シャニマスコミュに見られる哲学的センスの話をするよ――幽谷霧子「でんごん」を読む

◆はじめに

 こんにちは。初めましての方は初めましてです。響きハレです。こちらの記事は、シャニマスPに哲学書をおすすめしたいという企画の第2回の記事になります。

 今回ここでは、シャニマスコミュに哲学的センスが見られるところがある、というお話を、幽谷霧子のpSSR【夕・音・鳴・鳴】のTRUEコミュ「でんごん」を読みながらしていくつもりでおります*1

 

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「でんごん」のほかにも哲学的なセンスが感じられたり直接的に哲学の話題が取り上げられているコミュがありますが、それらは今後哲学書を紹介するときにまた取り上げられたらと思っております。

 

 今回のこの記事では、最初に前回の記事についてのおさらいと捕捉をします。続いて私が考える哲学的センスということを、哲学についての哲学者の記述を引用しながらお話しして、それから「でんごん」の読解に入って行こうと思います。

 よろしければ今回もどうぞお付き合いください。

 

 

 

 

 

 

◆前回の記事について――おさらいと捕捉

◇前回の記事のおさらい

 まずここで、前回の記事についておさらいをさせてください。前回の記事のリンクを添付しますが、前回の記事を読んでいなくても今回の記事を読むことができるようにできるかぎり書いていくつもりでいます。

 

 先日、シャニマスPにおすすめしたい哲学書を紹介するというテーマで記事を書きました。

 

hibikihare.hatenablog.com

 

思いがけず多くの方に見てもらえたことを嬉しく思っております。感謝申し上げます。この記事が、哲学についての関心や新たな認識の一助となれたとしたら幸いです。

 

 前回の記事では、哲学とはどういうものなのかということと、哲学の入門書の紹介をさせていただきました。

 哲学がどういうものなのかというと、それは哲学的な問題に絡めとられて、その問題について考えていくこと、です。哲学は、単に過去の哲学者が考えたことや概念を知ったりすることではありません。哲学的な問題に絡めとられることがその出発点にあります。そしてその哲学的問題は自分の中から出てくるものなのです。

 紹介した哲学入門書は、こうした哲学的問題を考えていくという哲学観に基づいて、そういう問題を実際に考えていく入門になるような本を選んだものになります。実際にどんな本を紹介したかはリンク先の前回の記事をご参照ください。

 

 

◇前回の記事の捕捉

 前回の記事を読み返してみて、捕捉が必要かなと思った点がありましたので、本題に入る前に2点捕捉させてください

 

(1)シャニマスのコミュを理解するために哲学の知識が必要?

 前回の記事では、シャニマスコミュを読むにあたって、哲学(の議論)について知っていたら読解が豊かになる、というお話をさせていただきました。が、これはシャニマスのコミュを読んでそれを理解するために哲学の知識が必要だという意味ではありません。このことにどうか注意してください。

 哲学のことを知っていると、こういう風にも読めるのではないかと読み方の幅が広がる、ということに意義があると思っております。幅を広げることができるのはなにも哲学だけではなくて、引用されている文学作品や音楽や雑誌などについての知識や、実際の経験などもそうした役割を果たすことができます。

 それに、こうしたもの(引用されている文学作品や音楽や雑誌などについての知識や実体験など)がなければコミュが理解できない、という風にはコミュは作られていないんじゃないか、と私は思います。同様に、哲学について知らなくてもコミュを理解することは可能なはずです。

 ですので「哲学のことを絶対知ってね!」とおしつけをする気持ちは全くありません。「哲学の議論について知っていると良いことがあると思うよ!」とおすすめするくらいのつもりでおります。ただ、シャニマスはすでに哲学と絡めて語られている場合が多く、それならぜひ哲学のことももっと知ってもらいたい、と思う部分があります。哲学についての解像度も高くしてもらえたら、もっと話を深めることができて面白さが増すのではないか、と思うのです。それで、シャニマスPにおすすめしたい哲学書の話をすることを思いついたというわけなのでした。

 

(2)哲学をするのに過去の哲学者のことを知る必要は全くない? 

 こちらは哲学とはどういうものかということについての捕捉です。哲学は、単に過去の哲学者について知ることではない、という点を前回の記事では強調して書きました。そのためもしかしたら、哲学をするにあたって過去の哲学者の考えたことや概念を知る必要は全くないのだ、という印象を与えてしまったのではないかと危惧しております。

 もしそう思われてしまったのでしたら、それは前回の私の記事が不十分であったことを意味します。哲学をするのに過去の哲学者の考えたことや概念について知る必要は全くない、ということはありません。過去の哲学者が考えたことを、自分の抱えている問題や問題についての考えにぶつけてみることで、自分の抱えている問題についての理解がより深まることが期待できます(必ずしもそうとは限らないのですが)。

 問題についてあらゆる角度から自分一人で深く考えることができるような大天才は別かもしれませんが、ふつう一人で考えることには限界があるはずです。自分が絡めとられている問題について、たとえばカント的な見方をする場合とフッサール的な見方をする場合とウィトゲンシュタイン的な見方をする場合とで、問題の見え方が異なってくるということがあります。そうすることで自分が絡めとられている問題をよりよく理解することができるようになるのです。

 ですので自分以外の他人が考えたことを知ることは、自分の抱えている問題についての理解を深めてくれます。特に歴史に耐えて今でも読まれ続けているような古典とされる哲学書やそこで用いられている概念はそういう役目を果たしてくれることが多いです。多くの哲学研究者は、そのために過去の哲学書を読み、それらを理解しようと努めていると言えます。

 あとこれは哲学のコミュニティのお話なのですが、特定の哲学者(たち)の議論を知っていてその議論を土台にしながら自分の抱えている問題を言語化するという方針を取ることによって、哲学者どうしで互いの問題を理解したり議論を行ったりしやすくなるというメリットがあります。

 また、哲学者(たち)の議論を知っていてそれらを土台にすることで、自分の問題と思考が単なる空想や妄想ではなく「哲学」の範囲に収まるものだということを示すことができます。そしてそれ自体が、哲学(研究)者として適切に訓練を受けたというイニシエーション的な役割を果たしたりもします。こちらはより学問としての哲学のコミュニティのお話ですね。

 

 前置きがちょっと長くなってしまいました。それでは本題に入っていきましょう。まず哲学的なセンスということで私がどういうことを考えているのかをお話して、その後で【夕・音・鳴・鳴】「でんごん」の読解を始めたいと思います。もう少し前提的なお話が続きますが、どうかお付き合いください。

 それではどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

◆哲学的なセンスについて

 コミュの読解に入る前に哲学的なセンスということについて触れておきたいと思います。前回の記事でお話した、哲学がどういうものなのかというお話をもう少し詳しく展開したお話になります。今回読もうと思っている「でんごん」のコミュの中に私がどんなものを哲学的センスとして感じ取ろうとしているのかをお伝えできたら、と思っております。

 前回お話した哲学がどういうものなのかというのは、哲学の問題に絡めとられること、そうした問題は自分の中から出てくるということでした。

 

 これに沿って、便宜上2つに分けて考えてみます。

 前者は、日常生活を営む世の中が成り立つために当たり前のこととして前提となっていることを当たり前のこととして受け止めないというセンスが関係しています。こうしたセンスを明確にするために、哲学者とそうでない人との間で問いの立て方が異なるというお話をします。

 後者は、誰かが考えた哲学に導かれてそうなってしまうのではなく、自ずとそうしたことが気にかかって仕方がないというセンスが関わっています。ウィトゲンシュタイン永井均が哲学を水泳にたとえた話を引用します。

 霧子のコミュを見るにあたって、まずはこれらの点を見ていきましょう。

 

◇2種類の問題

 ここでは前者の方のお話です。これは簡単に言うと、哲学の問題のとっかかりになるようなセンスです。

 前回の記事で紹介した、永井均の著作『マンガは哲学する』に分かりやすい記述がありますのでそちらを引用してみましょう(前回も引用した部分です)。

 

「世の中の内部で公認された問題とはちがう、世の中の成り立ちそのものにひそむ問題が、きわめて鋭い感覚で提起されているように思われる。だれもが自明と思い、その自明性のうえに通常の世の中的な対立が形づくられているような、もともとの部分がそこで問題化されている」(永井均『マンガは哲学する』講談社,pp.1-2)。

 

 「世の中の内部で公認された問題」(あるいは「通常の世の中的な対立」)と、「世の中の成り立ちそのものにひそむ問題」とが区別されていることに注意してください。問題が2種類に区別されています。この2種類の問題のうち、「世の中の成り立ちそのものにひそむ問題」が哲学が扱う問題です。その問題のとっかかりになるようなセンス、それが私がここで考えている哲学的なセンスです

 

 この2つの問題の区別を、哲学者のトマス・ネーゲル分かりやすく例示してくれています。ちょっと長くなりますが引用してみましょう(引用文内の太字強調は引用者によります)。

 

 「私たちはみんな、日々、非常に一般的な観念を用いているのですが、そうした観念について、とりたてて考えてみることはありません。ところが、哲学が主に関心を寄せているのはこの観念を問い直し、理解することなのです。歴史家であれば、過去のある時に何が起こったか、と尋ねるかもしれませんが、哲学者は、「時間って何だろう?」と尋ねるでしょう。数学者であれば、いくつかの数の間に成り立つ関係を研究するかもしれませんが、哲学者は、「数って何だろう?」と尋ねるでしょう。物理学者であれば、原子は何からできているのか、重力を説明するものは何だろう、と尋ねるかもしれませんが、哲学者は、私たちの心の外に何かが存在するということを私たちはどうやって知ることができるんだろう、と尋ねるでしょう。心理学者であれば、子供はどのようにして、ある言語を学習するのかを研究するかもしれませんが、哲学者は、「あることばは、どのようにして何かを意味するようになるのだろう?」と尋ねるでしょう。映画館にお金を払わずにこっそに忍び込むのは不正ではないか、と尋ねることはだれにでもあるでしょうが、哲学者は、「ある行為を正しいとか、不正なものとするのは何なのだろう?」と尋ねるでしょう。

 私たちは、時間、数、知識、言語、正しいことと不正なことといった観念を、たいていの場合、当たり前のものと考えていますし、またそう考えなければ生活していけないでしょう。しかし、哲学は、こういった事柄そのものを調べるのです。その目的は、世界や私たち自身についての理解をちょっと深めることです」(トマス・ネーゲル『哲学ってどんなこと?』岡本裕一朗・若松良樹訳,昭和堂,pp.5-6)。

 

 「過去のある時に何が起こったのか」「いくつかの数の間に成り立つ関係」「原子は何からできているのか」「重力を説明するものは何だろう」「子供はどのようにして、ある言語を学習するのか」「映画館にお金を払わずにこっそり忍び込むのは不正ではないか」といった問題が、永井の言う「世の中の内部で公認された問題」に当たります。これらは、問題(解かれるべき問い)であるということ自体が世の中の内部において公認されているのです。

 一方の、「時間って何だろう?」「数って何だろう?」「私たちの心の外に何かが存在するということを私たちはどうやって知ることができるんだろう」「あることばは、どのようにして何かを意味するようになるのだろう?」「ある行為を正しいとか、不正なものとするのは何なのだろう?」という太字で強調した問題が、永井の言う「世の中の成り立ちそのものにひそむ問題」に相当します。これらは、日常生活が営まれる世の中の内部においては、問題(解かれるべき問い)と公認されてはいません。ネーゲルが言うように、私たちは、時間や数や知識や言語や正しいことや不正なことといった観念を「当たり前のものと考えていますし、またそう考えなければ生活していけない」のです。

 日常生活が営まれる世の中が成り立つためには、こうした観念は当然のこととして前提となっている必要があります。それらの観念を当然のこととして前提とするということは、それらに対して疑問を差し挟まないということ、それらを問題視しないということです。つまり、それらの観念に疑問を差し挟まないということ、それらの観念を問題視しないということによって、世の中が成り立っていると言えるのです。それゆえ、時間や数や知識や言語や正しいことや不正なことといった観念に対して疑問を差し向けたり問題視したりするということは、世の中の内部において公認されるようなことではないのです。

 このように、哲学者は世の中が成り立つために当たり前のこととしていることに対して、それを当たり前のこととして受け取らず、問いを差し向けます。世の中が成り立つために当たり前にしていることは、あまりにも当たり前すぎるので、日常生活を営む中でそれに視線が向けられたり、それが意識されることはあまりありません。ここで私が考えている哲学的センスは、そういうものに対して視線を向け、それを当たり前のものとして素通りしない(できない)というものなのです。

 

 

◇水の中を泳ぐイメージ――潜ると沈む

 ここでは後者の方のお話です。水の中を泳ぐ、という比喩的なイメージを用いてこのお話をしていきます。

 哲学者のノーマン・マルコムは、師匠であるウィトゲンシュタインの回想録を書いています。その回想録で、マルコムはウィトゲンシュタインが哲学を水泳にたとえたというエピソードを伝えています。

 

 「ウィトゲンシュタインは哲学的思考を水泳にたとえる比喩を好んでした。水泳では人間のからだは自然に水面に浮かび上がる傾向がある。人間は水中にもぐろうと努力せねばならない。哲学も同じようなものだ、と」(ノーマン・マルコム『ウィトゲンシュタイン』板坂元訳,平凡社ライブラリー,p.70)。

 

この比喩に従えば、哲学的な思考をすることは水の中に潜って泳ぐことにあたります。日常生活は空気の吸える水面にあり、水面で生活する人たちは水中がどうなっているかを知る必要がありません。成り立っている世の中の内部で自然と生きることができている人たちにとって、世の中を成り立たせるための前提として当たり前になっていることに対して疑問を抱かないのと同じです。水中を泳ぐというのは、世の中を成り立たせるための前提として当たり前になっていることを当たり前のこととせず、それはどういうものなのか、どうして前提としてそれが必要なのか、といったことを考えるということです。

 この水中を泳ぐという比喩を、永井均は2つに分けています。

 

 「この話を読んだとき、ぼくはこう思った。でも、ひょっとしたら、人間の中には、自然にしていると、どうしても水中に沈んでしまうような特異体質のやつがいるんじゃないか、そしてたとえばウィトゲンシュタインなんかがそうなんじゃないか、と」(永井均『〈子ども〉のための哲学』講談社現代新書,p.194)。

 

永井均はここで、水中を泳ぐ人を、水面からわざわざ潜って水中を泳ぐ人と、何もしなくても自然と水中に沈んでしまう人とに分けています。自然と水中に沈んでしまうというのは、世の中を成り立たせるために前提となっていることに対して自然と目が向いて疑問を抱いてしまったりするということに相当します。そしてその2種類の人それぞれで、哲学の意味が異なると永井は言います。

 

 「水面に浮かびがちな人にとって、哲学の価値は、言ってみれば、水面下のようすを知ることによって水面生活を豊かにすることにあるだろうし、それしかないだろう。水面に浮かんでいるだけではつまらないし、人生に深みも出ない、ちょっと水面下のようすも見てみたい、といったところだ。

 でも、水中に沈みがちな人にとっての哲学とは、実は、水面にはいあがるための唯一の方法なのだ。ところが、水面から水中をのぞき見る人には、どうしてもそうは見えない。水中探索者には、何か人生や世界に関する深い知恵があるように見えてしまうし、ときには逆に、そんな深いところに沈むことが、水面でのふつうの生活にとってどんな役に立つのか、なんて、水中にいる人が聞いたら笑いたくなるような(あるいは泣きたくなるような)問いが、まじめに発せられたりもする。この二種類の人間にとって、哲学の持つ意味はぜんぜんちがう」(同上,pp.194-195)。

 

 水面に浮かびがちな水面生活者と、水中に沈みがちな水中探索者それぞれで、哲学の意味が違っています

 水面生活者にとっての哲学(=泳ぐこと)は、水面生活を豊かにするためにあります。水中の面白く物珍しい様子を知ることで、水面生活が豊かになるというのです。

 一方の水中探索者は、自然にしていると水中に沈んでしまいます。ですが息をする(生活する)ためには水面に上がらなければなりません。ですので、自然に沈んでしまう人が水中に上がるためには、泳ぐ(=哲学的思考をする)必要があるのです。

 それはこういうことです。水中探索者が自然にしていると水中に沈んでしまうというのは、世の中を成り立たせるために当たり前のこととなっていることを、どうしても当たり前のこととして受け止められないということです。時間とか数とか、言葉が何かを意味するとか、何かを知ることができるとか、正しいとか不正とか、そうしたことが水中探索者には気になって仕方がない。でもそうしたことを気にしたままでは、生活することはできません。哲学者も人間ですから、世の中の内部で日常生活を送ることができなければならないのです。

 人と約束をしてそれを守ったり、買い物をしたり、人と会話をしたり、法律を守ったりしないと、世の中の内部で日常生活を送ることができません。そしてそれらを行うためには、時間や数や、言葉が何かを意味するということや、何かを知ることができるということや、正しいとか不正といったことを、前提にしていないといけないのです。ですが哲学者はそれらを当たり前のこととして受け止めることができません。そこで哲学者は、それらを日常生活の前提とするために哲学的思考を必要とするのです。水面に浮かび上がるために泳ぐ(=哲学的思考をする)というのはこういうことなのです。これは、哲学者が納得できるかたちで「世の中」の成立を論理的に説明するということなのです。

 

 このように自然と水中に沈んでしまうということもまた哲学的なセンスの重要なポイントだと私は思います。それゆえ、哲学的センスがあるということは単に哲学者の議論や哲学の話題を引用することだけではない、と思うのです。それらは水面から水中の様子を覗きに潜っていくことに当たるからです。哲学は、水中に潜ることではなく、自ずと水中に沈んでしまっている人が水面に上がるために必要としていることなのです*2

 

 

◇哲学的なセンス

 私がここで考えている哲学的なセンスというのは、世の中を成り立たせるために前提となっていることに関して視線を向け、さらにそれを当たり前のこととして受け取らないというセンスです。そしてそれは、哲学の話題を持ち出すということだけでなく、自然とそうしたところに目が向いてしまうというセンスです。このセンスに従うと、「世の中」の成立が崩れてしまいます。「世の中」の成立が崩れてしまうのですが、わざと崩しているわけではないのです。そういうところから哲学は始まるのです。

 シャニマスのコミュの中には、世の中を成り立たせる前提に視線を向けて、しかもそれらを当たり前のこととして受け取らないことで世の中を成り立たせる前提として機能させなくする見方が挿入されることがありますしかもそこで登場うする人は、自ずとそうしたところに目が行ってしまうように見えるのです(少なくとも私には)。

 

 私はシャニマスのコミュのそういうところに哲学的なセンスを感じています。とりわけ、幽谷霧子のコミュの中にそれを感じることがたくさんあり、そのうちの一つが【夕・音・鳴・鳴】のTRUEコミュ「でんごん」なのです。

 「でんごん」から読み取れる哲学的な問題は、記憶に関する問題と、ある事物や人物の存在の持続に関する問題です。過去の記憶についての観念や、ある事物や人物が存在し続けるという観念もまた、世の中を成り立たせる前提的な観念です。「でんごん」ではこれらの観念が、世の中を成り立たせる前提となっているようなものとは違った風に登場するのです。そこに注目してコミュを読んでいきたいと思います。

 

 それではいよいよ【夕・音・鳴・鳴】「でんごん」のコミュの読解に入っていきましょう。

 

 

 

 

◆【夕・音・鳴・鳴】「でんごん」を読む

◇コミュの概要

 「でんごん」は幽谷霧子の2枚目のpSSRのTRUEコミュです。シャニマスのコミュは、1つのカードの中でエピソードが繋がっていたり繋がっていなかったりとさまざまで、繋がっているかどうかも読者の読みにゆだねられていることもありますが、今回この「でんごん」は独立した1つのエピソードとして取り上げます

 

 このコミュは、(おそらく)駅から事務所までの道のりをプロデューサーと霧子が歩く間の会話になっています。道すがら空き地に出くわし、プロデューサーと霧子の2人はそこにかつてどんな建物が建っていたのか思い出せません。そこで霧子は、誰も知らないうちに建物を移動させてしまういたずらな妖怪の話をします。コミュはその妖怪と、記憶をめぐって展開していきます。

 このコミュは、大きく4つの部分に分けることができます

 

 (1)空き地にかつて建っていた建物が思い出せない

 (2)建物を移動させてしまう妖怪がいる

 (3)霧子もその妖怪に移動させられてきたのかもしれない

 (4)もしいつか移動させられるようなことがあっても事務所のことを覚えていたい

 

  (1)の建物が思い出せない、というのは日常の中でよくある話だと思います。私もそういう経験があるし、思い出せないねと人と話したことがあります。

 (2)の建物を移動させてしまう妖怪がいるという話に移動することで、話が哲学的な色を帯びてきます。記憶が問題になるからです。建物を移動させてしまう妖怪は、建物について知っている人たちみんなの記憶を操作することができます。その建物に住んでいた人でさえも、「その建物は最初からそこにあった」という記憶を持たされるのです。そうとは知らずに。

 ここで記憶についての問題が一つ上の階に上がっています。(1)の段階では、ただ普通にかつて建っていた建物が思い出せないだけです。これは日常的によくあることです。ですが、(2)の段階では、記憶は妖怪によって操作されるものになっています。いまある通りの記憶さえも、妖怪によってそうであるという風に作られたものかもしれない。ここに現れている記憶についての問題は次の2つです。1つ目は、記憶というものそのものの性質です。記憶の変化を記憶することはできないのです。そして2つ目は、記憶(認識)されない出来事が起きたと言うことができるのかということです。

 最初からそう(いう記憶)であるという風に後から記憶が作られているのですが、それを認識することもできなければ記憶することもできません。誰も認識することができないようなことが、誰もそうだとは気づくことはできないんだけど実は起きていたかもしれない、ということをここで2人は考えているのです。この点を抑えることは重要だと思います。

 (3)では、妖怪のいたずらの話が建物の移動から人物の移動へと移動します。誰も気づかないうちに建物が移動させられている(かもしれない)ように、霧子もまた妖怪によって移動させられて今ここにいるのかもしれない、というわけです。ここでも、移動前と移動そのものについての記憶はありません。霧子さえもそれを知らないし、その記憶がないのです。ここで見ておきたいのは、霧子も妖怪によって移動させられてきたかもしれないという可能性に対する、霧子自身の応答です。ここに霧子独特の哲学的なセンスが現れていると私は思います。

 (4)は、その妖怪の移動がこれから起こるかもしれないことに話が移っています。(3)までは、妖怪による移動は過去に起こった(かもしれない)こととして語られていましたが、(4)ではそれは未来に起こるかもしれないこととして語られています。霧子は、もしこれから移動させられるようなことが起きたとしても、事務所のことを覚えていたい、と言うのです。

 

 それではこれから、この4つの区分けに沿って話の展開を追いながら、このコミュを読んでいきましょう。霧子の哲学的なセンスを見るにあたって、記憶の問題とともに、霧子が事物や人間の存在の持続に関してどのように感じているかが重要なポイントになると私は考えています。

 いざまいりましょう。

 

 

◇(1)空き地にかつて建っていた建物が思い出せない

 コミュの導入部分です。道すがら空き地に出くわすのですが、霧子とプロデューサーの2人はかつてそこにどんな建物が建っていたのか思い出せません。こういうことは日常的によくあることなんじゃないかなと思います。みなさんも経験ありませんか?

 

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◇(2)建物を移動させてしまう妖怪がいる

・妖怪

 霧子はここで、ある妖怪の話を持ち出します。それは、誰も知らないうちに建物を移動させてしまう妖怪です。プロデューサーはその話を聞いて、「動いちゃった建物に住んでた人とかは、驚くんじゃないか?」と疑問を呈します。それに霧子はこう答えます。

 

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 妖怪は、建物を移動させるだけでなく、建物について知っていた人の記憶も操作してしまいます。移動させる建物について、「最初からここにあった」と思うように記憶を作り替えてしまうのです。

 ここで霧子とプロデューサーは、建物に住んでいた人の記憶について話しています。ですが霧子は「みんなが知らないうちに町の中の建物をどこかに動かしちゃう」と言っていました。「みんなが(知らない)」と言っているところから、建物に住んでいた人だけでなく、建物について知っていた人「みんな」の記憶も操作される、と読めます。

 おそらく記憶だけではありません。建物を移動させ記憶を操作するほどの能力を持った妖怪ですから、土地の権利書や登記簿なども作り替えてしまうことができると思われます。つまり人間の記憶を含めて、建物がいつからそこに建っていたかという証拠を丸ごと、今ある通りに昔からあったという風に作り替えてしまうのです。

 この妖怪のお話は、今ある通りにある世界がいま記憶している通りに(公的な文書などの記録にある通りに)昔からあった、という世の中で当たり前になっている認識の足場を崩してしまうお話です。記憶や公的な文書は間違うことがあるとしても、最初からそうであったという風に後から丸ごと作り替えられるといったことが起こるとは想定されていません。そんなことはふつう起こらないとされています。この妖怪のお話は「世の中で公認されている問題」ではないのです。この妖怪のお話から哲学的な色を帯びていきます。

 

・記憶の問題

 ここでは記憶に絞って考えていきましょう。

  (1)と(2)の記憶の違いを考えてみる必要があります。(1)は、あることを思い出したいのに、思い出せない状態です。思い出したいことが思い出せず、それを忘れてしまったということを自覚しています

 もう一方の(2)でも、建物が移動させられる前の状態を思い出すことはできません。思い出せないという点では共通しているように見えます。ですが決定的に違うのは、忘れてしまったということに気づくことはできないということです。(2)では、そもそもその建物は「最初からそこにあった」と認識するように記憶が作り替えられており、そのように記憶が操作されたことの認識もないので、記憶の操作についての記憶もないのです。したがってこれは、全く何も忘れていない普通の状態と何も違わないと言えます。

 (2)において妖怪に操作された状態の記憶が、何も忘れていない普通の状態と同じだという点をおさえておくことは非常に重要です。このポイントをもっと押し進めて考えてみましょう

 建物の移動とそれに関する記憶の操作が実際にあったとして、それについての記憶はありません。それならば、そうした建物の移動とそれに関する記憶の操作は、一切起こらなかったと言っていいことになるはずです。

 「一切起こらなかったと言っていい」という断定を強い主張だと感じられたかもしれません。ですが、それが起こったということに原理的に気づくことができないような事象が、起こったとどうして言えるのでしょうか。誰もそれが起きたということに気づくことはできません*3。それが起きたという記憶も、それが起きたという物的証拠も、何もありません。むしろ、記憶と物的証拠は、今ある通りに建物がずっと昔からあった、ということを示します。

 妖怪が起こす事象は、原理的に気づくことができないようなことです。それならば、それは一切起きなかったということと何が違うのでしょうか。それは起こらなかった、のではないでしょうか。霧子が話す妖怪は、それほどの力を持ったものなのです*4

 このように、「原理的に認識不可能なことや原理的に記憶不可能なことは、起こらなかったのだ」と主張する立場を、反実在論と呼びます。反実在論者は、認識することが不可能なことが起きたとしてもそれが本当に認識することが不可能であるのなら、そんなことが起きたと考えるのは無意味だ、と主張します。存在すると言うことに意味を持たせられないのなら、そんなものは存在しないのです。反実在論者にとっては、「存在する」と言うことに意味があるのは認識可能なものだけなのです。認識可能であるということを、「存在する」と言えることの条件としているのです。

 

・5分前世界創造説

 ところでこの妖怪のお話は、哲学者のバートランド・ラッセルが提示した5分前世界創造説というお話にちょっと似ている、ということが以前から話題になっていました。確かにちょっと似ています。5分前創造説は、記憶とか歴史資料とか古文書とか遺跡とか化石とか地質など過去の証拠となるようなものを含めて、世界は丸ごと5分前に創り出された、というお話です*5

 ラッセルは、過去がどのようなものであったかということだけでなく、過去があったということそのものまで含めて、それらは歴史資料や化石などの証拠に依存すると考えています。歴史資料や化石などの証拠から独立に過去があった、とは考えないのです。それゆえ、ラッセルはこうした想定は無意味である、と考えます。世界中のどんなものにあたったとしても、過去はずっと今私たちが認識している通りにあったということを証拠立てるだけです。創造そのものの証拠もありませんし、創造以前の過去についての証拠もなにもありません。それなら、そんな創造などなかったのと同じはずです。

 妖怪のお話が5分前世界創造説と似ていることは確かだと思います。記憶(とさまざまな証拠)も含めて一挙に操作(創造)されるということ、その操作(創造)自体に気づくことは不可能だということ、これらが似ています。5分前世界創造説の方は、世界全部丸ごとの創造であるのに対して、妖怪の話は世界内部の一部分であって創造ではなく移動であるという違いはあり、その違いは大きな違いなのですが、ここではそれはおかせてください*6。ただここで主張しておきたいのは、霧子(のコミュ)に哲学的なセンスがあると私が思うポイントは5分前世界創造説に似た話を霧子が提示したという点だけではない、ということです。重要なのは、この続きにあると私は考えています。

 

・2つの忘却

 (3)に移る前に、もう1つここで気になる言葉を拾っておきます。それは、上で引用した霧子の発言(「ずっと前から「ここにいた」って人の記憶も一緒に変わっちゃうみたいで」)を受けてプロデューサーが言った次の言葉です。

 

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 ここで言う「何か忘れる時」というのは、一見すると、このコミュの会話の端緒となった建っていた建物が思い出せないことを指しているように読めます。空き地にかつて建っていた建物を忘れてしまって今では思い出せないが、そんな風に忘れてしまったのはこういうことが起きたからなのだ、という風に。

 ですが、すでに確認したように、空き地にかつて建っていた建物が思い出せない思い出せなさと、妖怪のしわざで建物が移動させられてしまったことに気づかない思い出せなさは、全く違う思い出せなさです。ですから、空き地に立っていた建物が思い出せないというのは妖怪のしわざによるものだ、と読むのは無理があると思います。

 それなら、プロデューサーはここで間違ったことを言っているのでしょうか? そうではない、と私は考えています。プロデューサーはそもそもここで空き地に立っていた建物が思い出せないことだけを指して言っていたのではない、と読むこともできるのではないか、と思うのです。

 霧子が話した妖怪の話では、記憶も含めて操作されます。そこでは建物が移動させられる前の記憶はなくなってしまいます。そしてそれは、記憶がなくなったということに関する記憶すらもないものです。そういう忘却が、プロデューサーが言った「そんな感じ」なのではないでしょうか。

 そうだとすれば、プロデューサーの言う「何かを忘れる時」というのは、忘れたことすら忘れてしまうような忘却ということになります。まるで最初からそんな過去はなかったということになってしまうかのような、そんな忘却です

  実は私たちは日常的にそういう忘却を経験しているのではないでしょうか。道ですれ違う知らない人が着ていた服の色、たまたま横を通過した自動車の車種、カフェで近くに座っていた人たちが話していた他愛もない話……こういったことを全て記憶しているという人はほとんどいないはずです。それらは目に入り耳に入っているはずですが、ただただ忘れられて行きます。そういうものがあったということさえ忘れてしまうほどに。

 

 興味深いのは、ここでプロデューサーは「忘れる」という言い方をしているということです。妖怪の記憶の操作は、最初からその建物はそこに建っているという記憶を持たせることができるものです。この記憶の操作を受けた人は、何も忘れていないのと同じです反実在論の立場ではそういうことになります。

 けれどもプロデューサーはそれを「忘れる」ことだと言っています。「忘れる」と言うということは、覚えているべき記憶があったということです。ここでプロデューサーは反実在論の立場を採っていないのです。

 それゆえプロデューサーは、誰も記憶できないし、物的証拠も全くないし、覚えていないということすら誰も気づくことができないような、そういう過去が実在すると考えていると言えます。そしてそれはこの後の会話に続くように、霧子もそうなのです。記憶から独立に、誰からも記憶されず忘れられて最初からなかったことと同じになってしまうような、そんな過去そのものが実在すると考えているのです。これは反実在論とは真逆の、実在論の主張です。2人は実在論者だということが、ここから分かるのです。

 霧子もプロデューサーも、実在論とか反実在論とかそうした考えをふまえてこの話をしているわけではないと思います。ですが、2人の話からそうした問題を読み取ることが可能です。そして、霧子が提示した妖怪と記憶の話を反実在論の水準まで読み取ることで、霧子とプロデューサーの、とりわけ霧子の実在論の立場を、浮かび上がらせることが可能になると思われるのです。

 反実在論は、認識可能であるということを「存在する」と言えることの条件としているのでした。それゆえ認識可能な領域こそが、「存在する」と言える世界の領域だということになります。ですが、霧子は認識可能な領域の世界を超えて、ある事物や人物の存在が持続する、と考えているのです。これは反実在論ではなく実在論の考えにほかならないのです。

 妖怪による移動と記憶の操作は認識不可能だとしてもあったかもしれない、という実在論的な考えは、実はそれほど奇異な考え方ではないと思います。これは哲学においては素朴実在論と呼ばれるものです。常識的な世の中においてはこうした素朴実在論が主流の考えになっています。むしろ反実在論的な考え方の方が常識からかけ離れた変わった考え方ではないでしょうか。ならば霧子の実在論はそうしたふつうの素朴実在論なのでしょうか

 霧子の実在論がどういうものなのか、それは次の(3)ではっきりと現れてきます。

 

 

◇(3)霧子もその妖怪に移動させられてきたのかもしれない

・自分も移動させられてきた?

 事務所が近づいてきたときに言ったプロデューサーの次の言葉によって話が展開していきます。

 

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霧子が話した妖怪は、建物を勝手に移動させてしまう妖怪でした。ここで妖怪が移動させる対象は、建物から人物へと変わります。 「移される前の記憶は忘れちゃってるけど」、霧子もどこかから妖怪によって移されてきたのかもしれない、と。

 このプロデューサーの話を聞いた霧子はなんだか嬉しそうです。いまいる場所に移されてくる前にいた場所は南の島かもしれないし北の国かもしれない。霧子とプロデューサーは楽しそうにそんな話をします。

 そう、楽しそうなんですよね。こういうところが霧子らしいなと感じます。ちょっとここで、自分が霧子の立場だったらこの話をどう受け止めただろうか、ということを考えてみたくなります。みなさんも考えてみてください。

 建物が移動させられてしまう妖怪については、自分とはあまり関係のないこととして聞くこともできると思います。ですが、自分自身の移動となるとそうはいきません。 

 物心ついて自分についての記憶を持てるようになってから現在まで、全てとはいかないまでも一貫性と連続性を伴って自分の過去を記憶している人が多いのではないかと思います。私もそうです。幼少期から現在まで、自分はどこで生活してどんな風に成長して何を経験してきたか、という記憶は飛び飛びながらも一貫性と連続性のあるものとして確かにある。みなさんの多くもそう思っているのではないでしょうか。

 でもこの妖怪の話が差し挟まれると、そうした自分についての記憶の底が抜けてしまいます。私は本当は、いま記憶している通りの人生を歩んできたのではなく、ある日突然、それまでの自分自身の本当の記憶は消し去られていま私が記憶している通りの記憶を持たされてどこかから連れてこられたのかもしれない……

 この可能性、みなさんはどう思われるでしょうか。ここでは私がどう思うかを少し書かせてください。私はこの話を恐ろしく感じます。ですがそれは、私が自分の歩んできたと記憶している人生に対して愛着を感じていてそれが本当ではないかもしれないからという理由ではありません。私が恐ろしいと感じるのは、自分が本当に体験したはずのことをすっかり忘れてしまっている(忘れたことさえ忘れている!)かもしれないということが、恐ろしいのです。

 ある出来事について忘れたことさえ忘れるということは、そもそもそんな出来事は起こらなかったということと区別することができません。まして霧子の話す妖怪は、記憶だけでなく物的証拠についても力を及ぼすことができるのですから、忘れられてしまった出来事が起きたという証拠をこの世界の中に見つけることはできません。ですからやはり、そんな出来事は起こらなかった(ということにならざるをえない)のです。

 でも、もし妖怪のそのいたずらが本当に起きたことなのだとしたら、妖怪によって消されてしまった本当の記憶があるはずで、体験したはずなのに忘れられてしまった本当の出来事があったはずです。本当は起きた出来事なのに、最初からそんなこと起こらなかったということにされてしまうのです。あったのになかったことになる! そこに、私は恐ろしさを感じるのです。

 

 霧子の話に戻りましょう。霧子は、自分が妖怪によってどこかから連れてこられたかもしれない、という話を面白がります。ここに霧子の独特の感性が現れていると思います。それは、すでに確認した、霧子の実在論が関係していると思われます。

 少し回り道をすることになりますが、他の霧子のエピソードから霧子の実在論の特徴を探ってみましょう。その鍵になるのはです。

 

・夢

 あったはずのことを忘れてしまって、忘れたことさえ忘れてしまって、最初からそんなものなかったことになるということを、私たちは日常的に経験しています。その最たるものは夢です。妖怪によって移されてくる前、霧子はどこで何をしていたのか。それは忘れられています。この忘れられたことは、夢に似ています

 夢に似ているのは、次の2点です。(a)すっかり忘れられている(b)そんな出来事はなかったことになっている(起きたという証拠が全くない)

 

 (a)夢は、目覚めた後に急速に忘れられてしまうものです。長大な夢を記憶していることもありますが、毎回毎回長大な夢を覚えていられるというのはあまりないことだと思います。

 それだけではありません。目覚めた後に夢を見た記憶がなかったとしても、忘れられてしまっただけで人間は眠るたびにいつも夢を見ているのだ、と言われることがあります。これは生理学や脳についての研究が主張していることです。ですが、夢を見たという意識や記憶抜きに、自分が本当は夢を見たということを、どうやって確認することができるのでしょうか。これは忘れたことさえ忘れるということが、そもそも何も忘れていない(忘れてしまった出来事など起きていない)のと同じだということに相当します。

 (b)もし夢の内容を覚えていたとしても、夢の中で体験したことや、夢の中で起きたことの証拠を、目覚めた後の世界で探そうとしても見つけられません。目覚めた後の世界の中の視点で見れば、夢の中で体験したことや、夢の中で起きたことは、起こらなかったことなのです。妖怪が事物や人間を移動させるとき、その移動の証拠は残らないので、移動なんてそもそも起きていないと見なされるはずです。その点も夢に似ています。

 

 以上のように、妖怪のいたずらは夢に似ています。正確には、妖怪によって移される前の、妖怪によって記憶が消される前のことが、夢の世界に似ているのです。このように夢に似ていると考えると、「でんごん」もまた霧子の他のエピソードの系列に連なる話だということが分かります。夢と現実は霧子のテーマの一つだからです。確認してみましょう。

 sSSR【霧・霧・奇・譚】は、うさぎをめぐって夢と現実を横断するお話です。sSR【我・思・君・思】「かなかな」は、デカルトの夢の懐疑を参照しながら、夢と現実を越境して霧子と咲耶が同一人物として存在し続けることについて思いを巡らせています。ほかにも、pSR【白・白・白・布】「エビさん」ではプロデューサーの夢の中に霧子が登場していますし、sSSR【娘・娘・謹・賀】「三峰結華」では、霧子の夢の中に三峰結華が登場ししています。

 このように霧子のエピソードでは夢の話、とりわけ夢と現実を越境する話が何度も主題になっています*7。特に【霧・霧・奇・譚】と【我・思・君・思】では、夢と現実世界を越境して、あるものや人物が同一の存在として連続するという話が語られています。これは反実在論とは真逆の実在論の考えの中でも、かなり常識的なものとはかけ離れたものだと思います。

 夢と現実世界を越境してあるものや人物が同一の存在として連続するなんていうことは、ふつうはありえないこととされています。そういうことは日常的な世の中においては考えられていません。そもそも夢は単なる幻覚ですから、自分が知っているものや人物が夢の中に登場するとしても、それは夢を見た人物(の脳)が生み出したイメージにすぎないのであって、夢の外に実在するものや人物と同一の存在ではないとされているです。

 ですが霧子は、夢と現実世界を越境してあるものや人物が同一の存在として連続するということを考えているのです。それゆえ霧子の実在論素朴実在論とも異なっています。素朴実在論よりも、もっと強力な実在論です。これが霧子の実在論の特徴だと私は考えています*8

 霧子は、このような実在論を考えているように見えます。「論」を「考えている」とまではいかないかもしれませんが、漠然とではあれそういう風に世界を見ているということは確かだと思います。そのため、霧子自身も妖怪によってどこかから移されてきたかもしれない、というプロデューサーの話を霧子はすんなり受け止められたのではないか、と思われるのです。そして、そうした自分の見方に似ている話が提示されたのでそれを面白がることができたのではないでしょうか。

 

・覚えたままにしてくれて

 霧子の実在論の特徴を確認したところで、「でんごん」の霧子の言葉を読んでいきましょう。

 ここでまず読み解きたいのは、霧子も移されてきたのかもしれないという話を受けて霧子が言った言葉です。霧子は、こうした話に「すごい……!」と感嘆をもらした後、次のように言います。

 

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「覚えたままにしてくれて」というのはどういうことなのでしょうか? これは一読したときすんなりとは読みとけない言葉でした。実を言うと、この言葉をどのように読めばいいのか、私の中では答えは出ていません。といっても、どう読めばいいのか全く分からないわけではなく、考えられる読み方がいくつか思いつきます。それらについて考えていきましょう。

 まず2通りの読み方が思いつきます。それは次の2つです。

 

 (a)いま、みんなやプロデューサーのことを記憶しているので、妖怪による移動は起きていないということ。「覚えたままにしてくれて」というのは、いたずらしないでいてくれて、という意味

 (b)みんなやプロデューサーのことをいま記憶している通りの記憶を妖怪が作ってくれたということ。「覚えたままにしてくれて」というのは、いま記憶しているように、みんなやプロデューサーのことを覚えている状態にしてくれて、という意味

 

 この2つの読み方は真逆になっています。(a)の方は移動は起きていませんが、(b)の方は移動は起きています。この違いは大きなポイントです。

 いま問題になっている霧子の発言の文脈を考えてみましょう。プロデューサーが、霧子も妖怪によって移されてきたのかもしれないという可能性を提示しています。その可能性に対し、霧子は嬉しそうに応答します。そこで霧子が言ったのが、上の言葉です。そうであるとすれば、(a)のように移動は起きていないと読むのは文脈からいってふさわしくないように思えます。

 それなら(b)の方が適切な読み方なのでしょうか。(b)は、いま記憶している通りに覚えている状態にしてくれてという読み方でしたが、「覚えたままにしてくれて」という言葉をこのように読むのはちょっと日本語的に不自然な感じがします(ちょっと不自然な日本語を使うのも霧子の特徴、という風に捉える方法もあるかもしれませんが)。

 「覚えたまま」の「まま」という語は、事態が過去から継続しているというニュアンスを与えます。そうであるとすると、「覚えたまま」というのは、覚えているという状態が過去から継続している、という意味になります。妖怪によって記憶が作られているということは、この継続のニュアンスと合致しない気がするのです。この読みに沿ってより自然な表現にするなら、「いま覚えているようにしてくれて」という感じになると思います。

 (a)は日本語的には自然だけれど文脈に沿わない、(b)は文脈に沿うけれど日本語的に不自然、という問題にぶつかります。

 

 もうちょっと考えてみましょう。

 会話の文脈から考えると、ここで霧子とプロデューサーは、妖怪が霧子をここに移動させてきたという仮定に乗っかっています。その移動以前のことを霧子は覚えていません。ですが、いま霧子はみんなやプロデューサーのことを覚えています。いまそうした記憶があるということは確実です。

 そしてその記憶から見た過去には、移動は一度も起きていないように見えます。移動が本当は起きていたとしても、それが起きたということに気づくことは原理的に不可能だからです。それが「覚えたまま」ということです。

 では「覚えたままにしてくれて」はどういう意味になるのでしょうか。「○○のままにしてくれて」という言葉を考えてみましょう。これはふつうは、「○○という状態のまま、手を加えないでいてくれた」ということを表すはずです。このニュアンスが、(a)の方の読みを導き出しています。ですがこれは文脈に沿いません。

 過去に霧子は妖怪によって移されていまここにいる、という仮定のもとで2人は会話しています。それならば、「覚えたままにしてくれて」というのは、(a´)一度行われた移動の後には、まだ妖怪は霧子を移さないでいてくれている、という意味であるのかもしれません。これはありうる読み方だと思います。

 

 そして(b)の方にも、新たにもう1つ読み方が思い浮かびます。

 (a´)の読み方では、霧子に生じた移動は一度きりです。ですが、実は霧子が気づいていないだけで、何度も移動は起きているのかもしれません。本当は何度も移動は起きているのかもしれないのですが、霧子はみんなやプロデューサーのことを覚えています。いまその記憶があります。

 妖怪による記憶の操作に、気づくことはできません。操作されて記憶が変化したという記憶を持つことはできません。妖怪によって移され、記憶が操作された人は、そんなことに全く気付くことなく、最初から自分はずっといまいる場所にいたという記憶を持つのです。本当は記憶は操作されて連続していないのですが、人間が過去を思い返すことができるのは記憶の内側から以外にはありえないので、たとえ操作されていたとしても記憶は連続しているように見えるのです。そうならざるをえないのです。

 するとこうなります。(b´)いま霧子にみんなやプロデューサーとの記憶があるということは、霧子にとってはそれはみんなやプロデューサーのことを「覚えたまま」だということです。妖怪による移動は何度も起きているのかもしれません。ですが、霧子にとってはみんなやプロデューサーのことを覚えたままになっているのです。そういう風に妖怪がしてくれているのです。霧子にとっては、みんなやプロデューサーについての記憶に手を加えないでいてくれているという風に感じられるのです。これが、「覚えたままにしてくれて」のもう1つの読み方です。

 

 以上が、私が思いつく「覚えたままにしてくれて」の読み方です。(a´)と(b´)、事態としては全然違うものですが、霧子の認識の水準では両者には違いはありません。認識の水準では違わないのですが、意味は全く異なっています

 (a´)と(b´)、どちらの読みの方が適切なのか(あるいはほかにもっと適切な読みがあるのか)、私には確信が持てないのですが、霧子の続きの発言を考えると(b´)の方がよりふさわしいかもしれないという気がしています。

 ですが、ここではいずれの読みを採用するとしても重要と思われるポイントを指摘しておきたいと思います。それは、いまそうした記憶があるという現在性がここでクローズアップしてきている、ということです。たとえそれが妖怪によって作られたものだとしても、いまそうした記憶があるということは確実なのです。そしてこの現在性が、(4)を読む際に重要なポイントになってくると私は考えています。

 

 

・この場所じゃなくてもいい

 (4)に移る前に、(3)の中でもう1つ読み解きたい発言があります。それは「覚えたままにしてくれてよかった」に続く次の言葉です。

 

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 認識可能な領域の世界を超えて、ある事物や人物の存在が持続するという霧子の実在論が色濃く現れているのはここだと私は考えています。つまり霧子の哲学的なセンスがもっともよく現れている箇所です。

  妖怪の話を持ち出すことは、いわば哲学的な思考実験(5分前世界創造説や水槽の中の脳など)を引用することに相当します。哲学的な話題を引用するということは、それだけでは必ずしも哲学的ということにはなりません。

 ここで霧子は、そうした思考実験(妖怪の話)を単なる可能性の話としてではなく事実の話として受け止めています。そして妖怪の話という哲学的な思考実験に対して自分がどう考えているのかを言うのです。霧子自身の感性から、自分自身の考えを述べることができているのです。しかもそれは常識的なもの(世の中の内部的な見方)ではないのです。霧子のこういうところに、私は哲学的なセンスを感じています。

 

 この発言を読んでいきましょう。

 この発言は、直前の「覚えたままにしてくれてよかった」に続けて発せられたものです。霧子はみんなやプロデューサーのことをいま覚えているということを「よかった」と思っています。それに続けて、霧子は「一緒にいられたら……」とこの発言をしています。霧子はみんなやプロデューサーと一緒にいられることを重視していることが分かります*9

 いまみんなやプロデューサーのことを覚えている。それはつまり、いまみんなやプロデューサーと一緒にいられている、ということです。霧子はそれゆえ「よかった」と言ったのだと考えられます。

 そして、霧子の実在論が現れるのは「この場所じゃなくっても…… いいから……」の個所です。「この場所じゃなくてもいい」というのはすなわち、妖怪による移動が生じていてもいいということです。

 プロデューサーが提示した、霧子も妖怪によって移されたのかもしれないという話は、「移されてきたのかも」という仮定の話です。ですがここで霧子はその仮定の話の中に深く入り込んでいます。「この場所じゃなくてもいい」と言うとき、まるで妖怪の話は事実であるかのようです。妖怪が移動させている(霧子のことも)というのは事実である、その上で、みんなやプロデューサーと一緒にいられる(覚えていられる)のならば、いまいる場所じゃなくても構わない……と言っているように読めます。

 妖怪が事物や人物を移動させたとしても、妖怪はそれらに関わった人間の記憶も操作してしまうので、誰もそのことに気づくことはできません。誰も記憶することができず、誰も気づくことができないようなことは、起きていないのと同じです。ですからそれは、起きていないのです。これが反実在論の立場の考えなのでした。

 ですが霧子はここで、妖怪による移動は実際に起きていて、いま記憶できている範囲を超えて、いま認識可能な領域を超えて、事物や人物の存在は連続していると考えています。それは夢と現実を越境してある事物や人物が同一の存在として連続するということと同様です。あるいは、別の世界からある人物や事物が同一の存在として連続性を持ったままこの世界に転移してくることにも似ています。

 ですが、記憶できている範囲を超えて、いま認識可能な領域を超えて、事物や人物の存在が持続するのだとしても、記憶や認識も一緒に連続するわけではありません。霧子もたぶんそのことを分かっています。ですから、「覚えたままにしてくれてよかった」と言っているのです。「覚えたまま」でいられるかどうかは霧子の意志で制御することができないからです。「覚えたまま」でいられるかどうかは、妖怪の手に握られているのです*10

 そして、みんなやプロデューサーのことを「覚えたまま」でいられるのなら、彼らと一緒にいられるのなら、妖怪による移動は起きていても構わないのです。一緒にいたいと願う人以外についての記憶は、忘れてしまっても構わない(全く別な風であっても構わない)という言外のニュアンスをここから読みとることができます。これは常識的な考えとは大きく異なるすごい考えなのではないでしょうか。記憶は自分が何者であるのかを構成するものであるはずで、記憶が違っていても構わないということは自分が何者であるのかが違っていても構わないということを意味するからです*11。ただし、何もかもが違っていてもいいというのではなく、霧子が一緒にいたいと願う人物についての記憶は残っていていることが重要です*12

 

・霧子の実在論

 以上から、霧子の独特な実在論を読み取ることができると思います。

 

 (a)事物や人物が夢と現実を越境して同一の存在として連続する

 (b)特定の人物と一緒にいられるなら(その人のことを覚えたままでいられるなら)、それ以外の記憶は違っていても構わないし、それに伴って自分がいまの自分と違う風の人間であっても構わない

 

 霧子がこういう風に、命題として自分の考えをはっきりと持っているかどうかは分かりません。たぶんその可能性はそこまで高くないと思います。ですが、霧子の話を聞いていると、こういう考え方(少なくとも思考の傾向や世界の見方)が霧子の中にあるのではないか、ということは言えそうな気がします。

 そしてそれは世の中を成り立たせるような、当たり前の常識的なものとは異なっています。霧子は、事物や人間の存在の持続に関して、世の中を成り立たせるために当たり前になっていることを当たり前としていないのです。こういうところに霧子の哲学的センスを見いだすことができると私は思います。哲学的思考とまでは言えなくとも、哲学的思考の種子がある。それゆえ、霧子には哲学的なセンスがあると言えると思うのです。

 以上のように「でんごん」コミュの中に哲学的センスを読み取ることができると思いますが、コミュはまだ続いています。それらを読んでいきましょう。

 

 

◇(4)もしいつか移動させられるようなことがあっても事務所のことを覚えていたい

・もしひょいってしちゃっても

  この場所じゃなくてもいいと言った後、霧子は「でも」と言って次の発言をします。

 

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この発言は今までと少し違うことを言っています。それは、妖怪による移動がこれから起こるかもしれないこととして、未来向きに考えられているということです*13

 当初妖怪の話が導入されたときに考えられていたのは、過去そういうことが起きたかもしれない、ということでした。妖怪は事物や人物を移動させると、それに関わった人間の記憶も操作してしまいます。それゆえその移動を記憶することは誰にもできず、誰もその移動に気づくことはできません反実在論の立場に立つなら、そうした移動は起きなかった、ということになりますし、そうしたことが起きたかもしれないと考えることに意味はありません。

 ですが、(3)の「覚えたままにしてくれて」を読んだときに確認したように、いまみんなやプロデューサーのことを覚えたままでいるという現在の記憶は確実です。いまそうした記憶があるということは確実なのです。

 そして、ここで霧子が考えているのは、未来にそうした移動が起きるかもしれないということです。過去向きには、移動が起きたことに気づくことはできません。反実在論の立場を採るならそうしたことを考えることにも意味はありません。ですが、いまみんなやプロデューサーについての記憶があるということは確実であり、そうした記憶がこれから失われてしまうかもしれない、と考えることには意味があるはずです。みんなやプロデューサーについての現在の記憶が、これから無くなってしまう(忘れてしまう)ということは、それがどういうことなのか想像できるように思われるからです。

 (3)の始めのところで、少しだけ私の考えを書かせていただきました。「あったのになかったことになる」ということが恐ろしいというお話です。私はこの未来向きの考えに対して特にそうした恐ろしさを感じます。いま記憶があるということは確実なことです。いま覚えているのですから、それは疑いようがありません。ですがこれは未来のいつかの時点で、妖怪の手によってきれいさっぱり消えてなくなってしまうかもしれないのです。あったことさえ忘れて、その証拠もなくなって、初めからそんなものなかったことになってしまうかもしれないのです。いま確かにここにあるのに! このことを考えると私はいつもヒヤッとします。

 過去向きの妖怪の話は、あったかもしれないものがもはやなくなっているということですが、未来向きには、いま確かにあるものがこれからなくなってしまうかもしれない、ということです。過去向きには妖怪のいたずらがあったことは確かめようがありません。それがあったとしてもなかったとしても、いま何かが変わるわけではありません

 ですが未来向きの妖怪の話は全く異なるのです。なくなってしまうかもしれない記憶は、いま確かに存在しているからです。いま確かにあるこの記憶がなくなってしまうということは、いまの私にとっては大きな変化なのです。

 このように、過去向きに考える場合と未来向きに考える場合では、妖怪による移動と記憶の操作は意味を変えるのです。

 

 霧子はこの発言の直前で、「この場所じゃなくてもいい」と言っています。みんなやプロデューサーと一緒にいられるなら、いまの場所やいまの境遇でなくても構わない、と。けれど霧子はここでさらに、「事務所のこと覚えていたい」と付け加えています。みんなやプロデューサーに並ぶものとして、事務所も霧子にとって大事なものになっているということがうかがえます。それはおそらく建物だけでなく、自分がアイドルであること、ユニットの仲間がいること、自分のプロデューサーがいること、といったことも含むのだと思います。

 (3)の終わりで、みんなやプロデューサーと一緒にいられるなら、霧子はいまの自分でなくても構わないと考えているのではないか、と読みました。ですがそれは部分的に訂正されます。自分がアイドルであるということ(ユニットメンバーがいてプロデューサーがいること)はそのままであってほしい、と。霧子は自分がアイドルであるということを失いたくないと思うほど、それに愛着を感じているということなのかもしれません。

 

 

・でんごん

  そして最後にこのコミュのタイトルとなっている「でんごん」の話が語られます。事務所のことを覚えていたいと言った霧子に対し、プロデューサーが「それじゃ伝言しておこうな」と言うのです。

 

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 実を言うと 私はこれをどう読めばいいのかよく分かりません。「誰もいない時に妖怪が来たら」というのは、「事務所に誰もいないときに事務所に妖怪が来たら」という意味でしょうか。直前まで霧子が妖怪に移動させられる話をしていましたが、ここで建物が移動させられる話に戻っています。ちょっと唐突な感じがします。

 遡って直前の霧子の発言を読み直してみると、霧子は「妖怪さんがもしひょいってしちゃってもここの事務所のこと覚えてたいです」と言っています。ここで妖怪が「ひょいって」するのは、霧子のことだと思い込んで読んでいましたが、これは実は事務所のことだったのでしょうか?

 霧子のこの発言を事務所のことだとして読んでみるとすると、霧子たちが事務所の中にいるときに妖怪が事務所に来れば霧子たちは事務所と一緒に移動できます。そうすれば霧子たちは事務所のことを覚えたままでいられます。

 プロデューサーが「誰もいない時に妖怪が来たら」と言ったのは、このことと対比してのことだったのでしょうか? ですが、「妖怪さんがもしひょいってしちゃっても」と霧子が言った文脈は、霧子が妖怪によって移されてきたという仮定の話なので、これを事務所のこととして聞くのはやはり唐突な感じがします。霧子ならばそうした唐突さもあえなくはないと思うのですが……

 

 また、「誰もいない時に妖怪が来たら、困るだろ?」の「困る」の主体は誰なのでしょうか。文脈から言って「困る」のは「ゼラニウムさん」や「ユキノシタさん」だと思うのですが、妖怪はゼラニウムさんやユキノシタさんの記憶は操作しないのでしょうか……? もし妖怪がゼラニウムさんやユキノシタさんの記憶も操作するのだとしたら、ゼラニウムさんやユキノシタさんに伝言しておくことはどういった効果をもたらせるのでしょうか……

 そもそもプロデューサーはゼラニウムさんやユキノシタさんに何を伝言しようと言ったのでしょうか。「伝言しなきゃ」と言っていますが、何を伝言することが必要だと思ったのでしょうか。霧子はこのプロデューサーの言葉を受けて何を理解し、何を伝言しようと思ったのでしょうか。私には分かりません……

 「誰もいない時に妖怪が来たら」というのがどういう状況なのか、不明瞭な気がしますし、その上ゼラニウムさんやユキノシタさんに何を伝言する必要があるのか何を伝言すれば「困る」ことがないのか、分からないのです……

 霧子とプロデューサーは、時折波長が合いすぎて説明抜きに話を展開させるところがあります。最たるものは【鱗・鱗・謹・賀】「なかみ」で突然始められるミニカー遊びです。ミニカー遊びをするプロデューサーに驚いた読者は少なくないと思いますが、霧子は嬉しそうにこの遊びに参加しています。あるいは2019年のクリスマスプレゼントのコミュ「赤と緑のシート」でも、2人は一緒になって遊んで一緒に笑っていました。2人はときどきすごく波長が合って読者を置いてけぼりにすることがあるように思います。

 今回のこの「伝言しなきゃ」も、そうした2人の波長が合わさった会話として読むことができるのかもしれません。どうして伝言が必要なのか、何を伝言すればゼラニウムさんやユキノシタさんが困らないのか、明確には語られていないのに、2人は通じ合っている(ように見える)からです。

 そして2人は読者を事務所の前に置いていくようにして、事務所の中へと消えていくのでした。

 

 

◇まとめ

 以上、かなり詳細に「でんごん」コミュを読んできました。妖怪の話の導入と霧子自身の考え方の提示から、霧子(のコミュ)の哲学的センスを読み取ってみました。もしそれが理解していただけたとしたら幸いに思います。

 最後にこれまでの話を常識的な世の中の内部から眺めなおしてみたいと思います。いままで霧子とプロデューサーに寄り添って読んできましたが、逆に常識的な世の中の内部からこの話を振り返ることで、その特異さが浮き彫りになると思うからです。それをもってコミュの読解のまとめとしたいと思います。

 

 妖怪の話をファンタジーやSFのお話としては受け取るとしても、それを実際に起きていることとして真に受ける人はあまりいないと思います。物体や人間が勝手に瞬間移動するというのは物理法則に反していて、どうにも起こりそうにもありません。そんなことが可能な妖怪も実在しそうにありません。

 5分前世界創造説や水槽の中の脳を、一時の面白いお話として聞く人はたくさんいると思います。同様に妖怪の話も面白がって聞く人は少なくないかもしれません。ですがそれが本当の本当に起きていることかもしれないと真に受ける人は多くないと思います。それを信じたところで日常生活そのものには何ら影響を与えません。ですからそれは信じるに値しない無意味なことだとされるのです。日常生活の前ではそうしたお話は無力で、たいていは仕事や家事や趣味を前にしてすぐに忘れられてしまいます。

 また、事物や人物が、夢と現実を越境して同一の存在として持続したりするということもありえません。夢は眠っている間に脳が作り出す単なる幻覚にすぎないからです。夢は確かに本当らしく現れますが、それは結局幻覚なのですし、どんなに本当っぽい出来事であってもそれは実際には起こらなかったことなのです。

 記憶が第3者に勝手に操作されるなんていうこともありえません。それにある時点よりも前の記憶が丸っきり後から作られた記憶だということもありえません。しかもそんな風に記憶が丸っきり作られたものだということに誰も気づくことができないなんてこともありえません。記憶違いのようなことはありますが、それは記憶の小さな一部分にすぎませんし、間違いに気づくことができるから記憶違いだと分かるのです。認知症や記憶喪失や妄想のように、記憶が全面的に失われたり書き換えられたりすることもありますが、それらは病気なのですし、それらの記憶が誤りであるという外的な証拠があるからそうだと分かるのです。

 自分が何者であるのかということの理解に、自分の過去の経験の記憶は重要な役割を果たします。多くの人は、自分が何者であるのかを示す自分の過去の経験に対して、愛着や憎しみ、あるいは後悔など情動的な態度を持っていると思います。愛しているにせよ憎んでいるにせよ、自分が経験してきたこと(の記憶)は自分が何者であるのか(の理解)に欠かせないと思う人が多いと思います。ならば、自分が経験してきたことの記憶は違うものであっても構わないと思う人は、そんなに多くないのではないかと思います。

 

 このように、常識的な世の中の内部から見れば、「でんごん」で語られる話はありえないことであって考える意味がないことだとされるはずです。霧子はそういう話を正面から受け止めて面白がり、それに対して真剣に考えを巡らせて自分の考えを提示するのです。そういいうところに霧子の哲学的センスが見えます。

 哲学が問題にすることは、世の中の内部で公認される問題ではない、という永井均の話を思い出してください。哲学が問題にするのは、そもそも世の中の成り立ちそのものにひそむ問題です。哲学の問題は、世の中の内部においては取り上げる必要のない無駄なこと、日常生活に影響を与えない無意味なことだとされてしまうのです。そうしたことに目を向けず、哲学者が疑問に思うようなものごとや観念をむしろ当たり前のこととして前提とすることで、そもそも世の中は成り立っているからです。

 このコミュで霧子とプロデューサーは、世の中の内部では問題として認められないようなことを話しています。特に霧子にとっては、それは単なる一時の面白いお話ではありません。単なる面白いお話以上のものとして、この話を受け止めることができるのが霧子です。それはすでに成り立っている世の中の内部だけで霧子が生きているわけではない、ということを示していると読めると思うのです。

 ひょっとすると「でんごん」というコミュ自体も、世の中の内部で5分前世界創造説や水槽の中の脳の話のように、ちょっと面白い哲学話みたいなものとして読まれているのかもしれません。あるいは、不思議な感性を持った女の子のちょっと変わった空想のお話みたいに。そういう受け止め方が間違った受け止め方だと言いたいわけではありません。そのことはどうかご理解ください。それに哲学というものが世の中の内部でどういう風に受け止められるかを考えれば、そうした受け止め方にも必然性があります。

 ですが、少なくとも私にとってはそうではありません。永井均が漫画の作者に対して感じた「魂の交流」を私は霧子に対して感じています。

 

 「私がマンガに求めるもの、それはある種の狂気である。現実を支配している約束事をまったく無視しているのに、内部にリアリティと整合性を保ち、それゆえこの現実を包み込んで、むしろその狂気こそがほんとうの現実ではないかと思わせる力があるような大狂気。そういう大狂気がなくては、私は生きて行けない。その狂気がそのままその作者の現実なのだと感じたとき、私は魂の交流を感じる。それゆえ、私がマンガに求めているものは、哲学なのである」(永井均,『マンガは哲学する』講談社,p.2)。

 

 もし「でんごん」に少しでも「哲学」を感じたのであれば、単に水面から水中の様子を見るために覗き込むだけでなく、深く水中の中を泳いでみてほしいと思うのです。そしておそらくは水中に自ずと沈んで行ってしまう人の一人である霧子のそういう性質のことにも思いを巡らせてみてほしいな、と思います。

 

 

 

 

◆おわりに

  当初予定していた文字数を大幅に超えてかなり長大な文章になってしまいました(脚注込みで35000字)。こんなに長い文章をここまで読んでくださった方に、心よりお礼申し上げます。シャニマスのコミュ、とりわけ幽谷霧子(のコミュ)に哲学的センスが見られるということをもし感じていただけたとしたら、とても嬉しいです。

 

 前回の記事を書いてから、アンティーカのシナリオイベント「ストーリー・ストーリー」と、新プロデュースシナリオのG.R.A.D.が実装され、私もそれらを読んで頭がいっぱいになっていました。特に私の推しの1人である杜野凛世のG.R.A.D.のシナリオは衝撃的で、いまだにどう読みとけばいいのかと考えてしまいます。霧子のG.R.A.D.が来たらどうなってしまうのでしょう……

 「ストーリー・ストーリ」に関しましては、ふせったーに霧子の発言の読解の試みを行った記事を投稿しておりますので、よろしければそちらも見てくださったら嬉しいです。

 

「存在することの真理――「ストーリー・ストーリー」の霧子を読む」

 https://fusetter.com/tw/myBGz5Zl#all 

 

 今後の予定ですが、次回はいよいよ哲学書の紹介に入りたいと思っております。最初はデカルトの『省察を予定しています。そこで霧子の【我・思・君・思】「かなかな」の話ができたらいいなと思っています。5月中に投稿できるかどうかわかりませんが、気長に待っていただけたらと思います。よろしければ次回もどうぞお付き合いください。

 今回ここまでお付き合いくださってありがとうございました。

 

 (2020年5月17日)

 

 

 

 

◆文献

マルコム,ノーマン,『ウィトゲンシュタイン』板坂元訳,1998,平凡社ライブラリー

永井均,1996,『〈子ども〉のための哲学』講談社現代新書

永井均,2000,『マンガは哲学する』講談社

永井均,2001,『転校生とブラック・ジャック岩波書店

永井均,2004,『私・今・そして神』講談社現代新書

ネーゲル,トマス,『哲学ってどんなこと?』岡本裕一朗・若松良樹訳,1993,昭和堂

 

 

<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス

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マンガは哲学する (岩波現代文庫)

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私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)

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哲学ってどんなこと?―とっても短い哲学入門
 

 

 

 

 

◆注

*1:「でんごん」はTRUEコミュで、TRUEコミュの話はネタバレ回避のために読解の対象にしない方がよいという考えもあるかもしれません。ですが、【夕・音・鳴・鳴】は恒常SSRであること、セレチケで入手する機会が何度かあったこと、登場から1年以上が経過していることから、読みたいと思っている方の多くはすでに読むことができているのではないかと考え、今回読解のテキストとして選択しました。その点どうかご理解ください。

 

*2:よく哲学は「常識を疑うもの」だと言われます。ですが水中を泳ぐことをこのように2種類に分けるなら、「常識を疑うもの」という哲学観はちょっと正確ではないという気がしてきます。

 確かに哲学は常識を疑ってはいます。ですがそれは、「常識を疑うために哲学する」というわけではありません。哲学者は自然と常識を疑ってしまっているのであって、あえて疑っているわけではないからです。この違いは、自然と水中に沈んでしまうということと、水面から潜って水中の様子を見るということの違いに相当します。

 水面で生活する人にとっては、哲学は「常識を疑うもの」に見えるのかもしれません。あるいは「世の中」を解体して見せてくれるものなのかもしれません。ですが、水中に沈んでしまう人は、あえてそれをやっているわけではないのです。

 

*3:起きたことに気づくことができないというのは、たとえば、本棚に乗っているホコリが1g別の棚に移動するというような、細かすぎて誰も気づかない、というようなことではありません。細かすぎるホコリの移動のような事象であっても、ホコリを高度な機械などを用いて厳密にチェックすればそれに気づくことは不可能ではありません。

 妖怪が起こすことはそういう細かな事象とは異なります。ここで考えているような妖怪が起こす事象は、記憶も証拠も同時に操作するので、原理的に気づくことが不可能なのです。原理的に気づくことができないようなことと、原理的に気づくことは可能なのだが現象が小さすぎて気づかないようなことは、違います。この違いは重要です。

 

*4:私はこの妖怪の話からデカルトの悪霊を連想するのですが、後に【我・思・君・思】でデカルトの話をしていることをいま事後的に思い出すと、その連想もあながち間違いではないかもしれないという気がしてきます。デカルトの悪霊もまた、本当は間違いであるような計算や推論を、それが正しいと思うように認識を操作するものです。

 

*5:これはラッセルの『心の分析』に登場するお話ですが、いま手元にその本がない上に現在は図書館を利用することができないので、このお話について書かれていている永井均の『私・今・そして神』(講談社現代新書)を参照しています。

 

*6:5分前世界創造説の方は世界丸ごとの創造になるので、世界の存在そのものの創造という問題がかかわってきます。妖怪の話においては、本当の過去は別の場所に建物が建っていたという別の過去にすぎませんが、5分前世界創造説においては、本当の過去は世界の存在すらない無です。

 文化的な観点から言えば、ラッセルの5分前世界創造説は無からの創造であり、キリスト教圏においてこれが可能なのは神のほかには誰もいません。建物を移動させ人間の記憶を操作することは無からの創造ではないので、神ほどの存在でなくてもそれは可能だと思われます(デカルトの悪霊のような)。

 

*7:これだけでなく、さらにsSR【君・空・我・空】をこの系列に連なる話として読む読み方もあります。1つ目のコミュを、2つ目のコミュの霧子が見ている夢として読む読み方です。詳しくは次のTogetterを参照してください。【君・空・我・空】幽谷霧子に夢中になる話 - Togetter

 

*8:さらにこの連続性には、見かけと存在という区別が見られます。越境して持続するのは見かけではなく存在の方です。

 ウサギ-アヒル図という錯視図形があります。その図形はウサギにもアヒルにも見えるのですが、図形としては一個(identical)です。ウサギに見えるかアヒルに見えるかというのが見かけの水準で、identicalな図形が存在です。「見かけ」は、それが何であるかという説明を与えるものです。そのものの性質や属性に置き換えられます。一方の「存在」は、そうした性質や属性に還元することができない、それそのものです。

 霧子のコミュの中には、こうしたウサギ‐アヒル図のようなものが繰り返し登場しています。たとえば【夕・音・鳴・鳴】「われたよ」のカップ。このカップは存在としては同一ですが、水を入れるカップと植物を植える鉢植えという2つの現れ方をします。あるいは【菜・菜・輪・舞】「銀の包み紙」の、包み紙で折られた指輪=時計。指輪と時計は見かけ上どちらともとれるものですが、その存在としてはそれは包み紙です(「お別れするときは」……)。そしてアンティーカの「ストーリー・ストーリー」では、物語を介したものとして視聴者にアンティーカを提示することを霧子は提案していますが、それに対するように、存在そのもののアンティーカにはどこにも嘘なんてないと言っています。

 このように、霧子の実在論には見かけと存在という区別があるように思えます。見かけは、夢と現実という区別や記憶や物語や物の見方の影響を受けるかもしれませんが、存在そのものはそれらを越境して持続する、という風に見えるのです。この点を見ると、やはり霧子は認識に対して存在を優位に捉える存在論者なのではないか、と思いたくなります。

 ですが、だからといって見かけの方を重視していないわけではない、と私は思います。割れてしまったカップに鉢植えとしての新たな役割を与えたりしているところにそれが見受けられます。「でんごん」のコミュの中でも、みんなやプロデューサーのことを現在覚えている(一緒にいられる)ことを喜んでいますし、このあと見ていくように事務所のことを覚えていたいとも言っています。見かけとしてのあり方がどうであるかということは、どのように生きていく(ことができる)かに道筋を与えるものだということなのかもしれません。

 

*9:霧子のほかのコミュを見てみると、霧子は誰かと一緒にいられることを重視しているように見えます。ここから、霧子が植物や事物をさん付けするのはどうしてなのかが見えてきます。

 霧子は、誰かと一緒にいられることに喜びを感じているようです。霧子は「楽しい」ということを頻繁に言うのですが、霧子が「楽しい」と言うときはきまって誰かと一緒にいるときです(特にアンティーカメンバー)。

 誰かと一緒にいるということに重きを置いているのだとすると、逆に霧子にとっての孤独とは、ということを考えたくなります。ですが霧子は一人でいることの寂しさや緊張感などについて自分で言うことはほとんどありません。

 霧子は自分の孤独についてほとんど言わないのですが、そのかわり、植物や事物の孤独を感じ取って、それらが寂しがっていたり緊張しているということを言います(コデマリさんなど)。

 このことを踏まえて、霧子が植物や事物に話しかけたり、さん付けして呼びかけたりする場面を見てみると、分かることがあります。それは、霧子は自分の寂しさや緊張感を感じ取る代わりに、植物や事物に寂しさや緊張感を感じ取っているようである、ということです。

 【白・白・白・祈】「そこにいますか、雪」で霧子は、雪に対して「雪はとってもえらいです」と声をかけたいと言います。雪は「緊張して降ってくる」と。重要なのは、プロデューサーが霧子に対して「霧子もそうだよ」と声をかけていることです。霧子が見る雪の姿に、プロデューサーから見る霧子の姿が重なるのです。

 ほかの場面を見てみても、霧子が植物や事物に語りかけたりさん付けして呼びかけたりするときには、霧子自身の中に寂しさや緊張感があることを読み取ることができます。

 ではなぜ植物や事物に語りかけ、さん付けをして呼びかけるのでしょうか。1つは、自分自身がそういう感情を抱いているということから防衛するために、対象にその感情を投影するということが考えられます。

 もう1つは、より霧子自身の言葉に即したものです。それは【鱗・鱗・謹・賀】「いこうね」で語られていたことですが、語りかけられさん付けされる植物や事物は、霧子の孤独や緊張を癒す隣人になるのです。

 霧子は誰かと一緒にいられることに重きをおいていて、一緒にいられることを「楽しい」と言います。語りかけられさん付けされる植物や事物は、霧子自身が寂しさや緊張感を抱いているときに、一緒にいてくれるものになるのだと考えられるのです。

 この霧子読解について、詳しくは私が以前書いた以下のふせったーの記事を参照してください。

 

「「おかえりなさい」と「ただいま」のその先に――幽谷霧子の世界観とさん付けされる隣人を通して」

@mokamokamasさんの伏せ字ツイート | fusetter(ふせったー)

 

 

*10:ここにも、見かけと存在の区別が現れています。存在は夢と現実を越境して、あるいは認識可能な領域を越境して持続することができますが、見かけの方はそうではありません。見かけは文字通り、認識に依存するものだからです。

 見かけはここでは、霧子がいまどこで暮らしていて、どういう人物で、という霧子が何者であるのかという属性です。そして、いま霧子が記憶している通りのみんなやプロデューサーについての記憶と、彼らとの関係性です。

 霧子がどこで暮らしていて、どういう人物で、みんなやプロデューサーとの関係はどんなもので、彼らのことを覚えていられるかどうか彼らと一緒にいられるかどうかは、妖怪の手に握られています。それを霧子は思い通りにはできません。ですから霧子は、妖怪に向かって「覚えたままにしてください」とお願いすることになります。これが(4)での主題になります。そしてこれは、【我・思・君・思】「かなかな」で、「次に会う咲耶さんもこの咲耶さんなら」と言ったのと同等です。このお願いは、祈りに似てないでしょうか。

 このように、夢と現実の越境、あるいは認識可能な領域の越境において、事物や人物の存在が持続するだけでなくその見かけも持続することを祈るというのは、アンティーカの感謝祭シナリオで霧子が祈っていたことと通じているのでしょうか?

 

*11:さらに見かけと存在の区別をふまえるなら、自分がどこに住んでいて、どんな暮らしをしていて、どういう人間なのか、という自分の性質も全く違う者であって構わない、と言えるかもしれません。

 見た目や性別や年齢などを変えてしまうのは妖怪でも難しいかもしれませんが(できると仮定することも可能だとは思います)、住所だけでなく、国籍や経歴や現在の職業などもすっかり変えてしまうことはできると思います。

 もし、自分が現在住んでいる地域や国籍や、自分の現在の職業や経歴に愛着を覚えている場合、それらが全く異なっていても構わない、というのはかなり強い主張だということが分かると思います。これらに愛着がなかったとしても、たとえば妖怪によって今日明日生きるのも過酷な環境の地域に移されてしまう、というようなことを考えてみたら、それは嫌だと思う人が多いのではないかと思います。

 もちろん霧子がここでそれほどのことを仮定しているとは言えません。ですがそれでも、霧子の言葉を文字通り受け止めるなら、こういう家庭も可能性の中に含まれてくるのです。少なくとも現在の霧子の住んでいる場所や境遇に関しては、全く異なっていたも構わないと思っているのは確かだと思います。これだけでも十分すごい考えです。

 

*12:この点は【我・思・君・思】「かなかな」で、「次に会う咲耶さんもこの咲耶さんなら」夢でも現実でもどちらでも構わない、と言ったことに通じています。

 

*13:以下の、過去向きに考える場合と未来向きに考える場合とで差が生じてくるという読み方は、永井均『転校生とブラック・ジャック』(岩波書店)「序章 火星に行った私は私か」の議論を参照しています