現実よりも現実らしく、夢よりも夢らしく

「現実よりも現実らしく、夢よりも夢らしく」/「響き」の小説 [pixiv]より転記。

 

 私はこの世界に生きてるのかどうか疑問に思うことがある。もちろん私は生きている。肉体を持ち、心臓は動き、呼吸をし、食べ物を食べ、何事かを意識し、何事かを思考し、睡眠を取り、ときに夢を見る。私はこの意味で確かに生きている。これは単に生物学的に生きているということ以上の意味で、私は生きていると言えるだろう。だが重要なのはそれではない。
 私はこの世界に生きているのか疑問に思うというその疑問は、私はこの世界の中に居場所があるのかどうか疑問に思えるということに等しい。「居場所」という言葉はいささかナイーブな言葉であると思う。他に言いかえるならば、私が世界に歓迎されているのかどうか疑問であると言える。


 私はこの世界に歓迎されていないのではないか、という実感が私にはある。どこに行っても私は余計なのだ。割り切れずに余る余りのようなものだ。グループを作れば余りとして残り、幸運にもグループに入ることができたとしてもその中でオッドとして他の人の顔を引きつらせる。口を開けば他人の顔を凍らせ、場の空気をお通夜に変える。私はどうやらそういう人間であるらしいのだ。
 もっと言えば、「誰でも歓迎」という看板に釣られて行ったところで「こいつも来ちゃったよ、どうしよう」と思われる人間であるのだ。「誰でも歓迎」の「誰でも」の中にそもそも私は入れられていない。そもそも勘定に入れられていないのが私だ。
 そんな私が生きているなどと言えるだろうか? 確かに生物学的にも、それ以上の意味でも、私は生きていると言えるだろう。けれど、誰からも、世界からも歓迎されない私が、世界の中に生きていると言えるだろうか? そもそも世界という土俵に上げてもらえていないのだから。


 だから私は夢を見る。夢の世界は私が開く世界で、私だけが開く世界だ。夢の世界を、人は非現実的であると言う。夢は現実ではないということだが、夢はしかし私にとってはまぎれもない現実だ。それをなぜ他人は「非現実的だ」などと言えるのだろう。
 私にとっては、私を歓迎しない世界の方が、よっぽど夢であると言えるような気がしている。いや、もちろん私は日々の生活の中で、世界にうまく馴染めるように努力している。電車の中ではおとなしくしているし、レポートを期日までに提出したり、労働者として働くこともできている。そしてそうした生活が大事だと思っているし、それを積み重ねることなしには私の未来は確かなものとしてはありえないだろうとも思っている。世界は夢のようだとさっき言ったけれども、同時に世界こそが現実だとも思って私はそこに生きているのだ。
 ああ、やっぱり私は世界に生きているのか? 私を歓迎しない世界の中で、私は息を潜めてその成員にうまく成りすまそうとしている。「誰でも歓迎」の「誰でも」に入れてもらえなかったのに、呼ばれてもいない会合にのこのこと出て行ってその場の人たちの顔をゆがませないように私はうかがっているかのようだ。呼ばれてもいない会合にのこのこと出向いてその場の人たちの顔色を青ざめさせることほど恥ずかしいことはない。私にとってはある意味で毎日がそうなのだ。


 夢と現実と、どっちが現実であるというのだろう。いや、そのように問うている時点で、夢と現実はもう区別されている。その区別に乗っかった上で、もう一度問うてみよう。夢と現実と、どっちが現実なのか。私が思うに、どっちも十分現実らしく、どっちも十分夢らしい。
 夢はもちろん夢であるからには現実ではない。それは夢だ。けれど、それはやはり私に現れる現実なのだ。だからそれは私にはかけがえのない大事なものが詰まっている。では現実の方はどうか。現実は確かに現実だ。そこで私は暮らし、ものを食べ、労働者として賃金を稼ぎ、自らの仕事を果たして成果を挙げようとしている。そこで私は生活しているのだから、それはそれで私はそれを大事な場所であると思っている。けれど、その現実世界は、私を歓迎しているわけではない。私はどうやら世界に求められずにそこに生まれた。誰が望んだのか知らないが、私はそこに生まれた。
 私は生まれてしまった。世界に歓迎されていない。私に居場所はない。さてどうしたものか、私はこの世界を愛することがうまくできない。もちろんできるならば世界に歓迎されたいと私は思う。けれど事実世界は私を歓迎していない。だから私はそんな世界に生きていたいと、そんなに熱心には思っていない。できれば別の風に生まれたかったと思うし、もし可能ならばその願いが叶ってほしいと思う。けれど生まれ直すなんてことは誰にもできやしない。だから私が願う別の生へと可能な限りで変化してみたいと夢想することもある。
 夢想。私はこの現実に生きているけれども、他の生を夢想している。その夢想の中では、この現実は無数に存在しうる可能性の中の一つにすぎないのだ。だからこの現実は、私は確かにそこで生活していて、そこでのルールや約束事を守ってはいるけれども、やはりこの現実は、どこか少しは夢みたいなものなのだ。逃れることはできないし、そこから覚めることもありえないだろうけれども、この現実世界は夢みたいなものなのだ。


 だから私は遠くへ行きたいと願う。ここではないどこか遠くへ。実際にそこへ行ってしまうんじゃない。ただ願うだけだ。旅行に行ったとして、空想していたのとは感じが違うと思うことがある。空想しているときの方が、その行き先は輝いて見えるものだ。それは小説を読むということも同じで、実際に映像化されてしまえば、その映像についてなんて陳腐なんだと感じることは少なくない。想像力は偉大なのである。
 遠くへ行きたいと願うということは、想像力を駆使して、今ここではないどこかへ一瞬にして身を移してしまうことだ。空想の世界の中に、他の生を得る。そのとき現実は、現実としての身分を失い、無数の可能性の一つへと転落する。だから現実は夢みたいなものだ。空想の中の世界は、そのときもっともっと現実感を獲得して私に迫る。そうして私は遠くへ行きたいと願う。


 夜。夏の夜は空気が重く、水分を含んだ風がじっとりと汗ばんだ肌にまとわりつく。湿気の多い空気は揺らぎ、星はあまりよく見えない。冬の夜は空気が鋭く、冷えた刃のような風が首筋を掠める。大気は張りつめ、透き通った黒い水晶のような夜空に星が瞬く。
 星空を眺めるとき、遠い世界を思う。星が何光年という遠くにあり、それが何年も時間をかけてここへ届くことを思うとき、その想像の中の時間は私が生きている時間を優に超え出る大きさとなって私に迫ってくる。私がここに生きているということが、もっと大きな世界の、もっと大きな時間の中の、ほんの一部、誰も省みないようなちっぽけなものとなる。それが、私には寂しくもあれど、心地よく感じられるのだ。私が生きる世界がまるで夢のように思われることと、この世界が無数にも思われる大きさの中のほんの小さな一部でしかないということが、重なるように思われるのだ。


 星空だけではない。屋上に立つとき、ベランダに立つとき、雲が見える。向こうの副都心が見える。雲は上空数千メートルから何万メートルの高さを浮かぶ。それと比べれば地上の私など小さなものだ。そしてその行程を私は知らない。私の知らない遠くで雲は生まれ、私の知らない遠くへと雲は行くのだ。その遠くを、私は思う。
 遠くのビル群は、手が届くように見えるところに聳えているが、今すぐにそこへ行くことはできない。そしてそこへ行ったところで、私が見たビル群という表象は消えてしまうのだ。ビル群という塊は、遠くから見ることによってしか現れない。遠くに立つことで、それはビル群として現れる。ビル群があるということは、すでに私はそこにいないという距離が発生しているのだ。その遠くの場所を、私は思う。
 宇宙の星々、雲、ビル群…… 遠くの場所を思うとき、浮き彫りになるその遠さを、私は埋めることができない。その遠さは、埋められるようなものではない。そこへ行くことはできないのだ。行くことができない遠くの場所が、しかし目の前に見えている。ここと、遠くの向こうという二か所が、断絶した遠さによって連接している。
 その遠さを埋めることができるのは、唯一想像力だけだ。私は想像力によって、空想の中でその遠さを埋める。遠くのその場所へと、空想の中で赴く。今のここという場所は、空想によって薄められ、逆に夢のように揺らぐ。遠くの場所へと向かう空想の方がよっぽど現実として迫ってくる……


 これは死のイメージである。遠くの向こう側の場所と、今ここという場所。この二つは断絶していて、繋がりようがない。未来にいつかやってくるべき死の瞬間を私は知らない。私はいまここで確かに生きているのだから、今死んでいるわけではない。だが、私の死はいつかやってくるだろう。そのように想像することはできる。私が死んだとしたら、誰が何を思うだろうかと想像することもできる。想像によって私は死へと到達する。想像によって、今と未来の死の瞬間を結びつけるのだ。
 けれど、いますぐその二点を結びつけることはできない。向こう側の場所へと今すぐ行くことはできないし、何より行ってみたところでそこは「遠くの向こうの場所」としての表象を失う。死の瞬間に、私は「死」の表象を得ることはできない。私は死んで意識を失ってしまっているだろうから。
 宇宙の星々、雲、ビル群。これらはいつか私に訪れる死の場所にほかならない。私は今ここに確かに生きているけれども、私はいつも空想によって遠くの場所を思い、今生きている場所を夢のように揺らがせている。空想の中で私は今ここの場所と、死の場所とを連接させている。私はこの世界に歓迎されていない。私はこの世界の中に居場所がない。私はだからこの世界の中で生きているのかどうか分からない。まるで死んだように生きているか、生きたまま死んでいるかのどちらかのようだ。
 私は毎日、死へと向かって生きているようである。この現実からたった一人で抜け出して、死へと静かに向かう銀河鉄道に乗っているかのようだ。毎日乗る電車から見える風景は、だから死の世界へと一人で向かう最後の風景のようでもある。
 そのくらいには、現実に対して現実感を覚えていないのである。

 

(2014年12月8日)