨てて、むしろ時間・空間・物体などという膨大な信念を受け容れることである、と言えましょう」(同上,p.44)。

 

ここで中島が言う、「足元にころがっている単純なこと」に対する懐疑というのがとても重要です。永井均が、哲学と共通するものとして漫画に感じていたものが「世の中の成り立ちそのものにひそむ問題」でした。哲学は、このように日常世界においてはすでに前提となっていて、当たり前すぎて気づかれていないようなものに、問いのまなざしを向けるものなのです。

 このように、徹底して哲学とは何でないかを記述してくれることで、哲学とはどういうものなのかに対する先入観を削ぎ落すことができ、その理解を改めることができるという点で、哲学の入門書としておすすめしたい一冊です。

 

 

◇トマス・ネーゲル『哲学ってどんなこと?』昭和堂(岡本裕一朗・若松良樹訳)

 

哲学ってどんなこと?―とっても短い哲学入門
 

 

  最後の5冊目はアメリカの哲学書です。

 著者のトマス・ネーゲルは、ユーゴスラビア生まれのアメリカの哲学者です。いわゆる分析哲学と呼ばれる、現代の英米圏で活発な哲学の代表的な哲学者の一人です。一人称的な意識の実在の問題を取り扱った「コウモリであるとはどのようなことか?」という論文でも知られています(この論文が収録された書籍は永井均が翻訳しています)。

 この『哲学ってどんなこと?』は、永井均の『翔太と猫のインサイトの夏休み』のように、哲学の問題ごとに9つの章に分かれていますが、小説のように会話で議論が書かれたものではなく、ネーゲル自身が読者に語りかけるような文体で書かれています。会話ではむしろ分かりにくいという場合には、こちらの本がおすすめできると思います。

 ネーゲルは、14歳くらいになると哲学的な問題について自分自身で考え始めると言っており(ネーゲル『哲学ってどんなこと?』岡本裕一朗・若松良樹訳,p.4)、高校生が読んでくれたらとも言っています(同上,p.3)。そのくらい平易な言葉で書かれており、本書も哲学についての予備知識がなくても読むことができます。

 本書が取り上げている9つの問題を見てみましょう。

 

 私たちの心を超えた世界を知ることができるのか。

 他人の心を知ることができるのか。

 心と脳の関係はどのようなものか。

 いかにして言語は可能になるのか。

 私たちは自由意志をもっているのか。

 道徳の基礎はどのようなものか。

 どのような不平等は正しくないのか。

 死とはどのようなものか。

 人生には意味があるのか。

 (同上,p.7)

 

これらの問題は、やはり私たちの日常生活の前面において取り上げられることはほとんどないような問題だと思います。哲学者が問う問題は、そうした日常生活において前提になっていることに向けられるのです。

 ネーゲルは、これらの問題は「思想史にあたらなくても、それだけで理解できる」と言い、「哲学の勉強を始める最もよい方法は、こういった問題を直接考えること」だと言います(同上,p.4)。こうした考えにもとづいて、ネーゲルはこの本の目的について次のように述べます。

 

 「この本の目的は、答え――私自身が正しいと考える答えでさえ――を提出することではありません。そうではなくて、あなたにこれらの問題をごく初歩的な仕方で紹介し、あなたが自分自身で思い悩むことができるようにすること、これが目的なのです。哲学理論をたくさん学ぶよりも、その前に、それらの理論が答えようとしてきた哲学的問題に頭を悩ます方がよいのです。そして、そうするための最善の方法は、いくつかの可能な解決策を検討し、それらのどこが間違っているかを調べることです」(同上,p.8)。

 

この本もまた、哲学の問題そのものからスタートして、哲学という行為そのものの中へと導いてくれる本で、哲学の入門書としておすすめすることができます。

 

 ところでこの本には、特に今回の記事に関係する私自身の個人的な思い出があります。私が大学の学部2年生のときに受講した、一般教養に相当する科目の哲学の授業での教科書がこの『哲学ってどんなこと?』だったのです。そのときの先生が入不二基義先生でした。

 当時私は心理学科に所属していましたが、心理学というよりは哲学の方に興味があって、すでに哲学の本をいくつか読んでいました。 デカルトやカントやニーチェキルケゴールメルロ=ポンティといった哲学者の本です。それで、こういう難しい本を読み、こういう哲学者たちの考えたことや難しい概念を知ることが深い哲学なのだ、と私自身も思っていました。そうすることが私の知りたい問題を解決してくれる、という風にも。

 この『哲学ってどんなこと?』を用いた授業では、哲学者の名前も難しい概念のこともほとんど出てきませんでした。なので、最初の方は物足りない気がしていました。「ぜんぜん深くない。こんなのが哲学なのか」なんて今思えばかなり生意気なことも思っていたのです。

 ですがこの『哲学ってどんなこと?』の議論と入不二先生の授業が進んで行くにつれ、議論がどんどん高度になっていくと、そのすごさと面白さが分かるようになってきました。そして私自身の哲学観も変わっていったのです。その頃から永井均中島義道や入不二先生の本なども読み、自分が問題を感じていることを自分で考えることが大事なんだと思うようになったのでした。

 

 

 

 

◆おわりに

 この記事で哲学についてほんの少しでも具体的にイメージすることの手助けになったのであれば、この記事は役目を果たすことができたのかな、と思います。読んでくださったみなさんにとって何か得るものがありましたら嬉しいです。

 

 次回は幽谷霧子の【夕・音・鳴・鳴】のTRUEコミュ「でんごん」を読んで、シャニマスの中の哲学のお話ができたらいいなと思っております。そしてその次にデカルトの『省察』と【我・思・君・思】「かなかな」のお話をしたいなと思っています。

 もしよろしければ次回以降もどうぞお付き合いください。ここまで読んでくださってどうもありがとうございました。

 

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(2020年4月30日)